第10話,神の罰と聖女の光
処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。
フランス史上一番多くの処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。
1981年の地下室。父さんは手記をめくる手を止め、深く、重い溜息をついた。
「……この時代、女性の体は女性のものではなかった。それは『神のもの』であり、同時に『男たちの所有物』だったんだ。」
父さんは寂しげに天井を見上げた。
「望まない妊娠、貧困、性暴力。そのすべてのツケを女性だけが払わされる。今の価値観なら、彼女は間違いなく『聖女』だっただろう。だが当時のアンリ・サンソンには、最初、それを認めることが怖かったんだ。」
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1780年代後半、パリの裏町。
サンソンは、貧民街での治療の最中、ある初老の産婆と出会った。
彼女は、貴族の遊び捨てにされ、あるいは暴力によって望まぬ妊娠をし、絶望の淵にいる貧しい娘たちに「秘薬」を与えて堕胎を行い、彼女たちの社会的抹殺を防いでいた。
サンソンは敬虔なカトリック教徒だ。胎児の命を奪う行為は、教義への反逆であり、決して許されることではない。
――だが、彼はなぜか、彼女のボロ家へと足を運ぶのをやめられずにいた。
「……認められませんな。」
サンソンは、彼女が少女の手当てをする手際を見つめながら、低い声で言った。
「どんな事情があれ、命を摘むことは罪です。あなたのやっていることは、神の領域を侵す行為だ。私には、あなたに共感できない部分が多すぎる。」
産婆は、少女の額の汗を拭いながら、穏やかに微笑んで返した。
「ええ、先生のおっしゃる通りです。私は地獄へ落ちるでしょう。」
彼女の手技は、完璧だった。
正規の医師ですら見捨てるような汚れた部屋で、彼女は驚くべき清潔さと、高度な薬草の知識で、死にかけていた少女の命を繋ぎ止めていた。
サンソンの口は「罪だ」と告げている。だが、医師としての目は、彼女が救わなければ路地裏で野垂れ死んでいたであろう女性たちの「現実」と、彼女の技術への敬意を否定できなかった。
「……ならばなぜ、やめないのです。」
サンソンが問うと、彼女は悲しげに目を細めた。
「今ここで地獄を見ている娘たちを、放っておくことはできないからです。先生。教会は『産め』と言いますが、産まれた子が餓死する時、教会はミルクをくれますか? 男たちは責任を取りますか?」
サンソンは言葉に詰まった。
教義の正しさと、目の前の残酷な現実。
彼女は、サンソンが医師として救えない領域――「患者のその後」から、身を削って女性たちを救い出しているのではないか。
彼はその矛盾に気づかないふりをして、逃げるようにその場を立ち去った。
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――だが、数週間後。
サンソンの元に届いた処刑命令書を見て、彼は息を呑んだ。
あの産婆の名前が記されていたのだ。
彼女は「悪魔の薬を売り、神の秩序を乱す魔女」として捕らえられ、死刑判決を下されていた。
処刑の朝。
サンソンは、震える手で身支度を整えていた。
あの日、彼女を否定した。罪だと言った。だが……死んでほしいなどとは一度も思わなかった。
(なぜ……なぜ逃げなかったのだ。あなたは裏町の地理に詳しいはずだ。私の目が届かないどこかへ、消えてくれればよかったのに。)
純白のシャツ。深紅のフロックコート。
これまでは「悪党」を殺すための鎧だった。だが今日は違う。心の中に広がる、正体不明の濁った感情を押し殺すための服だ。
「……仕事の時間だ。」
※※※※※※※※※※
午後、広場。
処刑の形は「圧殺刑」。罪人を地面に寝かせ、その胸の上に巨大な石を次々と積み上げ、肺を押し潰して呼吸を止めるという、極めて残酷で時間のかかる刑罰だ。
台に縛り付けられた老婆は、自分の死を静かに受け入れていた。
サンソンは群衆の目を盗み、彼女の口元に耳を寄せた。
「……なぜ逃げなかった。あなたなら、捕まる前に姿を消せたはずだ。」
サンソンの問いに、老婆はサンソンを見上げ、穏やかに首を振った。
「私が逃げれば、私を頼った娘たちが詮索され、彼女たちの秘密が暴かれてしまいます。私が『魔女』としてすべてを背負って死ねば、あの子たちは救われる。」
「……彼女たちを妊娠させた男たちを恨まないのか。こんな理不尽な法を、世間を、あなたは憎くないのか!」
サンソンは思わず声を荒げた。だが、老婆の瞳には、憎悪の欠片もなかった。
「誰も恨みませんよ、ムッシュ・サンソン。彼らもまた、時代の弱き子らです。……私は、自分の命が誰かの明日を守れることを、誇りに思っています。」
その瞬間、サンソンの目には、泥と唾にまみれた老婆の姿が、教会のステンドグラスに描かれたどんな聖人よりも眩しい「光」を放っているように見えた。
(ああ……なんということだ。)
サンソンは打ちのめされた。
自分は教義を盾に彼女を「罪人」と断じた。だが、彼女は自らの命を犠牲にして、名もなき弱者たちを守ろうとしている。
本当に「罪」なのはどちらだ? 神の愛を説きながら、彼女を石積みの下へ送る自分か?
サンソンは、震える手で懐の小瓶を取り出した。あの日、彼女自身から教わった『昏睡の秘薬』だ。
「……飲んでくれ。せめて、痛みだけでも。」
「先生。あなたは、お優しい人だ。」
老婆は秘薬を飲み下し、サンソンを許すように微笑むと、やがて安らかな寝息を立て始めた。
無情にも刑が執行される。
助手の男たちが、数十キロの重石を次々と老婆の胸の上に積み上げていく。
メキッ、ボキッという肋骨が砕ける生々しい音が響き、肺が押し潰され、口から鮮血が溢れる。
だが、老婆の表情は穏やかなままで、彼女自身は深い眠りの中で、一切の痛みを感じることなく息を引き取った。
「ひゃははははッ! 見ろ、魔女が潰れたぞ!」
「神の罰だ! みだらな女たちの味方をするからこうなるんだ!」
広場を埋め尽くす群衆――その多くが、女を使い捨てにしてきた男たちだった――は、自らの罪を棚に上げ、彼女の死を「正義」として消費し、狂喜乱舞していた。
サンソンは、血まみれの手を握りしめ、立ち尽くしていた。
無垢な自己犠牲を行った彼女が裁かれ、諸悪の根源である男たちや社会構造は、傷一つ負わずに笑っている。
「本当の悪」は、決して法では裁かれないのだ。
(私は神の代理人などではない……。)
サンソンは、空になった薬瓶を懐に深く隠し、冷え切った広場を後にした。
人間は不完全だ。法もまた、不完全だ。
その不完全な物差しで、不完全な人間が他人を裁くことの、なんと恐ろしく、救いようのないことか。
この日、アンリ・サンソンの中で「法」と「正義」への信頼は、足元の石畳と共に粉々に砕け散ってしまったのである。
完全な処刑人。サンソンが革命を前に変化していきます。
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