第9話,炎の中に見えたもの
処刑人の家に生まれ、フランス革命前後のムッシュ・ド・パリ(処刑人)であり医師であったシャルル=アンリ・サンソンの物語。
フランス史上一番多くの処刑を執行した彼の数奇な運命を描きます。
1981年。
父さんはしばらく黙り込み、手記の余白を指でトントンと叩いた。
「……ここからだ。この日から、アンリ・サンソンの心の中の歯車は、少しずつおかしくなってしまったんだ。」
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1780年代の春。
白内障で完全に光を失い、絶望の淵にいた老人が、サンソン邸へ這うようにやってきた。
「先生……何も見えない。暗いんだ。もう生きている意味がない……。」
老人は枯れた涙を流しながら訴えた。
サンソンは極細の銀針を用意し、老人の頭を固定した。
麻酔などない時代だ。手がほんの数ミリでも震えれば、眼球を傷つけ、一生の闇を背負わせることになる。
「私を信じろ。絶対に動くな。……前を見ろ。」
針先が、濁った水晶体に触れる。
押し下げる。ほんの少し。呼吸一つぶんの繊細な力で。
老人が低く呻き、脂汗が床に落ちる。
だが、濁った白い膜が眼底へと沈んだ瞬間、老人の瞳が大きく見開かれた。
「……見える。先生の顔が……光が、見えるぞ!」
老人はサンソンの手を取って、子供のように泣きじゃくった。
サンソンもまた、胸の奥が熱くなるのを感じていた。“医者として人を救う喜び”を、彼は久しぶりに純粋な形で噛み締めていたのだ。
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――数日後。処刑命令が届く。
標的は、エレーヌ。
愛人を作るために夫と義理の家族の食事に微量の毒を盛り続け、数年かけて彼らの視力と聴力を奪い、完全な暗闇と静寂の中で狂死させた恐るべき毒婦だ。
判決は「火あぶりの刑」。
処刑の朝。
サンソンは純白のシャツを着て、深紅のコートを羽織る。
重い。硬い。血の匂いがひどく臭い。
数日前の「医者としての喜び」が大きかった分だけ、人を殺すためのこの服が、今日は耐え難いほど重く感じられた。
「……仕事の時間だ。」
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午後、広場。集まった群衆は
「生きたまま焼け!」
「悪魔を炭にしろ!」
と口々に叫んでいた。
大量の薪が積まれ、太い柱が立ち、縛り付けるための縄が張られている。
サンソンは、群衆に気づかれないよう“できるだけ早く意識を奪う”ための細工を施していた。足元の死角に湿った藁と生木を大量に仕込み、不完全燃焼による白煙(一酸化炭素)を発生させる準備だ。
痛みで絶叫する前に、脳を深く眠らせる。それがサンソンなりの“慈悲”だった。
松明が投げ込まれ、火が放たれた。
「熱いっ! 嫌だ、助け……!」
エレーヌは短く悲鳴を上げたが、一酸化炭素を大量に含んだ白い煙が彼女の顔を包み込むと、数秒で白目を剥き、首をガクリと垂らして気を失った。
意識のない肉体を、猛烈な炎が包み込む。皮膚が爆ぜ、脂肪が焦げる不快な音が広場に響き渡った。
観衆は皆、大声で笑っていた。血に飢えた祭りの絵だ。
だが、その狂熱の群衆の最前列に、サンソンは見覚えのある顔を見つけてしまった。
あの老人だ。
数日前、自分が繊細な針の治療で、光を与えたあの老人だった。
老人は、猛烈に燃え上がる炎と、黒焦げになっていく女の肉体を、恍惚とした表情で食い入るように見つめていた。
「……おお、なんと美しい光だ。悪魔が燃えているのが、よく見えるぞ。」
老人のその呟きは、炎の爆ぜる音を突き抜けて、サンソンの鼓膜に直接突き刺さった。
サンソンは激しい吐き気に襲われ、後ずさりした。
白手袋を見つめる。煤で黒く汚れ、焦げた肉の赤い匂いがべっとりとこびりついている。
(私は、彼に真実を見るための目を与えたのではなかったのか。残酷な死のショーを、特等席で楽しむための目を与えてしまったのか。)
医者として救った命が、処刑人としての自分の殺戮を娯楽として消費している。
この圧倒的な矛盾と虚無感が、サンソンの心を根底から打ち砕いた。
その夜。
サンソンは地下室の手記の端に、震え、乱れた字でこう書き殴った。
――いつか、人をあやめる、私のこの手が要らなくなる時が来ればいい。
完全な処刑人。サンソンが革命を前に変化していきます。
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