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プロローグ~地下室の木箱~

フランスで最多の処刑執行を請け負ったムシッシュ・ド・パリの物語が始まります。

1981年10月9日、パリ。


リビングのテレビからは、低く落ち着いた男の声が流れていた。

法務大臣ロベール・バダンテール。死刑廃止の法案が成立したことを、彼は全フランスに向けて告げている。


「……明日から、フランスに死刑はありません。」


その言葉が、部屋の空気を変えた気がした。

喜びでも、怒りでもない。何百年分もの溜息が凝固したような、重たい沈黙が落ちてきた。


父さんは、テレビを見ていなかった。

いつものように感情を顔に出さない。冷めてゆくコーヒーには目もくれず、ただ、玄関に置かれた古い、黒ずんだ真鍮の鍵束を握りしめていた。


「やっと解放される……地下に、行くぞ。」


短い命令だった。

僕は頷いた。父さんが「印刷工」という表の顔の裏で、何をしてきた男なのか、僕は知っている。だが、一度も口にはしなかった。聞けば、父さんの体という名の輪転機が、音を立てて壊れてしまう気がしたからだ。


地下室の扉を開けると、冷たい空気が顔に当たった。

湿った石壁。古い木材の匂い。油の匂い。そして――鉄がかつて生暖かい血を吸ったときにだけ放つ、あの独特な金属の匂いだ。


父さんは、裸電球の紐を引いた。

黄色い光が、番号の振られた木箱の群れを浮かび上がらせる。


「寄贈する。」


父さんは油布を広げながら言った。


「持っていく。博物館だか、国の保管庫だか……とにかく、公の場所へだ。」


僕も手伝い、箱の釘を抜く。

中から出てきたのは、もはや博物館でしかお目にかかれないはずの野蛮な道具たちだ。

革のベルト。鉄の輪。そして、四肢を叩き砕くための、樫の柄がついた重い槌。刃には、いくら磨いても落ちなかったであろう、薄茶色の筋が幾重にも残っている。


父さんはそれらを淡々と包んでいく。手つきは丁寧だ。普段、印刷所で紙を扱うときのように正確で、無駄がない。


「最後のギロチンは、四年前だった。」


釘を一本、まっすぐ抜きながら父さんは言った。


「……1977年9月。あれで、終わったんだ。」


終わった。なのに、まだここには道具がある。僕たちは今、それを梱包している。

父さんは箱を閉じ、釘を打ち直した。カン、カン、と乾いた音が地下室に響く。

その音が、規則正しく回る輪転機の音のようで、ひどく怖かった。


「父さん。」


僕は、ずっと胸の中にしまってきた言葉を絞り出した。


「……今日で、もう……。」


父さんの手が止まった。ほんの一瞬だけ。息が止まったみたいに。

だが父さんは、すぐに続きを始めた。釘を打ち、紐を締める。

そして僕の問いには答えぬまま、別の箱の前に移動した。


その箱だけ、番号がない。埃の積もり方が違い、まるですべての歴史から隔絶されているようだった。

父さんはそこに膝をつき、鍵束から小さな鍵を選んだ。南京錠を外す音が、静寂に響く。

蓋を開けると、そこにあったのは道具ではない――布で巻かれた、一冊の分厚い本だった。

角が擦り切れ、背の部分が割れた私記だ。


「これは、寄贈しない。……私たちが、持ち続けるものだ。」


「……なに、これ?」


受け取った僕の手が一瞬、沈む。それは紙の重さではない。数千人分の「最期」の質量だ。


「シャルル=アンリ・サンソンの私記だ。」


父さんは、地下室の空気ごと握りつぶすような声で続けた。


「いいか、よく聞け。僕たちが、あの高名なサンソン家の血を引いているわけではない。だが、因果というものは残酷だ。サンソン家が絶えた後も、この忌まわしい『ムッシュ・ド・パリ』という役目だけは、誰かが継承しなければならなかった。

国家がその手を汚さないために、適格と見なされた“家”が代々その名を継ぎ、死神の世襲を強いられてきたんだ。私が、そしてお前が、その因果の果てに立っている。」


父さんは、インクの染みた軍手を脱ぎ、大きな白い手を電球に晒した。

印刷所の輪転機を回し、文字を刻んできた手。だが、この手こそがサンソンから始まった絶望のクランクを回し続けてきたのだ。


「死刑をやめろと訴えながら、そのくせ、いちばん多く首を落とした男。制度という化け物に、魂を食いつぶされた男の記録だ。」


父は言葉を飲む。

僕は聞き返す。


「記録に嘘はないの?」


「これは記録であり日記だ。日記に嘘なんて誰も書かない。これは、叫びなんだよ。」


父さんは息を吐いた。普段は言葉の少ない父さんが、地下室の裸電球の下で、熱を帯びたように喋り続けている。


「お前は、知っているはずだ。私が印刷工の顔の裏で、何をしてきたか。」


僕は頷いた。知ってしまった。でも、見ないふりをしていた。

父さんの手にある、取れないインクの染みが、本当は何を洗った跡なのかを。


「だから、これも読め。お前が、大人になった。そして呪われた宿命から解放されたからこそ。」


僕は本を抱え直した。ページを開くのが怖い。開いた瞬間、今の自分を支えている何かが、戻れなくなる気がした。


「テレビじゃ、死刑が消えたと言う。制度は消える。……だがな。」


父さんは、静かに首を横に振った。


「形が変わるだけだ。」


そう言って、父さんは地下室の椅子を引いた。

僕も、反対側の木箱に腰を下ろした。


「最初の話は、医者の話だ。」


父さんは、僕を見据えて言った。


「フランス革命の頃。

治す手と、殺す手が、まったく同じだった時代の話だ。彼はそれを、血の涙を流しながら書き残した。」


父さんは、ほんの少しだけ視線を落とし、次に顔を上げた。


「……どちらも彼の仕事だった。」


その言葉は、合図のように地下室の静寂を切り裂いた。

父さんの目の奥に、18世紀のパリ、死臭と熱狂に満ちた広場の景色が映り始めた。


僕は、サンソンの私記の第一ページを開いた。

史実では、シャルル=アンリ・サンソンの回想録(手記)は、のちにサンソン家の末裔によって世に出た――とも言われています。


ただ本作は、サンソン家そのものではなく、その役目を相続した一族“実在のムッシュ・ド・パリ”が、死刑廃止の夜に「処刑人」から解放される場面から始まります。


次回以降は、フランス革命前後、アンリ=サンソンが医者として人を救い、処刑人として「悪人」を裁く――その数奇な人生を描いていきます。


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