おれはエルフだ
――これって……エルフ、だよな?
休日の朝。寝ぼけ眼のまま洗面所の鏡を覗き込んだおれは、思わず息を呑んだ。
両耳が――尖っている。
耳輪がピンと天に向かって伸び、耳たぶはすっかり消えていた。映画やゲームで見た、あの典型的な“エルフ耳”。まさにそれだった。
いったいなんでこうなったんだ……。昨夜の記憶をいくら掘り返しても、何一つ思い当たらない。痛みはなく、触るとわずかにコリコリと硬い感触があるだけだ。
「エルフだ……」
おれは呟いた。すると、ふつふつと実感が湧いてきた。こうしてはいられない。
おれは近所の美容院に電話し、縮毛矯正の予約を入れた。エルフの髪はまっすぐでなければならない。
夕飯は野菜だけにした。エルフは肉を食わないのだ。鼻を入念にマッサージしたら高く整って、ますますおれはエルフに近づいた気がした。
そして月曜日。おれは意気揚々と出社した。
急ごしらえではあったものの、効果はてきめんだった。同僚たちはおれの姿を見るなり息を呑み、目を見開いた。
そうだろう、そうだろう。おれはエルフなのだ。
しかし、誰も話しかけてこない。遠巻きにヒソヒソと囁き合うばかりだ。おそらく、おれが本物のエルフなのか確信が持てないのだろう。
おれは席について、暗いモニターに自分の顔を映しながら鼻歌を口ずさんだ。声をかけられる瞬間を心待ちにして。
「おい、おいって……頼んだやつは? やったのか?」
背後から同僚が声をかけてきた。おれはゆっくり椅子を回し、にこりと微笑んだ。
「ああ、どうも」
「どうもって……はあ」
「ふふっ、朝からため息ですか? 気分が落ち込んだときには、ハーブティーがおすすめですよ」
「あ? この……サボってんじゃねーよ、ゴブリンがよ!」
――えっ?
「……ゴブリン? 今、ゴブリンって言いましたか? 僕のことを?」
「なんだよ……あ、訴える気か? もう好きにしろよ! 言っとくけど、みんな思ってるからな!」
周囲を見渡すと、同僚たち全員がこちらを見ていた。その顔には明らかな嫌悪と軽蔑が滲んでいた。
おかしい。何を言っているんだ。そんなはずはない。違う。違う。おれはゴブリンなんかじゃない。
「この耳を見てくれよ! エルフだろ!」
おれは立ち上がって、同僚に詰め寄った。
そして、耳を見せようとつまんで引っ張った――その瞬間だった。
――ブシュ!
まるでテッポウウオが水を撃つように、血が勢いよく噴き出した。
「あああああああ!?」
噴き出した血は同僚の顔面に直撃し、目鼻口に流れ込み、彼は悲鳴を上げて倒れ込んだ。
まさかと思い、もう片方の耳もぐっと押してみる。すると、そこからも勢いよく血が噴き出し、机やパソコン、書類へ赤い飛沫を撒き散らし、カーペットの上に生々しい軌跡を描いた。
袖に血が飛んだ女の同僚が、悲鳴を上げながら椅子を蹴飛ばして立ち上がり、ハムスターを踏み潰したかのように泣き叫んだ。
「違う! 違うんだ!」
おれは両手を前に突き出し、必死にみんなに訴えた。おれはゴブリンなんかじゃない。エルフなんだ。
その間も血は止まらず、円を描くように周囲に散り続けた。やがて勢いが弱まると、同僚たちは怒りに満ちた顔で一斉に詰め寄ってきた。
「前から思ってたけど、あんた不潔なのよ!」
「だから避けられてたの気づいてなかったの!?」
「キモイ!」
「どーすんだよ、これえ!」
「やめちまえよ!」
「違う! おれは――」
一歩踏み出しただけで、連中は揃って飛び退いた。
だが次の瞬間、誰かの蹴りが飛んできて、そこからは堰を切ったように暴力がなだれ込んできた。
背中を殴られ、足を蹴られ、おれは床に倒れ込んだ。それでも連中は執拗に蹴り続けた。顔を踏みつけられた拍子に、鼻から膿が飛び散り、さらに悲鳴が上がった。暴行は激しさを増し、カーペットには膿の塊がゼリーのように丸く残り、じわじわと染み込んでいく。
功名心に駆られたのか、誰かが制汗スプレーとライターを構え――火が走った。
「ぶぎいいあああああああああっ!」
顔が焼けるように熱い。いや、焼けている……焼けているのだ……! 髪の焦げる臭いが鼻腔を満たす。床を必死に転げ回ると、連中はまた悲鳴を上げた。
ようやく火が消え、おれが動かなくなった頃、連中は少し冷静さを取り戻したのか、遠巻きにおれを見下ろしながら囁き合った。
おれはゆっくり立ち上がった。
「おれは……悪魔だ」
次の瞬間、おれは近くにいた同僚に飛びかかり、耳に噛みついた。耳たぶを食いちぎろうとしたが、歯がほとんどなくなっていることに気づき、断念した。代わりに首、肩、腕と手当たり次第に噛みついた。止めに入る者にも容赦なく噛みつき、その場は阿鼻叫喚、地獄絵図、B級ホラー。この日、会社は臨時休業となった。
――翌日。おれはいつも通り出社した。
最初に手を出したのは向こうであり、互いに訴えないという形で、お咎めなしになったのだ。
耳はすっかり血が抜け、ほとんど元の形に戻っていた。
ただし、職場の空気は凍りついている。誰もおれと目を合わせようとせず、腫れもの扱いだ。もっとも、実際に腫れていたわけだが。
だが、いいのだ。おれは今の状態のほうが気に入っている。エルフのように称賛されないなら、恐れられるほうがいい。
おれは悪魔だ。あるいは――。
噛みついた同僚に目をやる。奴の耳は赤黒く腫れ上がり、先端が鋭く尖っていた。
おれはもしかすると、吸血鬼なのかもしれない。




