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嘘つきでブサイクな私と、デブで臆病な夫の政略結婚

 祝福の鐘が鳴るたびに、誰かが小さく舌打ちする。

 重厚な教会の中で、その音は妙に響いた。


 リディア・カートライトは、祝福の鐘が鳴る中でも、どこか他人事のように祭壇へと歩いていた。


 ドレスは立派だった。だが彼女の体は、その豪華な布地の中に消えてしまいそうなほど細く、“飢えを知る体”の輪郭を隠しきれなかった。


 リディアは、伯爵とその侍女の間に生まれた娘だった。

 世間的には存在しないことになっている“庶子”。

 母は早くに亡くなり、父の屋敷で育てられはしたが、それは「飼われていた」に近かった。


 —“あの子”は、ここにはいなかったことにして。


 そう言ったのは、姉だった。

 まだリディアが十二歳の頃。

 父親の正式な娘、名門の嫡出子。淡い金髪に水色のドレスがよく似合うその姉は、リディアの顔を一度も見ずに言った。


 「お父様がご好意で家に置いてやってるだけでしょう。私たちと並んで座らないで」


 その日から、リディアの席は食堂の隅の、使用人の近くに置かれた小さな椅子になった。

 冷めたスープ、崩れたパン。

 皆が食べ終えた後に与えられるその残り物すら、たまに「贅沢」と叱られた。


 口答えをすれば「育ててもらってるだけありがたいと思いなさい」。

 微笑めば「なにを気取ってるの」。

 黙っていれば「無愛想で陰気だ」と笑われた。


 母親——愛人だった女中出身の女は、リディアが八歳のときに病死した。

 看病も看取りもさせてもらえなかった。


 「庶子なんてものは、いずれ処分するものよ」

 継母が言ったその言葉を、今でもはっきり覚えている。



 だから、政略結婚の話が出たとき、伯爵家はほっとしていた。

 「ようやく“あの子”を追い出せる」と。


 相手は、子爵家の若き当主。

 若いが、社交界では“鈍重な豚”“家柄だけの男”と陰口を叩かれていた。

 肥満体型、臆病な性格、鈍くさい振る舞い。

 “人気のない男”として、貴族の娘たちからは徹底的に避けられていた。


 それがどうだ。

 「ちょうどいい」「あの子にふさわしい」「お似合いじゃないか」と、家族は笑った。


 「あの子は顔も悪いし、癖もあるし、誰にも嫁げないと思ってたのに」


 リディアは黙っていた。

 怒らなかった。泣きもしなかった。


 ただ、笑った。

 それが、自分に唯一許された“防衛”だったから。



 控室の椅子に腰かけたまま、リディアはそっと視線を下げる。

 痩せすぎた手が、ドレスの生地をそっとつまむ。


 (この布の中の私が、本物の花嫁に見えたらいいのに)


 誰も来なかった式場。

 伯爵も、継母も、姉も兄も。

 誰も、最初から来るつもりなどなかった。

 リディアの席に届いた花瓶の花は、街の花屋で自分で注文して手配したものだ。


 「お父様からのお花なんですの。ちゃんとお祝いしてくださって……」


 セシルにそう言ったのは、ただ嘘が習慣になっているからだった。


 期待しない。望まない。頼らない。

 そうしないと、壊れてしまうから。

 だから今日も、完璧な笑みで、真っ赤な嘘をついた。



 二人きりになった控室で、セシルは重たい沈黙の中に座っていた。


 ドスンと音を立てて椅子に腰を下ろすと、腹の肉がきつめの礼服のボタンを圧迫し、呼吸が苦しくなった。


 目の前には、リディア。

 瘦せすぎていて、影のように座っている。

 ドレスが余るほどの体。表情の乏しい顔。虚飾と嘘で塗り固めた笑み。


 怖かった。

 その“作り物の笑顔”が。

 その“平然とした振る舞い”が。


 (なんで、あんな女と結婚しなきゃいけなかったんだ)


 彼女は有名な“嘘つき”だ。

 伯爵家の庶子。

 使用人と変わらない扱いを受けてきた娘。

 美しくもなければ、教養もない。

 ガリガリで、目つきがきつくて、笑っていてもどこか刺々しい。


 セシルは目を逸らした。視線を合わせることができない。


 そして、耐えられなくなった。


 「……君に、話しておくべきことがある」


 リディアが顔を向けた。

 何も言わず、ただ待っている。


 セシルは息を吸った。


 「僕には、……愛人がいる」


 リディアは瞬きもしなかった。


 「クラリッサという女性だ。僕が唯一、本音を話せる相手で……今も、気持ちは彼女にある」


 苦し紛れの嘘だった。

 本当は、クラリッサはただの幼なじみ。

 心を許せる“昔の友達”にすぎない。

 けれど、この結婚から逃げたくて、リディアに“嫌われたくて”言った。


 (こんな嘘を信じてくれ……離れてくれ……こんな怖い女とは、やっていけない)


 リディアは静かに笑った。

 皮膚の下で骨が浮き、頬が引きつるようなその笑みは、まるで冷たい仮面のようだった。


 「そうですの。……それは、残念ですわね」


 声は、なめらかだった。

 まるで、“結婚式のあとに愛人の存在を知らされた新婦”という役を演じているかのような、完璧なセリフ回しだった。


 「でも大丈夫ですわ。わたくし、愛されなくても生きていけるんですのよ。慣れておりますから」


 その言葉に、セシルの胸が一瞬だけざわついた。


 けれど彼は、それを打ち消すように目を閉じた。


 (よし。これで距離を置ける。……僕は悪くない。これは自衛だ)


 そう言い聞かせながらも、リディアの言葉が耳に残っていた。


 ——愛されなくても、生きていける。


 それは、強がりか、それとも……。



 朝の光が、ダマになったレースのカーテンを透かして差し込む。

 リディアは目を開けた。

 枕が硬い。部屋が広い。空気がよそよそしい。


 (ああ、そうだったわ。結婚したのよね、わたくし)


 そう自分に言い聞かせる。

 昨夜はほとんど眠れなかった。広すぎるベッドにひとり。音も光も、何もかもが“過剰”で、体が落ち着かなかった。初夜はもちろんなかった。まあ、愛人を愛しているのだから当然だろう。


 食事もほとんど取らなかった。

 胃が小さく、食べると吐きそうになる。伯爵家で食事をほとんど与えられていなかったからか、もの心ついた時からそうだった。



 ダイニングでは、セシルが先に座っていた。

 テーブルの片側いっぱいに並ぶ料理の山——ソーセージ、卵、焼きトマト、甘いパンとバター。


 セシルは背中を丸め、黙って食べていた。

 ぽっこりとした腹。肩まで届く背肉。

 スプーンの扱いは丁寧だが、ぎこちない。動きにリズムがなく、何かに怯えるような仕草だった。


 「おはようございます、セシル様」


 リディアは椅子に腰を下ろし、作り笑いを浮かべながら挨拶した。


 「……ああ。おはようございます」


 目を合わせようとしない。相変わらずだ。


 彼女の前に置かれたのは、白粥と薄いスープだけだった。

 自分で「軽くていい」と言ったせいだが、食欲はまったく湧かない。


 セシルがチラリと彼女の皿を見た。


 「……それだけ、で?」


 「ええ。これくらいで、わたくしには十分ですの」


 笑いながら言ったが、セシルは眉をひそめた。


 「痩せすぎですよ。……というか、あの、昨日も、ほとんど食べてなかったような……」


 「ご心配には及びません。慣れておりますので」


 その言葉を聞いて、セシルが微かに顔をしかめた。

 昨日の控室でも、同じことを言われた気がする。



 食後、リディアはふらつきながら部屋を出た。

 大きな窓から差し込む日差しが、皮膚にじりじりと刺さる。


 歩き慣れない広い廊下。

 薄い靴音が響くたびに、自分の存在がこの屋敷に“馴染んでいない”と実感する。


 (ふさわしくない。……でも、じゃあ誰がふさわしいの?)


 そう思った瞬間、誰かが彼女の後ろから走ってきた。


 「ちょっと待ってください、リディアさん!」


 振り返ると、息を切らしたセシルがそこにいた。

 太った体で、よくもこんな距離を——と意外に思う。


 セシルは手に包みを持っていた。


 「……さっきの、ごはん……食べづらいかなと思って。これ、クラリッサがよく作ってくれるやつで……甘くて、柔らかくて……」


 差し出されたのは、小さなハーブ入りの焼き菓子だった。


 リディアはそれをじっと見つめた。

 愛人のクラリッサが作ったものだと言われたので、断リたかった。

 けれど、なぜか言葉が出なかった。


 セシルの目が、初めて彼女を真正面から見ていたからだ。


 「……ありがとう、ございます」


 それが、リディアが結婚して初めて口にした、“嘘じゃない心のこもった言葉”だった。


 翌朝。ダイニングの空気は、いつもと変わらず重たかった。


 セシルはいつもより控えめな量のパンを前にして黙々と食べている。

 リディアの前には、白粥とスープ。


 「……あの、昨日の焼き菓子……お口に合いましたか?」


 セシルが唐突に口を開いた。リディアは少しだけ、目を見開いた。


 「ええ、まあ……あたたかい味でしたわ」


 それが最大限の素直だった。

 セシルはほっとしたように小さく笑った。


 そして、次の瞬間——


 「……ッ」


 リディアの手からスプーンが落ち、身体がふらりと傾いた。

 視界がぐらりと揺れる。


 「リディアさん!?」


 セシルが慌てて席を立ち、倒れそうになるリディアの身体を支えた。

 細い。軽い。あまりに軽くて、恐怖すら覚える。



 目を覚ましたとき、リディアはベッドの上にいた。

 カーテン越しに光が差し、空気が静かに揺れている。


 セシルの姿が視界に入った。椅子に座り、こちらをじっと見ている。


 「あ……」


 「目が覚めた。よかった……」


 セシルの声は震えていた。

 リディアは起き上がろうとして、彼に軽く制止される。


 「無理しないでください。寝てていいです」


 「……大丈夫ですわ。少し、ふらついただけですの」


 その言葉に、セシルの眉が跳ね上がる。


 「それ、嘘だってバレてますから!」


 びしっと指まで差されて、リディアは思わず口をつぐんだ。


 「“慣れてる”とか“平気”とか……全部、嘘でしょ? だって、身体が訴えてる。全然大丈夫じゃないって」


 リディアは唇を引き結んだ。


 「……嘘をつかないと、生きてこられなかったの」


 セシルが一瞬、息を呑んだ。

 リディアの声は震えてはいなかったが、どこか硬かった。


 「本当のことを言っても、誰も助けてくれなかった。なら、嘘で笑ってた方が、少しはましなのよ」


 その告白は、リディアの“本音”だった。

 セシルは、ただ黙って、それを受け止めた。


 そして、静かに言った。


 「……ちゃんと食べてください。お願いです。リディアさんがまた倒れたら……僕、どうしたらいいか分からない」


 リディアの目が、少しだけ揺れた。

 胸の奥に、ふっと何かが落ちた。


 「……でも、わたくしだけが頑張るのは嫌ですわ」


 「え?」


 「わたくしが無理して頑張ってご飯を食べるのに、セシル様はパンやバターで幸せ〜じゃ、不公平でしょう?」


 それはリディアにとって、人生初の“わがまま”だった。


 セシルは目を丸くしたあと、ふっと微笑んだ。


 「……分かりました。じゃあ、一緒に頑張りましょう。僕も、ちゃんとした食事に変えます」


 「本当に?」


 「本当はこの食事が不健康で太るものだってわかっていたんです。でも毎日色んなことが不安で、脂っこいものや甘いものをたくさん食べると落ち着けるから、食べてしまっていたんです。一緒に健康的なご飯を食べましょう。」



 その日から、ふたりの暮らしは少しだけ変わった。


 朝食に野菜スープが加わり、セシルのパンの量は半分に、リディアのお粥はパンになった。

 おやつにはリディアが小さな果物の盛り合わせを用意し、セシルがそれを笑って食べた。


 お互いの生活に、“優しさのしずく”が少しずつ染み込んでいった。


 朝食のメニューが、また少し変わっていた。


 焼いたかぼちゃのペーストと、豆のスープ。

 甘く煮た果物に、薄く切ったパン。

 すべて、重くなく、胃にやさしいよう工夫されていた。


 「すごいな……これは誰のアイデア?」


 セシルがスプーンを手にしながら、目を丸くする。

 リディアは少し頬を赤らめた。


 「わたくしと料理人の合作ですの。……セシル様の胃にも、負担が少ないはずですわ」


 「うん……たしかに、食べやすい。……ありがとう」


 セシルの口調には、素直な感謝がこもっていた。

 それがなぜか、リディアの胸に小さくあたたかい灯を灯す。



 最近、2人は毎朝のように食卓で話をするようになっていた。

 内容は他愛ないものが多かったが、それが心地よかった。


 ある朝、ふとリディアが言った。


 「ねぇ、セシル様……地図って、どうやって読むのかしら?」


 セシルは驚いたように目を上げた。


 「……えっと、場所によって記号があって、等高線がこう……って、ごめんなさい、説明が下手ですね」


 リディアはくすりと笑う。


 「いいんですの。……実は、わたくし、本当に何も知らなくて」


 スープの縁を指でなぞりながら、リディアは少し視線を落とした。


 「子供の頃、屋敷の外に出してもらえませんでしたの。教えてくれる人もいませんでしたし……。でも最近、セシル様の話を聞いていて、思うのです。知らないことを“知る”のって、きっと楽しいって」


 その声は、どこか緊張していた。

 笑っていたけれど、目はまっすぐで、真剣だった。


 セシルは、ゆっくりと頷いた。


 「……勉強、してみたいんですね」


 「……はい」


 リディアが小さく頷いたとき、セシルは心から微笑んだ。


 「だったら、家庭教師を呼びましょうか。教養のある女性で、僕も昔お世話になっていた方がいます」


 リディアは驚いて、目を大きく見開いた。


 「……いいんですの?」


 「もちろん。あなたが“知りたい”って言ってくれたの、嬉しいですから」


 それは、リディアが初めて誰かに“未来への協力”を申し出られた瞬間だった。


 涙が出そうになるのを、必死でこらえて、彼女は笑った。


 「ありがとうございます。……わたくし、やってみますわ」



 その週の末、セシルの紹介でやって来た家庭教師は、落ち着いた雰囲気の中年女性だった。

 貴族の礼儀作法から、経済・商務の基本まで教えられるという。


 最初の授業を終えた夜、リディアは、初めて心から弾んだ声で言った。


 「わたくし、きっと“駄目”だと思っていたのに……今日、思いましたの。“やればできる”って」


 セシルは頷いた。


 「うん。リディアさんは、もともと賢い人ですから」


 「それ、嘘じゃないですの?」


 「……本当ですよ。僕、嘘下手ですし」


 2人は、ふっと笑い合った。



 数日後。

 セシルは役所に向かう途中、小さな市場の前で足を止めていた。


 数人の商人が並ぶ前で、手元の帳簿を見ながら苦戦している。


 (……ええと、この品目は昨年と比べて——)


 「セシル様。そちら、金額が前年の帳簿とズレてますわ。ほら、この欄」


 すっと差し出された指。

 いつの間にか隣に立っていたリディアが、自然に声をかけていた。


 セシルは驚きながらも、すぐに気づいた。


 「……これ、授業でやったところ?」


 「ええ。先生が“すぐ忘れるから実地で使いなさい”って。だから……お役に立てそうならと」


 「……すごい。ありがとう。助かった」


 そう言ったセシルの声には、ほんのりと尊敬の色が混じっていた。


 リディアは微笑み、肩をすくめる。


 「セシル様も、もう少し堂々となさってくださいませ。あたふたなさってると、余計に舐められますわよ」


 「う……はい、努力します……」



 “ブサイクで嘘つきな庶子”と、“デブで臆病な若様”。

 最悪の組み合わせだったはずの二人が、

 いまでは小さな歯車のように、お互いを少しずつ支え始めていた。


 午後の陽が差し込む中、屋敷にひとりの訪問客が現れた。


 「クラリッサ・ベール様がお見えです」


 執事の報告に、リディアは一瞬まばたきをした。

 セシルも紅茶を口に運ぶ手を止める。


 「……あれ、今日来るって言ってたっけ?」


 「いいえ。わたくしも、伺っておりません」


 リディアは静かに立ち上がり、礼儀正しく微笑む。


 「ご挨拶はしておきましょう」



 応接室に通されたクラリッサは、変わらぬ美しさだった。

 金色の巻き髪に、上品なピンクのドレス。澄んだ笑顔を浮かべている。


 「突然の訪問、申し訳ありませんわ。少し、お顔を見たくなってしまって」


 「ようこそいらっしゃいました、クラリッサ様」


 リディアはやや距離を置いた位置に腰を下ろした。

 セシルの隣には座らず、間に小さなテーブルを挟む。


 クラリッサは少し不思議そうにそれを見て、セシルの方に向き直る。


 「セシル様、ずいぶんと……お痩せになって?」


 「え、そうかな……あはは、最近ちょっと健康的な食事にしてて」


 セシルは照れたように頭を掻く。


 「でも……本当に変わられましたわね。お顔立ちも、すっきりして」


 リディアは紅茶をすするふりをして、視線を伏せた。



 「リディア様も……なんだか、とても、お綺麗になられて……」


 その言葉に、リディアはふと顔を上げた。


 「そうかしら。……少し、肉付きが戻っただけですわ」


 「いえ、本当に。以前より……ふんわりされて、華やかですの。並んで座っておられると、素敵なご夫婦に見えますわ」


 クラリッサのその言葉に、セシルもリディアも、ぴたりと動きを止めた。



 リディアは、薄く笑って言った。


 「クラリッサ様とご一緒の時間を邪魔しては申し訳ありませんわね。わたくし、席を外しましょうか」


 クラリッサは目をぱちぱちさせた。


 「……? どういう意味ですの?」


 「だって……セシル様がおっしゃっていましたもの。『クラリッサ様が愛人だ』って」


 紅茶のカップを持つクラリッサの手が止まった。

 その横で、セシルの口から盛大に吹き出した咳。


 「……え、あ!? それ、あああああ、嘘!! 嘘だった!!ってか、そんなこと言ったの忘れてた!!ごめんっっ!!」


 クラリッサとリディアが同時にセシルを見る。


 セシルは真っ赤な顔で立ち上がり、バタバタと手を振る。


 「その……結婚のときに、僕、ビビってて……リディアさんと結婚したくないとか、そんなんで……! 思わず嘘ついちゃって! ほんとにごめん!! クラリッサには何も言ってない、勝手に、使っちゃってて!!」


 リディアは眉をひそめる。

 クラリッサはぽかんとしたまま。



 「……え? わたくし、愛人扱いされていたんですの?」


 「ご、ごめん、本当にごめん!!」


 「わたくし、知らないところで愛人にされて……? 名誉毀損では?」


 「ほんとうにほんとうにごめんなさい!!!」



 部屋の空気がしんと静まった。


 リディアが口を開く。


 「……今は、どうなんですの?」


 「え?」


 「あなたの気持ちですわ。わたくしはまだ、追い払いたい存在ですの?」


 セシルはしばらく口ごもり、やがて小さく首を横に振った。


 「……違う。今は、リディアさんを……愛してる」


 クラリッサが目を見張る。

 リディアの頬が、一気に赤く染まる。


 「い、今……なんと?」


 「……君を、愛してる、って。あれ? 言っちゃった?」


 「う、うそ……本当に?」


 「ほんと……! 愛してる。嘘じゃない。今は君と一緒にいるのが、一番幸せだ」


 「……え、ええ……。……う、嬉しいですわ」


 2人は赤くなりながら、目をそらして向き直り——

 ちょうどその瞬間、クラリッサが咳払いをした。



 「……お幸せそうで、なによりですわ」


 セシルとリディアは同時に「すみません……」と縮こまる。


 クラリッサは少し拗ねたように言った。


 「でも、セシル様が“わたくしを愛人だと嘘ついた”というのは、しばらく許しませんわ」


 「はい、本当に申し訳ないです……!」



 帰り際、クラリッサがもう一度リディアに言った。


 「リディア様、わたくし、今日確信しましたの。あなたは、もう“嘘をつかなくても愛される人”ですわ」


 リディアは目を瞬かせ、頬にほんのり笑みを浮かべる。


 「……ありがとう、クラリッサ。君が今日来てくれて、よかった」


 「愛人扱いした人にそう言われるとは思いませんでしたけれど……ふふ、許してさしあげます」


 3人は、静かに笑い合った。



子爵領の春は柔らかかった。市が開かれる村道では、行商人の笑い声と野菜や果物の香りが混ざり合う。

リディアとセシルは、農作物の販路拡大プロジェクトについて話しながら、馬車で屋敷へ戻っていた。


「穫れ高も順調ですし、来月には新しい倉庫が間に合いそうですね」

セシルの声には、自信と誇らしいニュアンスが刻まれている。


「ええ。村人たちがあれほど笑ってくれるなら、どんな批判も吹き飛びますわ」

リディアはふんわり微笑み返した。   


そんなとき——


「リディア様、これをお預かりしました」

執事が差し出す封書に、彼女は一瞬だけ視線を強めた。


応接間に戻り、リディアは礼儀正しく紅茶を勧められてから封筒を開けた。

筆跡は「異母兄」。彼女の心に、冷たい波紋が広がる。


「貴子爵家が取り組む農事業は、王都にて高い評価を受けています。

つきましては我が伯爵家も、新たな織物工房を設立する計画でございます。

つきましては、ぜひ貴家の投資を検討いただきたく、書状をお送り申し上げます」


一見、尊敬を示す文だが、その裏には必死さが染みていた。

リディアはゆっくりと顔を上げ、言った。


「セシル様……これは“協力要請”ではありません。明らかに、“助けてくれ”という嘆願ですわ」



セシルは封書を受け取り、荒々しく書類を開いた。


「ふざけるな……。あいつら、自分が『愛人の子』だって言ってた人を嘲笑ったくせに、今さら助けてくれだと?」


リディアは静かな声でセシルを制した。


「彼らがこっちを“必要とする”立場になる。それだけでも十分ですわ。私たちにとっては“チャンス”です」


「チャンスって?」


「これを……利用して、私の“地位”を公に刻むのです」


その言葉にセシルは静かに目を見開いた。


翌朝、リディアは返書を認印押印しながら、考えを整理していた。

①「リディアを伯爵家の“正式な娘”として、社交界で紹介すること」

②「その事実を公的文書でも証明すること」


この2つを要求いたします。


封書には、静かで毅然とした署名があった。


「破産しかけた伯爵家が、私の名前で救済を受けるのなら、それも構いませんわ」

「ですが、そのためには“娘として”認める努力をお願いいたします」


リディアはふと、セシルに微笑みかけた。


「玉座の上で“膝をつく相手”が、どちらか見てみたいですもの」


数日後、返書が届いたのは夕刻だった。庭の白百合が夕陽に照らされている。


「——“条件を全て受け入れる”とのことです」


執事が報告し、セシルは深く息をついた。


「君、本当に……強いな」

リディアは窓越しの庭を見ながら、静かに答える。


「強くなったわけではありません。ただ、“自分を守る方法”がわかっただけですわ」


――その日の夜、天蓋付きベッドの中で、

セシルはリディアをそっと包み込みながら囁いた。


「これからは、君が望む未来を……君と一緒に越えていきたい」


リディアは目を閉じ、そっと頷いた。



王都の宮廷晩餐会――それは、年に一度開かれる貴族たちの社交の頂点。

煌めくシャンデリア、高価なシルクのテーブルクロス、金糸の縁取りが施されたカトラリー。

どれもこれも、目が眩むほどの豪奢さだった。


そんな中、人々の注目を一身に集めていたのは、アルドレッド子爵夫妻――


セシル・アルドレッドと、リディア・アルドレッドだった。


「セシル様、なんだか視線が……多くありません?」


「そりゃあ、君が綺麗だからだよ」


「……またそうやって。今日だけで三回目ですわ」


深紅のドレスをまとったリディアが、ほんのり頬を染めて目を逸らす。

隣に立つセシルは以前のような気弱な様子はもうなく、引き締まった体に似合う黒の礼装を自然に着こなしていた。


見惚れている貴族夫人たちが、会場のあちこちで囁き合う。


「まさかあの子爵様が、こんなに立派になられるなんて……」

「奥様のドレスもお似合い。まるで別人みたいね」


二人は、噂と視線を受けながらも、堂々と社交の輪へと足を踏み入れる。


そんなときだった。


――カツ、カツ。


ホールの床に響いた足音が、場の空気を一変させた。


「アルバート・カートライト伯爵と、ご子息のご入場です」


場内が静まり返る。


入ってきたのは、リディアの実の父――アルバート・カートライト伯爵と、嫡男だった。


(……来るとは、思っていましたけれど)


リディアはドレスの裾を指先でつまみながら、目を細める。


伯爵とジュリアンは、どこかぎこちない足取りで歩いてくる。

その顔に浮かぶのは、プライドと焦りと――少しの羞恥だった。


やがて、司会が告げた。


「伯爵閣下より、ご紹介のお時間を頂戴しております」


壇上に立ったアルバート伯爵は、周囲を見回してから、重々しい声を発した。


「この場をお借りして、皆様に一つお伝えしたいことがございます」


ざわつく会場。


「私、アルバート・カートライトには……これまで公にすることのなかった実の娘が一人、おります」


「その者の名は――リディア・アルドレッド」


リディアが小さく息を呑んだ。


(父上が……私を“娘”と、呼んだ……?)


場内の空気が一瞬、凍りついたように感じられた。

けれど次の瞬間、リディアはドレスの裾を持ち上げ、小さく一礼する。


「伯爵閣下。ご紹介、ありがとうございます」


声は、ふるえなかった。


「……突然でしたので、驚きましたけれど。とても……嬉しく思います」


ふんわりと微笑んで、くるりと小さく回って――


「このような素敵な場で、ご挨拶の機会をいただけたこと、感謝しております」


その一言で、空気が一変した。


「あんなに、可愛い令嬢だったの……?」

「あの笑顔……信じられない。あれが“あの庶子”って……」


ざわつきは、やがて賞賛の拍手へと変わっていく。


義母と義姉は凍りつき、周囲の空気に完全に押し負けていた。



賛辞と拍手が鳴り止まぬ会場の片隅で、

カートライト伯爵家の夫人――リディアの義母が、白い手袋を強く握りしめていた。


(あの子が……あの娘が、こんなふうに人々の称賛を浴びるなんて)


つい数年前まで、リディアは貧相で、ドレスの似合わない醜い子だった。

それが今や、品位と可愛げを持ち合わせた社交界の寵児。


「……まさか、こんなふうに返ってくるなんて」


隣に立つ義姉のジュリエッタもまた、引きつった笑顔を張りつけながら小さく震えていた。


「嘘……うそよ……リディアが……あの庶子が、こんなに拍手されて……」


ふと、自分がどんな顔をしているのかに気づいて、慌てて扇子で口元を隠す。


けれど、周囲の誰も彼女たちを見ていなかった。

誰も、賞賛も憐れみも、もう“そこ”には向けていない。


ただ、“アルドレッド子爵夫人”として紹介されたリディアだけが、まっすぐに光の中に立っていた。



一方、壇の脇で立ち尽くすアルバート・カートライト伯爵と、その息子ジュノ。

二人は拍手の波に包まれながら、静かに目を伏せた。


ジュノがぽつりと漏らす。


「……綺麗になったな、リディア。知らない間に、ずいぶんと」


伯爵は黙ったまま、ひとつだけ、長く深いため息を吐いた。


「……娘に、礼を言われるとはな」


「……」


「あの子に“ありがとう”と言われると思わなかった。もっと可愛がってやりたかった。」


その声は決して悔しさではなく――

むしろ、“嬉しさ”と“情けなさ”の混じったような、老いた父の呟きだった。



リディアはそんな彼らに一瞥もくれず、セシルの隣で堂々と笑っていた。

過去はもう、彼女の背後にしかない。


そしてその背を、父と義兄はただ――

まぶしそうに、見送ることしかできなかった。


晩餐会が終わった深夜――


王都の石畳の通りを、黒い馬車が静かに走っていた。

その車内で、セシルとリディアは向かい合って座っていた。


柔らかな揺れの中、リディアはふと、窓の外を見つめながら呟く。


「……なんだか、夢みたいですわね」


「晩餐会のこと?」


「ええ。まさか……父が、あんなふうに“娘”と認めてくれるなんて」


リディアは笑った。

けれどその笑顔は、少しだけ寂しげで――どこか懐かしさを帯びていた。


「子どもの頃、一度だけ、“誕生日におめでとう”って言ってくれたことがあるんですの」


「……うん」


「嬉しくて。嘘でもいいから、また言ってほしいって、何度も嘘を重ねましたわ」


セシルは静かに彼女を見つめる。


「今日、“ありがとう”って言えたの、すごくかっこよかった」


「……ふふ、あれは、少し頑張りましたのよ?」


「うん。でもね――本当のことを言えるようになった君が、僕は大好きだ」


リディアは一瞬、目を見開いて、赤くなった頬を隠すように顔を伏せた。


「……また、突然そういうことを言いますのね……」


「でも、大事なことだから」


セシルはそっとリディアの手を握った。


「僕は、最初は臆病で、逃げてばかりだった。でも、君と一緒に頑張ってきたことで、変われた。

だから、僕にとって君は……ただの妻じゃない。人生そのものなんだ」


リディアの瞳に、静かに涙が浮かぶ。


「……そんなの、ずるいですわ。私だって……あなたのおかげで、ちゃんと大人になれたんですもの」


彼女は小さく微笑み、震える声で続ける。


「もう嘘をつかなくても、“私はここにいていい”って、思えるようになりましたのよ」


その言葉に、セシルはふっと微笑んで――


「うん。そしてね、これからも……」


彼は少しだけリディアに体を寄せて、真っすぐに見つめた。


「君と一緒に、ずっと成長していきたい。もっと強くなって、もっと支え合って、

――いつか、子爵領で一番の夫婦になろうよ」


リディアは、はっとして目を見開いた。


「……っ、本当に……ずるいですわ、セシル様」


そう言って彼女は、そっとセシルの肩に寄りかかる。


「でも……はい。私も、そう思っていましたの。これからも、ずっと一緒に――」


馬車の中、二人の影は月明かりに包まれて揺れていた。


それは、これから始まる未来のための、最初の静かな誓いだった。



最後までお読みいただきありがとうございました。

この話は理想の恋愛について考えていたときに、「最初はどちらも未熟者同士だけど、一緒に成長を続けていけるカップルっていいな」って思ったことがきっかけで書きました。

よろしければ、感想・いいねなどいただけると嬉しいです!今後の創作の参考にさせていただきます。

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辛い生い立ちのリディアと気弱ながらも心優しいセシルの関係が丁寧にそして温かく描かれていてとても感動しました。セシルが愛人の嘘をついてまでリディアを遠ざけようとしたシーンからの二人の間に少しずつ信頼と愛…
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