マリアンヌ
ロングソードがマリアンヌの頭上を狙い突き出されるや、
彼女は愛用のレイピアを抜き放った。
鋼と鋼が交わり合う金属音が室内に谺し、
一瞬の閃光がふたりの交差を切り取る。
マリアンヌの私室には、
身分に相応しく小規模ながらも
訓練用の広間が設けられていた。
そこには武器や古いオールドブラッド諸家の紋章が
飾られている。
レナール家伝来の白狐の旗は、かつて地上で生息していた狼や
他の絶滅した生物を模した紋章の並びに掲げられ、
ランプに囚われたウィル・オ・ウィスプの青白い火が
広間を照らしていた。
マリアンヌは左手を背中に回し、あくまで守勢に徹する構えを取り、
訓練相手である従者ベルナールの斬撃を見極めながら受け流す。
彼の武器はロングソードで、
マリアンヌの華麗なスピードに対して
ベルナールの一撃は質量の面から圧倒的な迫力をもって応じる。
しかも彼は疲労を知らぬ――
生者とは異なり息継ぎの必要すらないからだ。
そのため、一撃ごとが初撃と変わらぬ重みを保つ。
生きている者のみが「疲れ」という弱点を背負う。
ベルナールの最初の一撃は、
もしマリアンヌのレイピアが“ソウルバウンド”の力を帯びていなければ、
容易く折られていただろう。
レナール家の始祖であるリュシアンは名高き剣士であり、
死後、自らの魂を愛剣へ封じ込み、
子孫を守る遺志を託したという。
この特別な力を宿す剣は、
強大な魔術によらなければ破壊されることはない。
さらに、血を浴びれば彼の魂が
鋼の内で蠢くような感覚をマリアンヌはしばしば感じ取っていた。
彼女は、ベルナールが踏み込みの勢いを露わにした
ほんの刹那の隙を狙おうと待ち構えたが、
従者の動きに破綻は見られない。
いつの間にか瞳は赤く染まり、
その剣撃はさらに速度を増している。
無謀に受け流せば、下手をすれば壁際へ叩きつけられるだけで済めばよいほう――
そう判断したマリアンヌは、
“ブラッド”の力に訴えかけ、
己の脚力を強化した。
ベルナールの鋼が身体を斬り裂く直前、
マリアンヌは疾風のように跳躍し、危うい軌道を避けつつ
従者の頭上を越える。
空中からレイピアを突き降ろそうとするが、
ベルナールはすかさずその身を淡い霧へと変化させる。
通常であればソウルバウンドの剣なら
霧状になった相手でもダメージを与えられるはずだが、
ベルナールは自らの流動性を活かし、
剣の軌道を蜃気楼のごとくすり抜けてみせた。
――構わない。
マリアンヌはしなやかに着地し、次なる反撃に備える。
すぐにそのときが来た。
霧のように散ったベルナールは、
マリアンヌの死角に再び人の形を結び、
ロングソードを突き出してくる。
その牙は短剣のごとく尖り、爪は猛獣のように伸びている。
動きは洞窟の獅子をも凌ぐ俊敏さで、
回避は難しい――
そこでマリアンヌは左手を使う決断を下す。
咄嗟に魔術を流し込み、掌と指を鋼にも匹敵する硬度の骨に変化させたのだ。
強化された筋力を合わせ、まさに奇襲するようにロングソードの刃を掴み取る。
手袋を裂いて鋼が肉に食い込むものの、
鋼化した指骨が剣の進撃を止めた。
同時に、マリアンヌのレイピアがベルナールの喉元を射抜くように伸びる。
その瞬間、ベルナールの一撃の圧力が
床板を軋ませるほど重くのしかかったが、
彼女もまた“ブラッド”の力で身体を強化している。
わずかなあいだ踏みとどまり、
ベルナールが繰り出した全力の突撃を押し返すように耐えきった。
その結果、彼は自らの勢いを殺しきれず、
マリアンヌの剣先が一歩も退かぬまま首筋に届く寸前で止まる。
「今日はここまでにしておきましょう」
マリアンヌは相手のロングソードを解き放ち、
自らのレイピアを鞘へ収める。
「いかがでしょう、別の方をお相手に選ばれては」
ベルナールはロングソードを壁際に飾られた武器架へ戻しながら勧める。
脇には戦斧やハルバードも収められている。
「すでに、我が腕などでは奥方の剣技の鍛錬には不足かと」
「パラプレクス全土を見渡しても、あなたほどの剣士はいないわ」
マリアンヌは肩で呼吸を整えつつ言った。
本気の手合わせで、彼女をここまで息切れさせる者は数少ない。
「――もちろん、私を除いてはね」
「ありがたきお言葉ですが、
その実、もはや私程度では奥方の腕前向上に寄与できないかと」
ベルナールは背筋を伸ばし、牙と赤い眼が人間の姿に戻る。
「いっそ帝国最強の戦士と名高いベトール卿に
手合わせをお願いしては?」
「闇の領主がおいそれと、こんな私人の稽古などにつきあってはくれませんわ」
とマリアンヌは肩をすくめる。
ベトール卿は帝国軍を統率し、デルロ王国との辺境を守る大将でもある。
マリアンヌ自身、かつてはオーク卿ではなく
ベトール卿の宮廷に身を置く道もあったが、
もしあちらへ行っていれば、
いまごろ帝国外の敵と戦っていたかもしれない。
――それはそれで、自分がいつかは不死の軍門に下る未来だったかもしれない、
と彼女は想像する。
「ま、退屈な日常を過ごすと腕が鈍るのは確かだし、
こうして体を動かしておけば勘が鈍らずに済むでしょう。
だからこそ、まだまだ付き合ってもらうわよ」
マリアンヌ自身は“ブラッド”の素養に乏しいほうで、
小さな術であれば効率的に扱えるものの、
壮大な召喚術などを扱うほどの魔力は備えていない。
したがって、鍛え上げた肉体能力を中心に
補助として魔術を使う実戦的な戦闘スタイルを好む。
身体そのものが武器であり、レイピアの鋭さを補強するのだ。
ただし銃撃術の稽古だけはままならない。
弾丸のコストは安価だが、火薬は法外なまでに高価で、
崩落を防ぐ目的から政府によって使用が厳しく制限されている。
オーク卿から支給された給金もあるとはいえ、
彼女は無駄遣いを好まない質だった。
かつて家族にほぼ追放され、金に困った時期があったため、
いつでも備蓄を持っておきたいのだ。
「では奥方、朝の茶はいかがなさいます?」
ベルナールが深く礼をしながら問う。
「お願い。
あと、新聞も持ってきてちょうだい」
マリアンヌは訓練の最中に斬れた手袋を見下ろす。
左手の骨甲冑を解いてしまえば、
そこには深い切れ込みがある。
とはいえ、もはや慣れた作業だ。
彼女は針仕事を厭わない。
やがて寝室へ戻ると、
そこは質素だが優美な意匠が刻まれた大理石の壁で飾られていた。
ステンドグラスの窓からは庭の生垣迷路が一望できる。
その光景は彼女にとって、どんな絵画よりも魅力的だ。
枕元には読みかけの小説が山積みで、
『時計止め職人の苦悩』や『鉛色の月』などの装丁が見える。
最後のほうのページを読み進めている最中に、
オーク卿から新たな任務が届いたのだった。
「あなたがいなかったら、私の生活はどうなっていたかしらね」
マリアンヌは椅子に腰掛け、手袋に針を通しながらふと漏らす。
母であれば「そんな下働きは貴女のすることではない」と叱ったろう。
どこか懐かしい気持ちに駆られるが、
今のマリアンヌは貴族の作法や愛憎の渦巻く宮廷から遠ざかり、
自分らしく生きられる状況を得ていることを
誇らしく思っている。
彼女の過去の世界から唯一変わらずに付き従ってくれたのが、
吸血鬼の従者であるベルナールだ。
レナール家に数世紀にわたり仕え、
忠義を曲げたことは一度としてない。
マリアンヌが皇都を追われ、
オーク卿の庇護を求めてパラプレクスへ逃れたときも、
彼は何の躊躇もなく従ってくれたのだ。
「きっと奥方は、お茶屋めぐりに金を使い潰していたに違いありませんよ」
ベルナールは茶と共に新聞を運んできた。
地底で生きる木は希少ゆえ紙の価格が高く、
そのため新聞は巨大キノコから錬成された代替紙で作られ、
二週間も経てば腐り落ちるようになっている。
マリアンヌは茶を受け取りつつ見出しを読み上げる。
> 「アンダーランド急行、来月の開通式を予定」
> 「アリウス領近くの崩落事故で死者64名」
> 「聖光教会、新たな集会で地上再征服を嘆願へ」
> 「デルロ兵が国境付近に出没――新たな戦火は避けられぬか?」
――地上再征服、ね。
聖光を信ずるマリアンヌではあるが、
ホワイトムーンの到来で太陽が奪われ、
闇と怪物の巣窟と化した地上を取り戻すという構想には
あまり現実味を感じられない。
むしろオーク卿らが提唱する「他世界への移住」のほうが
まだ可能性があると彼女は考えていた。
デルロに関する記事には予想通りの内容が並ぶ。
帝国国境付近の坑道で敵ゴーレムの活動が活発化し、
狂気と暴虐で知られるデルロ王オットーの残虐譚――。
チェインの騎士たちは、帝国に不安を与える情報を
必要に応じて覆い隠す術に長けており、
どこまでが真実でどこからが宣伝かを見極めるのは
日に日に難しくなっているのが現状だった。
チェインの騎士たちの考えにも一理ある。
体の強い相手には精神を狙うのがセオリーであり、
帝国民の心に揺らぎを与えることで
ストレンジャー(異界の神々)信徒が
暗闇からささやき、信者を増やしてきた歴史がある。
無用な動揺を避けるため、情報を統制することも
やむを得ない面はあろう。
しかし公的な教義と矛盾する知識をすべて焼き払い、
民衆を無知のままに囲ってしまえば、
いざ敵と対峙するとき何の備えもできなくなる。
プレローマ学院が比較的自由な議論を許すのは、
マリアンヌにとっては救いだった。
――オットーに“狂王”の異名があるのも伊達ではない、か。
そう考えながら、彼女は茶をすする。
新王は狂気の闇を纏いながら、見事なまでに手練手管をふるう危険な相手だ。
「オーク卿が、儀式の間で奥方をお呼びです」
とベルナールが告げる。
「何の要件かしら」
「件の新参者に“火の試練”を受けさせるとか」
ベルナールは、軽蔑を含むような口調で言う。
「ヴァルデマールのこと?
お気に召さないようね」
マリアンヌは苦笑する。
ベルナールは基本的に、初対面の相手を信用しない性格でもあるが。
「もっとも、あなたは誰にでも辛辣だわ」
「匂い、です。奥方」
彼は眉間に皺を寄せる。
「匂い? 私にはとくに感じられないけれど」
マリアンヌが首をかしげると、
ベルナールは神妙な面持ちで言葉を継ぐ。
「奥方はまだ生身の人間だから気づかれないだけです。
あの男には、私の知るどの種族とも違う忌まわしい臭気が纏わりついている。
学院の動物たちも察知して、近寄ろうとしません」
――祖父が異界の出身だとか言っていたけれど、それと関係があるのかしら。
マリアンヌは半信半疑のまま肯定も否定もしない。
オーク卿が確率を否定しない以上、
何かしら根拠があるのだろう。
「まあ、万一のことがあってもオーク卿が対処するでしょう」
彼女は茶を飲み干す。
「仕方ないわね、行きましょうか」
「承知いたしました」
朝食を切り上げ、マリアンヌはベルナールを部屋に残したまま
“儀式の間”へと向かう。
そこはプレローマ学院の北端に位置する地下空間で、
古来より危険な魔術を行使しても周囲に影響が及ばぬよう
周到に結界が張り巡らされている。
彼女は二体の重装屍兵に守られた螺旋階段を下り、
漆黒の石で形成された門をくぐる。
青い魔力障壁が瞬いているが、
彼女の身分を認めるかのように無害に通り抜けさせてくれた。
そこは古代文明――かつてこの洞窟に住まっていた
“プレロミア人”なる種族が造り上げた大きな円蓋状のドーム空間だった。
中央を支える12本の柱はいずれも、要塞中央にそびえる黒き柱と
同じ油じみた漆黒の石で造られている。
天井は10メートル以上の高さがあり、
壁には異形の巨人が邪悪なモノリスを囲み拝む情景を描いた
古いモザイクが敷き詰められている。
多くの学者は、これらがかつての“プレロミア人”の信仰を示す
図像だと推測していた。
オーク卿は二本の柱のあいだに立ち、
山積みの書物と絵画、その上に小さなオルゴールのような品々を眺めている。
どれもヴァルデマールが逮捕された際、
異端審問官たちに押収された私物であろう。
そして中央の大きな赤い立方体――
魔力で形成された檻の内側には、
ヴァルデマールと、
彼を引き裂かんとする虫型の戦獣が封じ込められていた。
その生物は、
バイオマンサーたちが生みだしたキメラで、
ほとんど三メートル近い巨体を有す。
下肢は蜘蛛のような脚、
上半身は洞窟蟹めいた外骨格を帯び、
長い首と複数の眼、ランプreyのような円口を備える――
凄惨な実験の末に完成した怪物が想像に難くない。
当然のように魔術耐性を高められており、
ヴァルデマールも遠隔で頭部を潰そうとする術が効かないらしく、
丸腰のまま、両腕のハサミに追い回されている。
石床に落ちている小石を投げつけるしか術はないらしい。
「やあ、マリアンヌ嬢。ちょうどいいところに来たね」
オーク卿は彼女に気づき、穏やかに笑みを浮かべる。
ドームの中心では、ヴァルデマールが歯を食いしばりながら
怪物に追われ回り、血だらけの床を駆け巡っていた。
「これほどの危険を……本当に必要なのでしょうか」
マリアンヌはできるだけ丁寧な口調で問う。
彼女の良心が、目の前の光景に抵抗を覚えたからだ。
「死んでしまうかもしれませんわ」
「死んでも構わんよ、死ねばまた蘇らせればいい」
オーク卿はまるで無頓着な口ぶりだ。
「もっとも、今回に限ってはそれも不要だろうがね」
見ると、ヴァルデマールは自らの親指を噛み、
流れ出た血を一つの小石に吹きかけた。
怪物は血の匂いに逆上して喰らいつこうと速度を上げるが、
ヴァルデマールは走りながらその小石を怪物の口内へ
鋭く投げ込んだ。
ごく自然に転がり込み、
怪物は気づかぬまま嚥下してしまう。
マリアンヌが感じ取る。――何らかの召喚術が作動している。
次の瞬間、怪物の首が激しく内部から破裂し、
血肉を霧散させながら吹き飛んだ。
飛んできた頭部は結界にぶつかり砕け散り、
胴体はその場にどさりと倒れ込む。
そして首の裂け目からは石と土でできた小型の人型が現れ、
数秒で塵へ還って跡形もなくなる。
――ヴァルデマールは小石を通じて
小型のアース・エレメンタルを怪物の体内に召喚したのだ。
「小石を使ったのね……でもどうやって?」
マリアンヌは驚きを隠せない。
「彼は瞬時に血で小さな召喚陣を描いたのさ」
オーク卿は言う。
ヴァルデマールはまだ結界の向こうにいて、
こちらの会話には気づいていない。
結界は音も視界も遮断している。
「しかし、ふつう召喚陣の構築には
もっと時間を要するのでは?」
「彼はまさしく“磨かれていない原石”だ」
オーク卿の声には嬉しそうな響きがある。
だがその好奇心は、“被験体”としての興味にも聞こえる。
「とりわけ召喚術と死霊術において、
彼の潜在能力は驚くべきものがあるよ。
私が最後に見た弟子――ベトール卿――の若き頃以来ではないかな」
「ベトール卿と肩を並べるほど……?」
マリアンヌは衝撃を受ける。
ベトール卿は、その魔力だけなら女帝アラトラに比肩するという者すらいる。
「“等しい”かどうかは知らんがね」
オーク卿はマリアンヌの思考を見透かしたようにくすりと笑う。
「才能を潰してしまうのは惜しい。
どう磨くかが鍵だな。
錆びきった鉄になってしまう前に、
正しい鍛錬を与えねば」
ヴァルデマールは結界の中で息を整え、
次の試練を待ち構えるように立っている。
マリアンヌは少しばかり同情を覚えながら、
オーク卿に問いかける。
「弟子入りさせるおつもりですか?」
「さて、どうだろうね。
だが気がかりもある。
彼の血を詳しく調べてみたところ、
審問官どもでは気づかなかった特徴が判明してね。
彼の肉体には通常の人間とはかけ離れた濃密な“オルゴネ”が流れている。
まるで上級のQlippothのような高エネルギーを帯びているんだ」
「彼の言い分が本当なら、
異界から“呼び出された”人間の血統ということですか?」
「そうかもしれんし、より奇妙な真実が隠れているかもしれん。
私はある仮説を立てているが……」
「どんな仮説でしょう?」
「君にはまだ早いよ、マリアンヌ」
オーク卿は言葉を濁す。
「ひとまず、ヴァルデマール・ヴェルニーについて
より詳しく探ってもらう。――それが君の役目だ」
「承知しました」
マリアンヌは頭を下げる。
パラプレクスへ来て以来、彼女はオーク卿の“私的な特使”として
諜報や調査の役割を担ってきた。
そうしてある程度の自由を与えられているのも、
オーク卿が彼女を“利用価値の高い駒”と考えているからに他ならない。
騎士団のように厳格な序列や慣例に縛られた存在ではなく、
しかもオールドブラッドの名を(わずかでも)有しているマリアンヌを
抱えておけば、
皇帝派や他の闇の領主による介入を巧みにかわしつつ、
各地で細かな任務を遂行させやすいのだ。
そして仮に彼女が死んでも、
オーク卿が大して痛手を被ることもない。
――オーク卿には、ほかにも複数の庇護対象がいる。
たとえばイーレンという少年と、その怪物染みた用心棒など。
裏社会に関わる仕事を彼らに任せ、
公式には足がつかぬようにしているという噂だ。
「要するに、あの若者がどこから来たのか、
真相を知りたいのだよ」
オーク卿は言う。
「手がかりは少ないようですが……」
マリアンヌは嘆息する。
すでに簡単な調査は試みたが、
チェインの騎士や聖光教会、ロードの騎士らが
ヴェルニー家の粛清に深く絡んでおり、
“ストレンジャー崇拝”と断じた時点で
一族の資料や生き証人はほぼ抹消されていた。
聞き出せたのは、“聖杯を探す者たち”というカルト名と、
実態が不明なままの“グレイル”に関する風聞くらいだ。
「君ならやってくれると信じているよ」
オーク卿は指を軽く鳴らす。
すると赤い結界が消失し、
ヴァルデマールがこちらに気づく。
「おめでとう、若いの。
私の期待通り、いやそれ以上だ」
「ありがとうございます、オーク卿」
ヴァルデマールは結界から解き放たれ、
黒い体液を浴びた服のまま一礼する。
「マリアンヌ卿も……」
「今日は一旦これで休むといい。
部屋に案内してもらって、持ち物を確認するんだ。
万一、不足があれば知らせなさい」
オーク卿はそう言ったかと思うと、
ふいに空間が巻き込まれるような形で消え失せる。
その姿は影すら残さず――おそらく高度な転移呪文だろう。
「やはり凄い……」
ヴァルデマールは唖然として呟く。
「オーク卿はすべての魔術領域を極めたお方」
マリアンヌは肩をすくめる。
「それにしても、彼を満足させたようね」
「そう願いたいものだよ。
今日だけで五匹は殺したんだが」
ヴァルデマールはその場に横たわる蟲獣の残骸を見つめ、
苦い顔をする。
「こんなのが日常的に続くのか?」
「厳しい方だけれど、公平でもあるわ。
試すことはあるだろうけれど、
それに見合った報酬も与えてくれるはず」
「報酬って、こういう私物を返してくれることか」
ヴァルデマールは彼の所有物に目を向け、
特に小さな琥珀細工のオルゴールを手に取っている。
巧妙な歯車が仕込まれたそれを、
小さなレバーを回して鳴らすと、
どこか哀愁と希望が入り混じった旋律が
辺りに漂う。
「母の形見なんだ」
ヴァルデマールの声はわずかに詰まり、
視線は遠くを見つめるよう。
「彼女が最期の日々を過ごすあいだ、
これだけが心を慰めてくれていた」
「素敵な音色ね」
マリアンヌは耳を澄ます。
自分の母を思い出して少し胸が締めつけられるような、
そんな郷愁が漂う。
「お母様は……どんな方だったの?」
「……あまり話したくない」
ヴァルデマールはオルゴールを止め、
視線を落とす。
「体を病んでいて、あまり長く生きられなかった。
俺たちはソウルストーンを買う金もなくて……
そのまま魂は逝ってしまった」
マリアンヌは胸に下げたペンダント――
自分の魂を捉えるための小さなソウルストーンを思う。
死後も意識を残せるという一種の保険。
かつては嫌悪感を抱いたが、いまは多少の安心を感じる。
「ほかに、ご家族は?」
「父方の親族は皆、粛清で滅んだらしい。
母方ももう誰もいない。……それが答えだ」
「……なるほど。
それなら、なおさら私はあなたの過去を洗い直すよう
オーク卿に命じられているわけね」
「まあ、怪しい存在に見えるのは仕方ないさ。
俺自身、あの一族との関わりは皆無だよ。
名が同じというだけで、何も知らされないまま育った。
騎士どもに責められる筋合いもないさ」
「わかっているわ。
私は、あなたが“ヴェルニーの末裔”だからといって
偏見で見るような真似はしない。
人の価値は名ではなく行いで決まると信じているもの」
「チェインの騎士たちも、そう考えてくれればいいんだが」
ヴァルデマールは腕を組み、
沈思の様子を見せる。
「何か知りたいことがあるなら聞けばいい。
俺に分かることは限られているが」
(警戒しながらも協力する意思はあるか……)
マリアンヌは内心安堵する。
「粛清時には幼かったらしいけど、
父方の家門――ヴェルニー家のことを何か覚えている?」
「俺が聞かされたのは、
『父の家が大きな屋敷と教典の蔵書を残していた』ってことくらいだ。
ただ、粛清で全部焼かれたらしい。
噂では“聖杯”だとか“異端の儀式”だとか……
何にしろ、俺には遺産もなく、
処刑されずに済んだだけでも儲けもんだったって話だ」
――金さえあれば、母君を救えたかもしれないと思うと、
彼が苦々しい思いを抱くのも無理はない。
「なるほど。
だいたいわかったわ。
私が何か掴めたら伝える。
少なくとも私はあなたに隠すつもりはない」
「……ありがとう」
ヴァルデマールは意外そうに眉を上げ、軽く会釈する。
「まさか、そう言ってもらえるとは」
「ここプレローマ学院には、
騎士団よりはるかに開明的な学者たちが多いの。
あなたも慣れれば、あまり警戒する必要はないわ」
「“多くは”ってことは、一部は警戒すべき連中がいるわけだな」
「……まあ、そうね」
マリアンヌは苦笑をこぼす。
「用心して損はないわよ」
「警戒は慣れてる。
それはともかく、レナール家……?
正直、オールドブラッドの名前で
あまり聞いたことないけど」
「当然よ。
女帝アラトラの血筋の遠縁だけれど、
高位の貴顕筋じゃないし。
皇帝宮廷からも遠ざけられてるわ。
私自身、女帝に直接会ったのは二度だけ」
「女帝アラトラの血脈、か」
ヴァルデマールは目を丸くする。
「それはすごいのか、すごくないのか……」
「“いちおう”位はあるの、ただそれだけ。
帝国は七柱の闇の領主による合議制が基本だし、
女帝とはいえサクラス領や宮廷に対する影響力が主だから。
――あまり公言すると舌を抜かれるけれどね」
「なるほど」
ヴァルデマールはさほど深くは追及せず頷く。
「ところで、俺の部屋はどこにある?」
「地下二層目。
ほかの見習いたちと同じ区画に作業場が用意されたわ。
さっそく荷物を運んでみましょう」
「……手伝ってくれるのか?」
「貴族らしく命じるだけが能じゃないもの。
嫌なら置いていくわよ?」
「いや、助かるよ。
礼を言う」
こうしてふたりは、
ヴァルデマールの書物と所持品を抱え、
新たな居室へと向かった。
彼の足取りからはまだ疲労が残る様子もあったが、
それでも試練を乗り越えた満足気な雰囲気が漂っている。
(それにしても……)
マリアンヌは横目でヴァルデマールを見つめ、胸中で思う。
――バロン・ヴェルニーはなぜ私生児にまで遺産を譲ろうとしたのか。
ただの血筋以上の何かがあるはずだ。
彼はまだすべてを語ってはいない。
その裏に潜むものを探り当てるのは、そう難しくないかもしれない――。