闇の領主
漆黒の馬車は巨大な洞窟甲虫に曳かれ、暗闇の坑道をひた走っていた。
御者は牢獄を出発して以来、一言も口を開かず、マリアンヌ卿もまた饒舌とは言い難い。
彼女は窓の外をじっと見つめ、道を照らす幽玄のランタンを長らく眺め続けている。
少なくとも、会話こそ乏しいものの、食事と着替えは与えてくれた――
ヴァルデマールはキノコのパンをかじりながらそんな考えに耽る。
この馬車は中が意外に広く、小さな卓が据えられていたので、
囚人である彼はモグラのチーズやアナグマのステーキ、辛味のあるキノコを
ゆっくりと味わうことができる。
彼の傷痕を覆うように粗末なリネンのチュニックが与えられ、
血を抜かれた拷問具の跡はすでに回復しつつあった。
マリアンヌ卿は窓の外に視線をやらないとき、
ヴァルデマールの痣や傷に強い関心を払っているようだった。
やがて彼女は革張りの座席に姿勢を整え、好奇心を抑えきれずに囚人へ問いかける。
「あなた、バイオマンサー(生体魔術師)なの?」
「いいえ」
ヴァルデマールは答える。
バイオマンサーの理論にも多少手を伸ばしたことはあったが、
彼が本格的に学んだのは死霊術と召喚魔術だった。
「まだその領域には踏み込んでいない」
「では、変異体かしら?」
「そうかもしれない。
真実はよく知らないんだ」
とヴァルデマールは肩をすくめる。
父親の謎に関して母に尋ねれば涙が返り、祖父は沈黙で応じるばかりだった。
「昔から治癒力だけは異常に高くてね。
母胎にいるあいだに父が何らかの実験を施した可能性はある。
ヴェルニー家では、子を強靭にすべく改造する――
そんな噂を聞いたことがあるんだ」
「お父上を知っていたの?」
マリアンヌ卿は、純粋な興味か尋問かを窺わせぬ声で尋ねる。
「いや。幼子の頃、ヴェルニー家粛清があったから……」
ヴァルデマールは短く答えた。
彼が知るのは“アイザック・ヴェルニー”という名と、
散らばった断片的な情報だけだ。
「なぜそんなことを訊く?」
「興味があるのよ」
マリアンヌ卿は素直に認める。
「普通の人間なら、あれほどの大量出血と拷問を経てなお
生き長らえることは叶わない。
それがあなたは食事を一度取っただけで、数時間でそこまで回復した」
「心配しなくていいのか? ここまで元気になったからには、
俺がいつ何かを仕掛けてもおかしくない」
血脈の魔力――“ブラッド”は意思と体力に密接に結びつく。
血と薬物の消耗から立ち直るにつれ、ヴァルデマールは確かな力が戻ってくるのを感じていた。
マリアンヌ卿はくすりと小さく笑う。
その微笑は柔らかだが、どこか自信に満ちていた。
「あなた一人、私が相手をしても勝てるということね」
ヴァルデマールは、護衛もなく二人だけで旅をし、手錠や枷を用いない理由を
ずっと不審に思っていたのだが、どうやら彼女にはそれだけの自負があるらしい。
「違うわ。勝てる‘と思う’のではなく、‘必ず勝つ’と知っているのよ」
とマリアンヌ卿は訂正する。
ヴァルデマールはそれを聞いて内心納得する。
闇の領主に仕える者なら、自らも強大な魔力を持ち合わせて当然だ。
「逃げてみるつもりはある?」
マリアンヌ卿が片眉を上げ、問いかける。
「スペルベインの看守が、俺の血を採取している。
騎士団はいつでもそれを用いて俺の居場所を追跡できる。
それに、あなたは拷問具に縛りつけたりはしないし、
まだマシな待遇だよ」
そう言いながらヴァルデマールは皿を片付ける。
「本来の騎士道からすれば、あのような仕打ちは恥ずべき所業よ。
あれではデルロの連中の非道に堕したも同然」
マリアンヌ卿の顔には、本物の嫌悪感が浮かんでいる。
彼女の言葉は飾りではなく、誠意から来るものに聞こえた。
「あなたはオールドブラッドの貴族なのだろう?」
ヴァルデマールは、ふと不思議に思って問いかける。
「ええ、そうだったわ。――今は違うけれど」
マリアンヌ卿は視線をそらす。
「失墜でもしたのか?」
ヴァルデマールの好奇心が刺激される。
オールドブラッドの内紛は、しばしば血生臭い結末を迎えると聞くからだ。
「そうね」
わずかに恥じらうような笑みを浮かべるマリアンヌ卿。
「長い話になるから、いつか気が向いたときにでも話すわ」
これ以上の詮索は無粋と察したヴァルデマールは、それ以上深くは問わなかった。
やがて馬車は、闇の領主たちの統べる各地を繋ぐ“アースマウス”と呼ばれる門へと近づく。
坑道の果てに鎮座するそれは、生きた肉塊のように脈動し、飢えた顎をもつ不吉な門。
その内部には緋色の霧が渦巻き、喉奥はどこへと続くとも知れぬ闇に通じている。
その昔、帝国の版図を紡ぐために自らの生を捧げた殉教者――
かつては人間だったこの“器”を、騎士たちが厳重に守りを固めていた。
鎧には漆黒の地に白い皇帝の眼が描かれ、彼らは書類を確認すると
その霧の中へ馬車を通す。
瞬間、視界が緋色に染まる。
空間を隔てる幕をくぐり抜けるようにして、ヴァルデマールの体が震えを覚えた。
数ヶ月にも及ぶ地底旅路を省略して、一瞬にして馬車が到達したのは、
パラプレクス唯一の都市、プレローマの静かな街路であった。
ヴァルデマールはかつて、この街に夢を抱いて足を運んだことがある――
自身が魔術師として“まっとうに”生きられる道を探していた頃だ。
石の迷路のような雑多な街並みに、彼は飲み込まれそうな圧迫感を覚えた。
高低入り混じる石造りの通りには、狭い路地を挟んで
哨塔のように聳え立つレンガ造りの家々が影を落としている。
その合間を縫うように、毒性を帯びた湿地の瘴気が迫り、
そびえ立つ巨大な刃の壁が街を囲む。
こうして手狭な平地に人口が増えるほど、
古い建物を取り壊しては、より高い建造物を建てざるを得なくなるのだ。
壊されかけの建物、屍者が黙々と修繕にあたる家々、
深夜にあってなお灯りの灯る家は三割にも満たず、
街は陰気さを帯びて閑散としている。
もし天井に広がる紫水晶の光脈や、聖光教会の燃ゆる火炬がなければ、
この都市は闇に呑まれていたかもしれない。
馬車が坂道を登り始めると、周囲に人影はほとんど見られなくなる。
ヴァルデマールが踏み入れたことのない区域――
屍者の兵や門番が厳重に巡回する領域だ。
片側には紫の湿地が広がり、反対側には漆黒の石で造られた
巨大な要塞が姿を現す。
その古代めいた城壁には怪物じみたガーゴイルの像が並び、
哨塔は邪悪なる獣の牙にも似た鋭利さを誇る。
天空では漆黒の竜蝙蝠“ドラゴバット”を操る闇の騎士たちが飛行哨戒を行う。
中央には黒い柱が天井まで伸び、要塞の中心に鎮座していた。
こここそがこの広大な洞窟の覇者、オーク卿の根城である。
長大な橋を渡り、その要塞へと続く唯一の道を馬車が進む。
橋の下には数百メートルもの深い深い裂け目が口を開き、
落ちれば二度と戻れぬ奈落へと消えるだろう。
ヴァルデマールはその高度な技術力に圧倒され、
言葉もなく見入るばかりだ。
「あの“プレローマ学院”に入る道を探そうとは思わなかったの?」
沈黙に気づいたマリアンヌ卿が尋ねる。
「オーク卿は、他の闇の領主に比べればそこまで頑なではないと聞くわ」
「試したことはある。自分の名で一度、偽名で一度……」
ヴァルデマールは悔しさを滲ませつつ呟く。
「山ほど嘆願の手紙を書いて送ったが、一切返事はなかった」
マリアンヌ卿はしばし考え込むような顔をする。
「多分、セキュリティの面で厳しくふるい落とされたのね。
あなたの手紙は、オーク卿本人には届かなかったのかもしれない。
もし届いていれば、もう少しまともな審査を受けられたはずよ」
「オーク卿というのは、どんなお方なんだ?」
ヴァルデマールは胸中の不安を押し殺しながら尋ねる。
その古き闇の領主は、極度に隠遁を好むと聞く。
彼が知る確かな事実といえば、
オーク卿は七柱の闇の領主のうち最古参で、
二人の別の闇の領主――ヴァラル・ベトールとファレグ――を師事し、
今ではどちらも彼とは敵対関係にあるということ。
そして年に一度のサバト以外では滅多に居城を出ない、
死を超越した大死霊術師であるという程度だった。
「聡明で、気の長い方よ。帝国の成立よりも前から生き続けていらっしゃるから、
私たちの感覚とは時間の流れが違うの。
彼にとっては命よりも“記憶”こそが尊い。
生命はいずれ尽きるけれど、記憶はいつまでも残せるから」
「それを聞いても安心はできないな」
ヴァルデマールは、瓶詰めにされた脳や魂石に囚われた幽魂の例を想起する。
永遠に生かされて尋問され続けるなど御免被りたい。
「心配には及ばないわ、きっと話が合うはずよ。
オーク卿はあなたの“研究ノート”にとても興味を抱いていたもの」
そう言う間にも、馬車は橋を渡りきり、城門を潜り抜ける。
ヴァルデマールは突然、得体の知れぬ圧力が魂にのしかかるのを感じた。
古い石壁に幾重もの魔術が織り込まれているのだ。
「着きました、マリアンヌ様」
御者の低く掠れた声が馬車の外から聞こえる。
扉を開くと、その男がヴァルデマールを警戒するかのような灰色の瞳で睨んでいた。
心の奥へと探りを入れてくる心理的な力が感じられる。
――どうやらこの御者も魔術の心得があるらしい。
ここは全員が魔術師なのだと、ヴァルデマールは改めて悟る。
「ありがとう、ベルナール」
マリアンヌ卿は御者の助けを借りて馬車を下りる。
しかし囚人であるヴァルデマールには手を差し伸べることはなく、
彼は仕方なしに自力で降り立った。
「ヴァルデマール・ヴェルニー。
ここが“プレローマ学院”へようこそ」
ヴァルデマールは大きく息を吸い、周囲を見渡す。
そこは黒く油じみた城壁と物々しい哨塔に囲まれた広大な中庭だった。
見張りに立つのは、トームの騎士か、あるいは保存状態の良い屍兵たち。
屍兵の瞳は妖しく光り、
そこに宿る魂が死してなお肉体を動かしているのがわかる。
中央には“黒の柱”がそびえ立ち、
まるで太陽のごとく要塞全体を中心から統べていた。
その柱には巨大なステンドグラスの“眼”がはめ込まれているが、
出入り口らしき扉はない。
ヴァルデマールは要塞内をざっと見回し、
その規模の大きさに改めて驚嘆を覚える。
兵舎と思しき建物や石造りの会館が連なり、
聖光教会の尖塔もちらりと見える。
しかもすべてが石というわけではなく、
蒸気機関で温められた温室や、鋼鉄のゴーレムが世話をする広大なキノコ庭園、
または不気味な花々の生い茂る生垣迷路まで――。
まるで一つの街が要塞の中に存在するようだ。
そして、肉眼で見えずともブラッドの感覚が察する範囲はさらに広い。
ヴァルデマールは目を閉じ、異界との干渉に敏感な自分の魔術感覚を解放する。
この要塞が築かれるはるか以前――
既にここには“黒の柱”が存在していた。
往古の文明の遺跡の上に、人間たちが居住空間を増築していったのだ。
さらに深く目を凝らすと、巨大な蟻塚さながら地下に広がる人々の生活が見える。
そしてなお深奥へ意識を沈めると……何か、黒い力が眠りについている。
時折うねり、我々の次元の壁を押し広げるように。
――ここはあまりにも“薄い”のだ。
空間と時間を隔てる壁が、無数の術式によって柔らかく脆くなっている。
異界との接点が溶け合いやすい、危うい場所。
プレローマ学院はアズラント全土で最も高名な知識の殿堂であり、
貴顕の子弟が通うサクラス学院以上に秘密主義かつ厳格な入門制を敷いている――
それはここが何らかの“深淵”に手をかけている証左でもあった。
「しばらくは要塞内を自由に歩いて構わないわ。
ただし、立入禁止区域や外へ出ることは許されない」
マリアンヌ卿の声で、ヴァルデマールは意識を現実に引き戻す。
「私には他にも任務があるの。ここで別れましょう」
「オーク卿のもとへ案内してはくれないのか?」
「すぐにあちらからお呼びがかかるでしょう。
もう視線を感じているわ」
マリアンヌ卿はそう告げると軽く会釈し、
御者のベルナールと共に姿を消した。
振り返ってみれば、彼女は歩くときに一切足音を立てていない。
そのまましばらく待ってみるが、どうやら完全に自由放任らしい。
ヴァルデマールは気を張りながら学院の庭を散策する。
トームの騎士が遠巻きに監視しており、
兵舎の扉に近づけば必ず騎士が立ちはだかる――外部の回廊から奥には行かせぬ、ということだ。
馬屋のような建物も見受けられ、そこには巨大甲虫やドラゴバット、
その他の改造戦獣が繋がれている。
庭の片隅にはフードをかぶった男が立ち尽くしているが、
その破れた服の下からは大量の蛆虫が湧いているのが見えたり、
壁に掘られた人間の顔を模したレリーフが、
ヴァルデマールの動きに合わせて目を動かしていたりと――
要塞の至るところで彼を監視する何者かの視線を感じるのだった。
そんな不気味な空気の中で、唯一ほっと安堵を覚えたのは、
要塞の外縁、まるで今にも裂け目に落ちそうな岩盤の上に建っている、
鋭い棘を持つ聖光教会の大聖堂である。
その屋根や灯台には炎が燻り続け、
暖かな輝きが辺りを照らしていた。
一方、ヴァルデマールの魔術的な感覚は、
“黒の柱”とは別の方向――要塞の南東へと導いていた。
そこには何らかの空間の歪みが感じられるのだ。
辿り着いた先は大きな円形の水溜まり。
温室のすぐ外にあり、蒸気機関で周囲を温めているらしい。
ヴァルデマールは水辺に近寄り、その透明度の高い水面を覗き込む。
人間の視力では底が確認できないほど深い。
しかしブラッドの感覚を通じて探ると、その底に裂け目――
時空そのものの“傷口”が口を開いているのがわかった。
――ここから庭園に必要な水を調達しているのか。
その巧妙さと美しさに、ヴァルデマールは思わず畏敬の念を抱く。
「面白いね」
不意に声がした。
ヴァルデマールは飛び上がりそうになる。
ふと見ると、白髪の老人がいつの間にか隣に立ち、
同じように池を眺めていたのだ。
まるで霧のように突然現れ、彼の存在をまったく察知できなかった。
「来訪者は大抵、“黒の塔”ばかり注目するのだが、
君はこの井戸のほうに興味を示すとはね」
老翁は父のように柔らかな声で語りかける。
しかしその皺刻まれた顔には、長年の知恵と威圧感が宿っている。
「黒の塔は要塞が築かれる遥か以前から存在していて、
この井戸は比較的最近のもの――それなのに、
こちらを好むとは、なかなか見どころがある」
「こちらの方が高位の魔術の痕跡を感じるので」
とヴァルデマールは努めて平静を装う。
「おそらく元素界の“水の次元”への永久門か何かかと」
「惜しいけれど、少し違う」
老人は背に手を組んだまま、水面を静かに見つめる。
「パラプレクスは飲用に適した水が少なく、大半の井戸は枯渇している。
そこで私たちは‘万源の源’たる異界から水を引き出そうと考えたのだ。
だが、完全安定な次元門を作るには技術も資源も足りない。
そこで若き数学者ポンカレが、別の発想を提案した。
――アースマウスの原理を応用して、水のエレメンタルを
異界への門そのものとして縛ろうという実験をね」
「水のエレメンタルを召喚して、
それ自体を通路にする……?」
「その通り。
しかし結果は想定通りにはいかず、
そのエレメンタルはただ延々と水をこちらの世界へ流し込み、
精神を摩耗し狂気に陥った。
いまは井戸の底に縛られて、
この地の農業問題を黙々と解決してくれている。
学問の進歩には犠牲がつきものとはいえ、私は彼の静かな嘆きに
少し胸を痛めているよ」
老人の声は憐憫に満ちているようで、しかしどこか演技じみてもいる。
――この同情が本心かどうか、ヴァルデマールは慎重に見極めようとする。
「どうした? 私が怖いかね?」
老人はヴァルデマールの緊張を面白がるように微笑む。
「少し、正直言えば」
ヴァルデマールは喉を鳴らす。
「あなたは……オーク卿だろう?」
「ほう、どうしてそう思うのかな」
その口元はほころぶが、老人の瞳は蒼い冷たさを湛え瞬きひとつしない。
「あまりにも完璧な防御結界が張り巡らされているからだ」
ヴァルデマールは正直に答える。
トームの騎士が纏う魔術防壁は固い壁といった印象だったが、
この老人の結界は霧のように深く、不気味なほどつかみどころがない。
壁なら砕くか迂回できるかもしれないが、
霧のような防御はどう破ればいいかわからない。
「ふむ……“無害”という幕に包んでいたつもりなのだが。
それすらかえって不自然に感じ取るとはね」
オーク卿とおぼしき老人は、愉快そうに笑う。
「強い香りを振りまいても、猟犬には‘逆に怪しい’と悟られるようなものです」
「君は自分を猟犬と例えるのか?
私には地を這う芋虫に見えるがね。
まだ若く、地に縛られているが、
大きく育てば空を飛べる可能性を秘めている」
「蛾なのか、蝶なのか」
「蛾だろう。
灯火を求めて飛び、やがて熱に焦がれて焼かれるからね」
ヴァルデマールは、この不気味な言葉の応酬に戸惑いつつも問い返す。
「では、あなたは何なのだ?」
「私か? ただの年寄りさ」
その瞬間、老人の幻影がわずかに揺らぎ、
その下から漆黒の髑髏が覗いた。
両の眼窩には青白い星が宿り、
見た者の魂を深い眠りへ誘うかのように輝いている。
ヴァルデマールは即座に防壁を強化しようとしたが、
それは紙のように破られ、
冷たい亡霊の指が彼の魂を精准に掴んできた。
魂を抜き取られそうな激痛に血が凍りつき、息が白く煙る。
ほんの一瞬の出来事。
髑髏の貌が消え、老人の温厚な笑みが戻る。
オーク卿は手を緩め、ヴァルデマールは膝から崩れ落ちて
喉を鳴らしながら呼吸を整える。
――今、ほんの刹那覗いたのは、
死も時も超越した“リッチ”の真の姿だった。
「立派な土台がある家を、君は自力で建ててきたようだね」
オーク卿は満足げに言いながら手を差し出す。
「だが炎や衝撃には脆く、
まだ改良の余地があるようだ」
ヴァルデマールは恐怖に震えながら、その手を見つめる。
生身の老人の指先のように見えて、
その実、いつでも鋭利な爪を振るう化け物――。
「ひと思考するだけで、私は君の命を摘み取れる。
手を貸すのに、何の意味がある?」
ヴァルデマールは唇を噛みしめ、
恐る恐るその温かい掌を掴んで立ち上がる。
触れ合う感触はまるで本物の人肌だが、
その正体が捨て去られた人間性の残滓であることは明らかだ。
「他の魔術師と組んで修行した経験はないようだね。
少なくとも長期間は。
だから防御が脆いのだ」
「はい……オーク卿」
ヴァルデマールは頭を垂れる。
正式な指導者を見つけられず、闇市場で技能を教わるにも多額を要求され、
結局は自己流でやりくりしてきたのだ。
「卿だなんて。
私は帝位を僭称してはいないよ。
『オーク卿』で構わない、若きヴァルデマール」
リッチはローブの下を探り、黒い表紙の本を取り出した。
「これが、君のものだろう?」
古びた紙と埃の匂いを帯びた一冊――祖父の形見である日誌。
ヴァルデマールは慌てて奪い取らずに、まずはオーク卿の表情を探る。
彼が微笑を浮かべるのを確認して、慎重にそれを受け取った。
指先で革張りを撫でると、懐かしさが込み上げる。
ページを捲れば、地底世界では決して見ぬ風景――鋼鉄の塔や、
果てしない海原を飛行船が渡るスケッチ――
そして誰も読み解けない異国の文字が並んでいる。
この不思議な言語を前に、オーク卿は興味をそそられたのだという。
「読んでみて、最初は暗号かと思ったが、
実際は見知らぬ言語だった。
もっとも、君が残した翻訳メモのおかげで共通語との照合はしやすかったよ」
「祖父はその言葉を‘フランス語’と呼んでいた。
‘地球’という世界の、彼がいた国の言語だ」
「なるほど、‘地球’が故郷の名で、
‘フランス’が祖国というわけだね」
オーク卿は納得するようにうなずく。
「ここプレローマでも次元を超える術の研究は進めている。
純粋な学究心、実用的応用、そしていつか地上に戻るため……
いずれにせよ相当な障壁があって、まだ道半ばだが。
君の知識がその一助になるかもしれない」
ヴァルデマールは日誌を胸に抱き、希望の光が胸中に灯る。
「信じてくれるのか?
祖父が別の世界から来たという話を」
「私は‘信じる’のではなく‘考える’のだよ」
オーク卿は意味深な微笑を浮かべる。
「この日誌の紙質は、地底のどの工房にも類を見ない。
十分に論理的根拠になりうる。
だが、祖父から言語を教わった君は、なぜ死者を呼び戻してまで
彼に問いかける必要があった?」
「日誌の一部は、さらに別の言語で書かれていて、
それが解読できなかったんだ。
どうやら祖父が他者に見られないよう、暗号化していた節がある。
何年も費やしても解けなくて……」
「それで、霊を人工的に顕在化させようと思いついたわけだ。
とはいえ、あの若さでグナー(下級Qlippoth)を縛るとは大したものだね」
ヴァルデマールは肩を張って誇らしげに言う。
「グナー以上も召喚できますよ、オーク卿」
「ほう、それは今度確かめさせてもらおう。
実を言えば、世には‘他世界から来た’と称する伝承や噂は多いが、
大半は熱病か狂気の産物だと思っていた。
君の家系についても耳にはしていたが、
私自身、見落としていた節がある。
……だが、今からでも修正はきく」
ヴァルデマールはその意図を測りかねていた。
「それで、俺に何をお望みです?」
「君が望むことと同じだよ、ヴァルデマール。
‘地球’とやらが真に存在するのか、どうやって行き着けるのか、
確かめたいのだ」
「存在するに決まっています。
祖父は正気でした、夢物語などではない」
「あるいは妄想かもしれないし、あるいは別世界の住人だったかもしれない。
私たちはその答えを探り、真実を見極める――共にね」
「……共に、ですか」
ヴァルデマールは日誌を抱きしめる。
「それで、俺はどうなるんです?」
「君は犯罪者だ。
従って、私が許可しない限りプレローマを出ることは叶わない。
仮に逃走を図れば、その血の因果を辿ってすぐに見つけ出し、
魂を抜き取り、抜け殻の身体を要塞の外の奈落に落として終わりだよ。
――これで、囚人としての‘更生の機会’を与えたことになる」
あまりにも淡々と宣告される死刑よりも恐ろしい運命。
ヴァルデマールは寒気を覚える。
――どうせ日誌の内容を吸い出せば自分など要らぬ、と考えているのではないか。
「知識など、君の頭から直接引き剝がすことも造作もない。
しかし、私はあまり種を食い尽くしてしまう趣味はないのさ。
花を咲かせ、実を結ぶのを見守るほうが私の性分に合っている。
――種よりも、花が欲しいのだよ」
このリッチは心を読んでいるのか……?
ヴァルデマールは緊張を募らせる。
「結局、牢獄から出たところで、
ここも別の牢に過ぎないのでは?」
「牢、だと?
工房と研究室を用意してやるというのに?」
オーク卿は低く、洞窟の奥から響くような笑い声をあげる。
「望んでいた学院への所属を与えようというのに、
リソースは君がどれほどの力を示すかによって段階的に与えよう。
また、時には私の用事を手伝ってもらうこともあるだろう」
その笑みは、猛獣が牙を剥く寸前のように見えた。
「いつでも、私が命じる時にね」
ヴァルデマールは眉を寄せ、慎重に考え込む。
「日誌を手元に置き、研究を進めさせてもらえるなら……
まあ、それも悪くない」
「もちろんだ」
オーク卿はあっさりと肯定する。
「だが、拒む選択肢は……ないのだろう?」
「スペルベインに戻したって構わないんだよ。
看守長も大いに君を恋しがっているらしい。
そろそろ帰ってくるだろうと、部屋を空けておいているそうだ」
オーク卿は嘲るように口元を歪める。
「……わかった、協力します」
ヴァルデマールは重く息を吐く。
車輪に縛られ血を抜かれる拷問は二度と御免だ。
闇の領主の監視下とはいえ、研究に励めるほうが遥かにましだろう。
「そんなに浮かない顔をするな、若きヴァルデマール。
ここでは魔術教育を受けられるし、
努力次第では正式に赦免される可能性もある。
趣味はあるかね? 釣りが好きなら私が案内してもいい。
もし他の趣味なら、それも相談に乗ろう」
「絵を描くのが好きです。
スケッチも得意で……」
「なら、若いヘルマンと気が合うだろう。
後日紹介してあげよう。
――だが今は、まず君の腕前を見せてもらおうか」
そう言って、オーク卿はヴァルデマールの肩に手をかける。
指先はさきほどと同じ人肌に見えながら、
その実、黒き骨の爪へと変じ始めていた。
「さて、お前が何をできるか見せてもらおうか」
オーク卿は邪悪な笑みを浮かべながら言った。