IX The Mirror of Solitude 拒まれた運命
廃墟になった教会の地下で、ネルは最後にいつ使われたかわからない古い鉛筆を手に取り、サマンサとの交換日記に静かにペンを走らせていた。
地上ではとうに役目を終えた礼拝堂が、月明かりに照らされて静まり返っている。崩れかけた石壁、剥がれ落ちた漆喰、埃をかぶったステンドグラス。すべてが過去の栄光を忘れられたかのように、荒れ果てている。誰もいなくなったこの場所には、かつての祈りの気配だけが薄く残っていた。
吸血鬼である自分にとっては本来、教会は敵対する存在のはずだった。聖なるものが忌むべき存在を駆逐する場所。
それなのに、いま自分はその地下に住み教会が掲げた教義の真逆を行く生き方をしている。皮肉なものだ、とネルは思う。
しかしここは、ネルにとって都合のいい隠れ家だった。人の出入りはなく、昼間も薄暗く、誰にも気づかれない。神に見捨てられた場所で、神に見捨てられた者が生きるにはふさわしい。
ネルは鉛筆を指で転がしながら、今日の日記に何を書くべきか考える。サマンサは今夜も来るだろうか? それとも、もう二度と現れないのだろうか?
昨夜、彼女が残していった日記を開く。そこには、まるで胸の奥を絞り出すような言葉が並んでいた。
「私って、どこにいたって浮いてるんだよね。カナダでも、日本でも。日本にいたときは『見た目日本人のくせに英語フランス語話せるからって気取っててウザい』って言われたし、こっちに戻ってきたら見た目がアジア人ってだけで通りすがりに罵倒されたりするの。こないだも中華臭いって言われた。お母さんでさえ、『お前の話なんか下らなすぎて聞く気にならない』って言うし。学校では陰気臭くて喋りたくないって除け者にされてる。私のことをちゃんと見てくれる人なんて、どこにもいないんだと思う。ただ、普通に話して普通に笑いたかっただけなのに」
ネルは指先で紙の端をなぞる。彼女の筆跡は、わずかに掠れている。
“どこにも居場所がない”
その言葉が、ネルの心にひっかかる。
彼女の祖母、シンシアも全く同じことを言っていた。
「私はカナダで生まれてカナダで育ったわ。けど、いつまでもよそ者のまま。永久にカナダ人として扱われることはないの」
シンシアはそう言ってまだ10代前半の子供には相応しくない諦念の表情を浮かべた。ネルは何も言えずただ、彼女の話に耳を傾けていた。
「私の父さん母さんはね、戦争さえなければ日本に帰るつもりだったんだって。……でも父さんは死んじゃったし、母さんも昨日『もう帰る場所なんかない』って泣いてた。母さんが生まれた町、ナガサキって言うんだけど、"ピカ"でめちゃくちゃにされておじいちゃんもおばあちゃんもおじさんもおばさんもいとこも皆、死んじゃったって……」
「"ピカ"……?」
聞きなれない言葉にネルが首を傾げる。
「私もよくわからないの。でもそのせいで街が一瞬で吹っ飛ばされてしまったって」
「一瞬で街が吹き飛ぶ、だと?」
ネルは眉をひそめた。戦争で都市が破壊される光景は何度も見てきたが、一瞬で街が消滅するなど聞いたことがない。既に100年以上生きたネルでも、初めて聞くような状況で混乱してしまった。
「でも学校に行くとクラスメイトのみんなは ‘The Bomb ended the war’(原爆が戦争を終わらせた)って言うの。‘It saved lives’(たくさんの命を救った)って。でも、私の家族は ‘saved’ されなかったわ。みんな焼け死んだのに、カナダの誰もそんなこと気にしちゃいない」
シンシアは読んでいるかように淡々と語った。多分まともに受け止めたら気が狂いそうなのだろう。
「そして今日もまた『ジャップは国へ帰れ』って言われたわ。でも帰ったところで迎えてくれる家族はもういない。それに私は日本語できないから日本にも居場所はない。一生カナダでよそ者として生きてくしかないのよ」
ネルはしばらく黙り込んだ後、口を開いた。
「よそ者と言うならカナダにとっては僕の方がよっぽどよそ者なんだけどな。僕は君みたいにこの国で生まれたわけではないし」
そのときネルは思い出していた。19世紀後半、大勢の移民に紛れ、リヴァプールからモントリオールへ出航した移民船に乗船したときのことを。
日が暮れると、いつもネルは船の隅でじっと月光に照らされた海を眺めていた。
この当時の移民は大半が貧困層や飢饉からの避難者であった。船室では病人のうめき声が絶えず、甲板では不潔な服をまとった移民たちがうずくまっている。床の上はネズミがはい回ってすらいた。
そんな中で、ネルだけが異様に静かで、異様に整った姿をしていた。あるとき、幼い男の子が、にこにこと嬉しそうにネルに近づいてきた。
「綺麗なお兄ちゃん、昨日パンくれてありがとうね」
ネルは彼に微笑みかけた。
しかし――
「こらっ!呪われるわよ!」
母親が息子の腕を乱暴に引いた。怯えたような視線がネルに向けられる。
「あんなの人間じゃない、悪魔よ!」
移民船の中は満足な食糧もなく、衛生環境も悪く、チフスやコレラなどの伝染病で次々人が死んでいった。
そんな地獄のような場所で一人清潔な佇まいで、何日も飲まず食わずでも平然とし、病気にもかからないネル。そんな彼を化け物だ、悪魔だと、人々は気味悪がって誰も近づこうとしなかった。
――これがよそ者でなくて何なのだろう。ましてや、自分は生きてすらいなかった。
だが、ネルはその頃には人間の心を捨てていた。人間なんて食糧としか思ってなかった。食糧に何を言われようと平気だった。ネルは人間を食糧としか思わないことで生きながらえてきたのだ。
――人間なんて皆ただの食糧、そう思っていたのに。
しかし、シンシアはそんなネルに人間性を思い出させていた。
"どこにも居場所がない"
実は彼もかつて、そう感じていた。それは遠い昔人間だった頃だった。人々は自分の姿を見れば、自身が生まれたときに与えられた名前で呼んだ。だが、それは彼が望んだ名ではなかった。まわりが押し付けた、“自分ではない誰か” だった。ネルがネルとして生きることは、常に否定され続けた。彼の存在そのものが”間違い”だとされてきた。
彼は、自分に関わった人間たちが最後には皆「普通の生活」に戻っていったことを思い出す。 それなら、サマンサもきっとそうなるはずだ。彼女には学校があり、家族があり、本来いるべき世界がある。
だから、ネルは彼女がもう来ないと決めつけていた。
しかし――
次の夜も、そのまた次の夜も、サマンサはいつもの噴水の前に現れた。ネルとの交換日記を手に持って。
彼女はまるで心配しているかのように、遠くから静かに歩み寄ってきた。その目は不安げでありながら、どこか安心したようにも見えた。
ネルの胸に、何かがひっかかるような感覚が広がった。彼女は、他の人間とは違う。もしかしたら、彼女は本当に――自分と同じように孤独を抱えているのかもしれない。
「サミー、僕も世の中が自分を受け入れてくれないと感じながら生きていたことがある。周りが僕に別の誰かになることを常に強いていて、僕もそれに応えようとしていたときが……。だけど、本当は苦しかった。周りが望む姿を演じる度に壊れそうになった」
ネルはそこまで書きかけて指を止めた。
「まるでシンシアのようだ……」
彼は薄暗い教会の中で、ポツリと呟いた。シンシアのときと同じだと。かつてネルの存在に安らぎを求めた少女。ネルはシンシアを拒み、その命を奪うことを拒否した。だが、その選択が、今のこの状況を生んだのかもしれない。
シンシアを拒んだからこそ、運命はサマンサをネルの前に送り込んだのだろうか。あのとき選ばなかった道を、今度こそ歩ませるために——。
吸血鬼としての呪いは、ただ血を吸って生きることだけではない。愛することすらも、許されないこと。誰かを愛してしまえば、その血を飲み尽くし、最期には自らも飢えて死ぬ。それが吸血鬼の宿命。彼はその運命を避けるためにシンシアを拒んだ。あのまま一緒にいたら自分はシンシアを愛してしまっていたかもしれない。いや、絶対愛してしまっただろう。だが、避けた先に待っていたのは、より深い罰だった。
「これは罰なのか……?」
ネルの目には、暗闇の中で微かに赤い光が宿る。サマンサとの出会いが、ただの偶然ではないとしたら?
それは、シンシアを拒んだ報いであり、呪いだったのではないか。彼は逃げたはずの運命に再び絡め取られ、今度こそその罰を受けるべき時が来たのだろうか。鉛筆を持つ手が震えた。
自分の感情を文字にして改めて自覚したことがある。吸血鬼として生きるために自身の深いところに葬っていたもの――サマンサはそれを蘇らせていた。今まで関わってきた人間たちも、ネルに生きづらさや孤独を訴えてくるときはあった。だが、ネルはそれらを俯瞰した目で見ていた。「人間とは愚かで憐れな存在だ」と。同情はしたが、それ以上もそれ以下もなかった。
だが、サマンサの言葉は違う。彼女の孤独は、まるで過去の自分を鏡で映したようだった。ネルは初めて、「この子の言葉が、まるで自分のことを言ってるかのよう」と感じた。
“サミー、僕も君と同じだったよ”
書こうとしたが、手が止まる。ネルは深く息を吐き、古い鉛筆をそっと閉じた日記の上に置いた。その手はまだ震えていたが、それは彼の心の奥底から湧き上がる感情の波が収まらなかったからだ。自分が彼女に共感している? まさか、そんなはずはない。彼女は人間で、自分は吸血鬼だ。言わば捕食者と非捕食者である。吸血鬼である自分がいちいち人間に感情移入していては、彼らを獲物にすることができないではないか。そうして人間を獲物としか見なさない事で200年生きてきたのに。どうして今になってこんなにも胸がざわつくのだろう。
サマンサにはこうして「自分もそうだ」と共感したくなるのだ。彼女はネルに「自分も感情を持っている、生きている」と実感を持たせてくるのだった。自分がサマンサに共感するということ――それがどれほど危険なことか、ネルにはわかっていた。もし彼女を愛してしまえば、最終的に彼女を壊してしまうことになる。それを理解しているからこそ、今はその感情を否定せざるを得なかった。