VIII Bound by Fate 夜が明け、また夜が来る
ネルが吸血鬼であると知ったサマンサは、一度は彼のもとを離れた。
人を喰らって生きる怪物――そう思うと震えが止まらなかった。だが、それでもネルを嫌いにはなれなかった。
恐怖と同じくらい、彼への想いが自分の中に根を張っていることに気づいてしまったから。
そして、ネルもまた、サマンサが戻らないと思っていた。
いや、むしろそうあるべきなのだ。人間は吸血鬼を恐れる。それが自然の摂理。
いつもそうだった。獲物に近づき、甘い言葉で安心させ、血を啜る。
けれど今回は違う。最初は彼女を獲物として見ていたはずなのに、サマンサはネルの手の中からするりと抜け出し、気づけば彼の心をかき乱していた。
だからこそ、彼女が去ったとき、ネルは奇妙なほど悲しかった。
(僕は、まだこんな感情を持っていたのか……)
しかし、夜が明け、また夜が来た。今日も彼女は来ない、そう思っていた。だが、月明かりの下――彼女の姿がそこにあった。
驚いた。信じられなかった。
「……なぜ」
そう問うネルに、サマンサは小さく笑った。
「わかんない。でも、やっぱり会いたくなったの」
その一言に、ネルの胸が軋んだ。
ネルは二百年の時を生きてきた。孤独な人間を狙い、誘惑し、気を許したところで餌食にする――それが生きる術だった。
最初のうちは、本能のままに喉の渇きを満たしていた。けれど、長く生きるうちに気づいたことがある。
満たされた者よりも、孤独な者の方が吸血鬼を受け入れやすい。愛されず、理解されず、居場所を持たない人間たちは、奇妙なほどあっさりとネルに身を委ねた。
牙を突き立てるとき、彼らはまるで安堵したように目を閉じる。その姿は哀れで、滑稽で、そして――どこかネル自身と似ていた。
(僕にすがってどうなるというの……)
それは、ただの幻想だ。
そんなものに応えるつもりはなかった。
――そうやって何人もの人間を抱きしめ、血を吸い、そして手放してきた。
しかし、70年前、たったひとりだけ違う存在がいた。
シンシア。
彼女は日系二世だった。
カナダで生まれ育ったが、彼女の両親は遥か遠い日本から新天地を求めて海を渡ってきた移民だった。まだ戦争の爪痕が残る当時、彼女は日系人であるという理由だけで「忌まわしい敵国の人間」「自分たちより劣った存在」として扱われ、嫌がらせや村八分に遭い、冷たい視線に晒されていた。
当初ネルは、サマンサのときと同様にシンシアを獲物としか思ってなかった。ちょっと優しくすれば身体を預けてくれそうな孤独な少女だと。だが、シンシアにとってネルは特別だった。周りが「ジャップ!!」と彼女に敵意や侮蔑を向ける中、ネルだけは友達になってくれたのだ。
だが、二人で並んで歩いていると必ずと言っていいほど奇異な目で見られた。
ある日の夕暮れ、ガス灯に照らされた夜の大通りをネルとシンシアが手を繋いで歩いてると、白人の高校生たちがこちらを指さしながら、おかしそうに笑っていた。
「見てよ!アレ!! まるで奴隷連れて歩いてるみたい! あんなのと並んで歩くなんて趣味悪い!!」
1950年代のカナダでは、ネルのような金髪碧眼の美少年とアジア系の少女がデートをするなんてありえないことだったのだ。
ネルは何も言わず微笑を浮かべていたが、シンシアは俯いてしまった。数分後、人通りの少ない場所に入ると、シンシアが立ち止まり、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「……ごめんね、ネル。私のせいで、あなたまで変な目で見られて……」
ネルは軽くため息をつき、少し屈んでシンシアの目線に合わせた。
「君のせいじゃないよ。あれは彼ら自身の狭量さの問題さ。」
ネルはそう言ってシンシアの黒髪ボブカットの頭を撫でた。
すると今度は通りすがりの白人の少年がネルに絡んできた。
「おい。お前、そういう趣味なのか? どこで拾ってきたんだ。そのガキ」
彼はネルの隣にいるシンシアをまるで珍獣を見るような目でチラチラ見ながらそう言った。シンシアはいたたまれない様子で目に涙を浮かべながら俯いていた。
すると、ネルは少し目を細めながらこう返した。
「おや、君の観察眼はずいぶんと優秀だね。でも残念ながら、僕の趣味はもう少し洗練されているよ。例えばそうだな、初対面の人間を捕まえて、下品なジョークを吐く暇人にはまるで興味がないんだ」
シンシアはネルの強烈な皮肉にギョッとして隣にいる彼を見上げた。当然のことながら、少年はネルの皮肉と格調高い英語にムッとしたような顔をした。
「は? なんだと?」
少年に凄まれてもネルは微笑を崩さない。
「それとも何かい? 僕の好みがそんなに気になるなら、君が身をもって証明してくれるのかい? ……いや、すまない、無理な相談だったね。残念だけど、僕は君のような凡庸な人間には全く魅力を感じないんだ。」
少年は顔を赤くして「ふざけるな!」とネルの胸ぐらを掴みかかった。
「ネル……もういいのよ、もういいから……やめて。もう向こうに行こうよ」
シンシアがハラハラした様子でネルを制止し、彼の腕を引っ張る。
「父さんが言ってたんだぞ!!テメェみたいな変態を “Chink Chaser” (チンク・チェイサー)って言うんだってな!!」
少年はネルに顔を近づけながらさらに煽るような表情、口調で言う。それでもネルは冷たい目で少年を見つめるだけだった。
「へえ、それは面白いな。で、高潔なる君のお父上は “ignorant bigot”(無知な偏見野郎) って呼ばれてないのか? それとも、“Chickenshit coward”(チキン野郎) かな? まさか君はお父上の言葉をオウムみたいに繰り返してるだけか?」
「……ネル、やだ、何言ってるの。やめてよ……」
「こ、こ、こ、この野郎……」
少年はネルの胸ぐらを震える手で掴みながら暫く彼を睨みつけていたが、ネルの凍るような瞳に怖気付いたらしく悪態をつきながら去っていった。
「ネル……守ってくれてありがとう。でもだめだよ、ああいう人を怒らせたら危ないよ」
シンシアはすっかり青ざめた顔で震えながらそう言った。
するとネルは肩をすくめた。
「彼が先に喧嘩を売ったんだよ。……それにしても、なぜ人間はこんな不毛な争いをするんだろうな」
ネルにとっては白人もアジア人も黒人も変わりなかった。人間なぞ皆「獲物」としか見てなかったからだ。肌の色も民族も性別も関係ない。興味があるとすれば血が美味いかどうかくらいだった。
だが、当初はシンシアを「獲物」としか思ってなかったネルも、次第に彼女を殺しにくくなってしまった。どこにも居場所がなくとも、懸命に生きる彼女の姿は、ネルに「人間性」を思い出させたからだ。ネルは、幼さと不釣り合いなほどの重荷を背負って生きるこの少女を守ってあげたいと思うようになっていった。既に100年以上吸血鬼として生き、凍てついたネルの心をシンシアは溶かしていったのだ。
そして、ある夜――
「……君みたいな美しい子に触れられるなんて、夢みたいだよ」
男が手を伸ばし、そっとネルの肩に触れる。ネルは微笑を浮かべた。今日声を掛けてきたこの男はどうやら少年に性的興奮を抱く性的倒錯者らしい。ネルはその美貌から純粋な憧れや愛情だけでなく、歪んだ欲望を向けられることも少なくなかった。だが、そんなことは慣れっこだ。軽蔑や嫌悪を抱きつつも冷静に交わすか利用するまでだった。
「そう? なら、もっと近くに来たら?」
甘く誘うような声で、ネルは静かに相手の腕を引く。男は息を呑み、恍惚とした表情で彼を抱き寄せた。まるで手に入れた宝物を確かめるかのように。そしてネルは、男の首筋に顔を埋めた。
「……ねえ」
囁くように、囁くように。優しく唇を寄せ、まるでキスをするかのように——その瞬間、牙が肉を貫いた。
「——ッ!!」
驚愕と苦痛に歪む男の表情。ネルはゆっくりと腕を回し、男の体をさらに引き寄せた。まるで愛しい人間を抱きしめるように。
「こんなものが欲しかったの?」
耳元で囁く声は、冷たくも心地よい響きを持っていた。男の抵抗は弱まり、やがて完全に力を失う。
ネルは腕を解き、ぐったりと崩れ落ちる死体を見下ろした。そして、何の感慨もなく、口元の血を拭う。
「……くだらない」
まるで飽き飽きしたように呟き、立ち去ろうとしたとき――
「ネル……?」
そこにいたのはシンシアだった。彼女はネルを探していたのだ。
彼女はネルが路地裏で人間を襲い、血を吸うところを見てしまった。驚いた様子だったが、怯えているわけではなかった。
――しまった。
ネルはそう思った。シンシアにだけは自分の正体を知られたくないと思っていたから。
シンシアは震える声で、静かに言った。
「どうせ人の血を吸うなら、そんな人じゃなくて、私の血を吸って」
ネルは息を呑んだ。
「やめてくれよ……そんなこと、言うものじゃない」
「どうして? あなたは血を吸わなければ生きられないんでしょう?」
シンシアは既にネルが吸血鬼だということに薄々気づいていたようだった。そして好きで人を殺しているわけではないことも。
「だからって、君の血を奪うわけにはいかない」
シンシアはふっと笑った。
「でも、私はいいの。あなたなら」
その瞳は、真剣だった。
““You’re just saying that ‘cause you think I’m a dumb kid. But I’m not. If someone’s gotta be your midnight snack, might as well be me.”
(「私が馬鹿な子供だからそう言ってるんでしょ? でも違うわ。どうせ誰かの血を吸わなくてはならないのなら私でいいじゃない」)
そのとき、ネルの吸血鬼としての本能がけたたましく警報を鳴らしていた。
――僕はこの子を愛してしまうかもしれない…………でもそんなことになったら……
ネルの脳裏に、シンシアと出会うさらに100年以上前に見た吸血鬼の最期がよぎったのだ。
1845年のロンドンでのことだった。ネルがその吸血鬼を見つけたのは、霧に煙るテムズ川沿いの裏路地だった。
異臭がした。血と死の匂い。本能が警鐘を鳴らす。最初は人間の死体かと思った。だが、違う。皮膚は干からびて白くひび割れ、まるで古い石膏のようになっていた。指先からボロボロと崩れ落ち、剥がれた皮膚の下からは、黒ずんだ骨がむき出しになっていた。吸血鬼の 「死骸」 だった。
「……こんな死に方をする者がいるなんて」
ネルが独り言のように呟いたそのとき、背後から低い声がした。
「珍しくはない」
振り向くと、そこには黒衣の男が立っていた。その男もまた、同族だった。
「我々は、人間に恋をしたら死ぬ運命なのさ」
ネルは目を見開いた。
「恋をすると……死ぬ?」
「そうだ。お前も知っているだろう? 吸血鬼の血の本能を」
男は乾いた笑いを漏らしながら、無惨な死体を指差した。
「吸血鬼は、一度恋をすれば、その人間の血しか受け付けなくなる。だが、人間の血は無限じゃない。お前が飢えれば、いつか愛する者を喰らい尽くす。そしてその後、お前も餓死する。これが吸血鬼の呪いだ。」
「……そんなことが」
ネルは凍りついた。
「この死体の男も、かつては一人の人間を愛した。だが、その血を吸い尽くした後、生きる術を失ったのさ」
「……誰がそんな呪いを?」
男は薄く笑った。
「誰も知らんよ。だが――」
そう言って、吸血鬼の男はネルの方へゆっくり歩み寄ると、低く囁いた。
「これは我々に与えられた 神罰 なのかもしれないな」
「神罰……?」
「我々は神に背いた存在だ。本来死ぬはずだった肉体にしがみつき、生者の血をすすって生きる。……それを許されると思うか?」
ネルは唇を噛んだ。
「馬鹿げている」
「そう思うか?」
吸血鬼の男は、干からびた同胞の死体を指差した。
「だが、神の意思がどうであれ――恋をした吸血鬼は、必ず死ぬ。それは紛れもない “現実” だ」
ネルは何も言えなかった。男は霧の向こうへ歩き去ろうとした。だが、ふと立ち止まり、ネルを振り返る。
「忠告しておこう。人間を愛するな。生きたければ」
そう言い残し、黒衣の男は霧の中へ消えた。
ネルはもう一度、干からびた死体を見下ろした。骨と皮だけになった指先が、地面に爪を立てたまま固まっていた。まるで、最期の瞬間まで 何かに縋ろうとしていた かのように。
人間に恋をした吸血鬼の末路。愛した者を喰らい、その後、自分も飢えて死ぬ。
「……そんな運命、冗談じゃない」
シンシアを愛せば、ネルは彼女なしでは生きられなくなる。そしていつか彼女を殺し、そのあと自分自身も死ぬ。だから、ネルは彼女を突き放した。
「君の血など、いらない」
シンシアは息を呑んだ。
「でも――」
ネルはシンシアの言葉を遮った。
「さよならだ…………シンシア……」
ネルの声は震えていた。足が勝手に後ずさりする。
すると、シンシアは何かを堪えるような顔をした。そして絞り出すようにこう言った。
「ネル、これで最後だから言わせて。…………アイ、シテル……」
"愛してる"
それはカナダで生まれ、日本語を知らずに育ったシンシアに亡き父が教えた数少ない日本語の一つだった。
――その瞬間、ネルの中にシンシアの想いが流れ込んできた。
ネルは日本語を理解しない。シンシアもそれを承知で、この言葉を選んだのだろう。それでも、ネルは吸血鬼ゆえにシンシアの気持ちを感じ取ってしまう。
彼女の心が、ひたむきな愛情で満たされているのを知ってしまった。
――だめだ、これ以上彼女といたら確実に自分も彼女を愛してしまう!
"adieu!!"
投げつけるようにそう言うとネルは逃げるようにその場を去った。ネルはもう振り返らなかった。それきり、ネルは彼女の前に現れることはなかった。もしこのままシンシアと関わり続ければ、自分は彼女を愛してしまう気がしたから。
愛さえ知らなければこの呪いは発動しない。恋をしなければ、飢え死ぬこともない。だから二度と、誰も愛さないと誓った。それなのに――
ネルは、自分の胸が軋む音を聞いた気がした。サマンサがここにいる。逃げたはずなのに、戻ってきた。
「……なんで」
喉が渇く。それは空腹とは違う、もっと深い飢えだった。サマンサは小さく笑った。
「わかんない。でも、やっぱり会いたくなったの」
その瞬間、ネルの中で何かが崩れ落ちる音がした。彼女が目の前にいる。それだけで、体が熱を持つ。ずっと誓ってきたはずだった。誰も愛さないと。
それなのに――
(……もう遅いかもしれない)