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VII Drawn to You それでもまた、君に会いたくて


 サマンサは震えていた。寒さのせいじゃない。ネルの隣にいるのに、胸の奥に冷たいものが這い上がる。ネルの隣にいるのに。私はこの人が好きなはずなのに。この人は——いや、この存在は、本当に人間じゃないんだ。

 彼が、どんなに優しくても。

 どんなに綺麗でも。

 どんなに自分の孤独を埋めてくれるとしても——。

 ネルは、人を食って生きている。

 サマンサの脳裏に、不意に血のイメージが浮かんだ。ネルが、誰かの喉元に牙を立て、赤黒い液体が滲む様子。彼の白い手が、震えながらもその血を求める様子——。

 怖い。

 足元からじわじわと冷たいものが這い上がる。そんなサマンサをネルは、今までと変わらない顔で見ていた。けれど、その視線がどこか遠い。

「……サマンサ」

 呼ばれて、サマンサはビクリと肩を震わせた。ネルは、ゆっくりと目を伏せる。

「怖いよね」

 その声音には、どこか諦めが滲んでいた。ネルはふっと微笑む。

「——もう、いいよ」

「え?」

「僕は、そういう生き物なんだ」

 ネルの金色の髪が、夜風にさらさらと揺れる。

「君がどんなに僕を好きでも……怖くなるのは当然だよ」

「……」

「だから、もういい」

 ネルは立ち上がった。冷え切った空気の中に、ふわりと彼の気配が遠のいていく。

"Adieu.Samantha."

(「さよなら、サマンサ」)

 サマンサの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

 その言葉が夜の空気に溶ける。

——Adieu? さよなら? 違う、それはもう二度と会わない時に使う言葉。そんなの、いやだ。でも、声が出ない。


 立ち去るネルの背中を、ただ見送るしかなかった。

 怖い。でも、置いていかないで。一歩踏み出せば、この手が届くかもしれないのに、足が動かない。

 ネルは夜の闇に溶けていった。これで終わりなの?

 胸が痛い。喉がひりつく。けれど、サマンサはただ立ち尽くすことしかできなかった。


 次の日も、その次の日も。

 サマンサはネルを探すことができなかった。ネルがいる場所はわかっている。でも、怖かった。

 もし彼が、本当に獲物を狩る瞬間を見てしまったら?

 もし、彼の血まみれの姿を目の当たりにしてしまったら?

 その瞬間、自分の中の愛しい人はモンスターと変わってしまうのだ。そして彼を「人間」として愛する気持ちが、完全に壊れてしまうのではないか――? ネルはこれまで沢山の人間を殺してきたのだろうか――? そう思うとネルのあの美貌が獲物を誘き寄せるための罠に思えてきてしまう。あの美貌なら人間を誘惑して餌食にするなんて容易だろう。きっと、自分もその一人なのだ、自分のこともネルは食べる気でいたのだ。サマンサの中であれやこれやと恐ろしい妄想が膨らんでいった。ネルのあの美しい姿の中に悪魔が住んでいるように思えた。

 けれど、どれだけ距離を置こうとしても、サマンサの胸の奥にはネルの存在が焼き付いていた。あの湖のような青い瞳が、寂しげに揺れた瞬間が忘れられなかった。

 逃げたくせに、心はネルのことでいっぱいだった。夜が来るたびに、彼のことを思い出す。………こんなの、もう耐えられない。気づけば、サマンサは夜の公園に向かっていた

 ベンチには誰もいない。だが、ここに彼がいた痕跡だけが、ひっそりと残っている気がした。

 サマンサは躊躇いながらも、ぎゅっと拳を握りしめた。ネルは、もう会いに来てくれないかもしれない。

 それでも——。

「……ネル」

 サマンサは震える声で呼んだ。沈黙。やっぱり、もうここにはいないのかもしれない。サマンサはぎゅっと唇を噛んだ。

 しかし、そのとき。ひそり、と。闇の中から、足音が聞こえた。サマンサの心臓が大きく跳ねる。ゆっくりと、月明かりの下に現れた影。

「……なぜ」

 小さな声が、闇に溶けるように響いた。サマンサは息をのんだ。

「……なぜ来たんだい?」

 そこにいたのはネルだった。まるで、信じられないものを見るような目だった。

「……君は、もう来ないと思ってたのに。」

 いつもと同じように、夜の闇を纏うように静かに佇んでいた。けれど、その顔には、ほんのわずかに驚きの色が滲んでいた。

 ——予想していなかったのだろう。サマンサが、またここに来るなんて。

「……私、バカだから」

 サマンサは自嘲気味に笑った。

「ネルが吸血鬼でも……やっぱり、会いたかったの」

 ネルの青い瞳が、大きく揺れた。

 ——サマンサはまだ、自分を恐れているはずだ。

 その証拠に、彼女の指先は微かに震えている。それなのに。

「……なんで、そんな顔してるの?」

 ネルは、戸惑うようにサマンサを見つめた。

「……僕は、人間じゃないんだよ」

「知ってる」

「……君が好きな“ネル”は、ただの幻だったんだよ」

「そんなの、わかんないよ」

 サマンサは強がるように笑った。

「ただ……それでもネルに会えなくなるのは嫌だった」

 ネルは何かを言おうとした。

 でも、その前に——サマンサはそっと、ネルの手を握った。ネルの手は氷のように冷たかった。サマンサはその冷たさに、少しだけ震えた。けれど、すぐに力を込めた。

「……ねえ、ネル」

「……何?」

「もう一度、日記を書こうよ」

 ネルの瞳が大きく見開かれた。

 それは……サマンサが最初にネルに提案したものだった。

「……僕は……」

 ネルの唇がわずかに震えた。その表情には、安堵と戸惑いが入り混じっているように見えた。サマンサは少しだけ笑い、そっと続けた。

「今度は、ネルが最初のページを書いてよ。」

「私、バカだから……たぶん、ネルのこと、まだ好きだよ」



 ネルの唇が、震えた。

 ——この感情は、何だろう?

 寂しさか? 嬉しさか?……わからない。けれど、ネルはそっとサマンサの手を握り返した。





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