VI Under the Frozen Moon 凍る月の下で
それから数日が過ぎた。サマンサは学校に行き、クラスメイトの陰口や村八分に耐え、家に帰り、母の一方的な愚痴や説教、母とケヴィンの痴話喧嘩に耐えながら日常を過ごしていた。だが、彼女の心の半分以上は、あの夜のネルとのやり取りに支配されていた。
「夜しか会えないんだ」
その言葉が、何度も頭の中で反芻される。ネルの目が月の光を受けて赤く輝いたことも——あれは気のせいだったのか? それとも本当に……?
そして何より、あの時ネルは確かに言った。
「君には、絶対に危害を加えない」
それは、まるで自分が危害を加えうる存在であるかのような言い方だった。
もし、ネルが普通の人間じゃないとしたら?
サマンサは、そんな馬鹿な、と笑い飛ばしたかった。だが、彼の話し方、言葉遣い、歴史の知識、日本語を知らないはずなのに意味を理解したこと——どれも常識からは外れているし、普通じゃない。
ネルは何かを隠している。
それが確信に変わったのは、次にネルに会ったときだった。
***
「ネル」
いつもの公園。街の喧騒から少し外れた場所にある、小さな噴水のそばで、サマンサは彼の姿を見つけた。そこは今、冷え込みで水が止まり、噴水の周りに張りついた霜が月光を反射して光っていた。冷たい風が吹きすさぶ中、足元の地面は凍り、サマンサの足元には時折、微かに軋む音が響く。寒さは骨身に染みるようで、サマンサは身をすくめ、肩を引き寄せて温まろうとしたが、その寒さにもかかわらず、ネルに会いたい一心でその場を離れなかった。
ネルはベンチに座り、夜空を見上げていた。彼はサマンサの足音に気づくと、ゆっくりと視線を向けた。
「こんばんは、サミー」
その笑顔はいつも通りだった。けれどサマンサは、まっすぐネルの顔を見つめた。
「ねえ、ネル」
「ん?」
「なんで、夜しか会えないの?」
ネルは微かに眉を動かした。
「……前にも言っただろう? 理由は言えないって」
「それ、ずるくない?」
「ずるい……?」
「ネルは私のこと、すごく知ろうとするよね。私の言葉、私の気持ち、私の過去……いろいろ聞いてくる。でも、ネルのことを聞くと、いつもはぐらかす」
サマンサは腕を組んでネルを睨んだ。
「…………それって、不公平じゃない?」
ネルは一瞬、驚いたような表情を浮かべたが、すぐに静かに笑った。
“……Tu es parfois étonnamment perspicace.”
(「……君は時々、驚くほど鋭いね」)
「で、答えてくれるの?」
ネルは少し視線をそらし、噴水の水面をじっと見つめた。水はもう止まって、ひび割れた氷が薄く張っている。その上に落ちた月光が、冷たい輝きを放っていた。
「……君を、怖がらせたくないんだ」
その言葉に、サマンサの心臓が跳ねた。
「どういう意味?」
「……」
「ネル」
ネルはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりとサマンサを見た。その青い瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、赤い光がちらついた気がした。
「もし……もし僕の正体が君の想定を越えた者だったら?」
「想定を越えた……もの?」
「たとえば、君の常識の範囲にはないものだったとしたら……それでも、僕と一緒にいてくれる?」
その声は、まるで試すようだった。サマンサの胸がざわめく。
「そんなの……ネルが何者かによる」
「たとえば」ネルはゆっくりと言った。
「僕が、人間じゃなかったら?」
サマンサは息をのんだ。ネルの表情は穏やかだったが、その言葉には重みがあった。
「……それって、どういう意味?」
「ただの仮定だよ」
ネルは微笑んだ。
「君が言う通り、僕のことを君に話さないのは、不公平じゃないかって思っただけさ」
サマンサはネルをじっと見つめた。彼は冗談めかしているように見せていたが、その瞳の奥にあるものは、嘘ではない。
ネルは、本当に——
「サミー」
ネルがそっとサマンサの手を取った。冷たい。氷のように、冬の空気よりも冷たい手だった。
"Tu me croiras ?”
(「僕を、信じてくれる?」)
サマンサの心臓がドクンと鳴った。彼の手の冷たさが、なぜか心地よく感じた。
「……今のところは、ね」
ネルは目を細めて微笑んだ。
けれどサマンサは、その夜、彼の青い瞳がほんの一瞬、確かに赤く光るのを見た。
ネルは、何かを隠している。
そして、それはきっと——普通の人間ではありえない「何か」なのだ。
******
ネルが何かを隠している——それはわかっていた。だが、それを問い詰めることはできなかった。サマンサには、ネルを失う勇気がなかった。
それでも、不安の種は消えなかった。
次の日もサマンサはネルと会った。夜の公園、冷え切ったベンチの上。今日も母のいる家には帰りたくなかった。
ネルは相変わらず優しく、そして不可解だった。サマンサは、ふと思いついて口を開いた。
「ねえ、ネル。賛美歌って知ってる?」
ネルは意外そうに眉を上げた。
「賛美歌?」
「うん。教会で歌うやつ。私お葬式とかでよく歌うのよ」
サマンサは思い出しながら、そっと口ずさんだ。
——Amazing grace, how sweet the sound, that saved a wretch like me…
すると、ネルの表情が凍りついた。
「……やめて」
サマンサはぎくりとした。ネルの声は低く、かすかに震えていた。
「え?」
「……やめて、それ」
ネルは即座に耳を塞いだ。しかし、それでも不十分だったのか、まるで頭の中を切り裂かれるような表情を浮かべ、身を震わせた。
サマンサは息をのんだ。
今まで見たこともないほど激しい拒絶——まるで、それがネルにとって何か耐え難い拷問であるかのように。
「ネル……?」
“I told you to stop!!”
(「やめろって言ってるだろ!」)
ネルが叫んだ。
その瞬間、サマンサは確信した。
——やっぱり。
ネルは「普通の人間」じゃない。
心臓が激しく打ち始める。呼吸が浅くなる。頭が真っ白になる。
けれど、サマンサの口は勝手に動いた。
「……私のお母さんのお母さん、つまり、私のばあちゃん……シンシアっていうんだけどね……。私が生まれる前に亡くなったの」
ネルの手がぴくりと動いた。
サマンサはそれを見逃さなかった。
「ばあちゃんはね。子供の頃、吸血鬼に会ったことがあるって言ってたんだって」
ネルの表情が強張る。サマンサは震える声で続けた。
「彼は夜しか現れなくて、肌がすごく白くて、髪はアッシュブロンドで……目は、まるで湖みたいに青かったって」
それを聞いたのは、たしかサマンサが8歳の頃だった。家族の集まりのとき、母の弟――叔父にあたる人物が、ふとした雑談の中で話してくれたのだ。
「母さん、昔から変なこと言ってたよなあ。吸血鬼に出会ったことがある、とかさ。子供の頃、アッシュブロンドで深い青色の目をした不思議な子と友達になったんだって。この世の者とは思えないほどの美形だったって。でも、そいつは昼間は絶対に現れなくて、肌が冷たくて、そして……いつの間にか消えたって」
家族はみんな笑っていた。母は「そんなの、母さんの作り話に決まってるじゃない」と呆れたように言い、叔父も「まあ、母さん、ちょっとロマンチストだったからな」なんて軽く流していた。
でも、サマンサはその話がずっと心のどこかに引っかかっていた。
――金髪で青い目をした、不思議な子。肌が冷たくて、夜にしか現れなくて、いつの間にか消えた存在。
ゆっくりと、サマンサの視線がネルの顔をなぞる。金色の髪、深い青の瞳、この世の者とは思えない完璧な容姿。人間ではありえない存在。
ネルの指先が微かに震える。
「その人は、普通の人間とは違ってた。でも、すごく優しかった。誰よりも優しくて、誰よりも……寂しそうだったって」
サマンサの喉がひりついた。
「ばあちゃんは、その人を本当に大切に思ってた。でも、どんなに優しくても……やっぱり、少し怖かったって」
ネルの唇が、何かを言おうとして、止まる。
「でもね、ばあちゃんは最後にこう言ったらしいの。
『あの人は、祝福されるはずの人だったのに、時代がそれを許さなかったのかもしれない』……って。」
ネルの青い瞳が大きく揺れる。
「だから……ネル、あなた本当は何歳?」
さらにサマンサは、喉が引き裂かれるような気持ちで言った。
“Nell, tu es un vampire ?”
(「ネル——あなたは、吸血鬼なの?」)
その言葉が夜の空気に落ちた瞬間、すべてが変わった気がした。ネルは微動だにしなかった。まるで、影のように——いや、最初からそこにいなかったかのように。
けれど、その沈黙こそが、答えだった。サマンサの背筋に、冷たいものが駆け抜けた。ネルの瞳が、月の光を反射して淡く揺れる。サマンサは息を呑んだ。
——怖い。けど、それ以上に、どうしようもなく切なかった。