III A Whisper of Doubt 疑念のささやき
「Salut.今日は先に来てたのね」
サマンサがいつものようにショッピングモールの噴水の前に行くと、ネルがベンチに腰掛けていた。手すりに肘をつき、青白い指先で唇をなぞっている。
「やあ」
元々病的な美しさを持つ彼だが、今日はましてや顔色が悪い。
「……どうしたの? なんか元気ない」
「……そうかな? 僕はいつもこんなだよ」
ネルの返事に少し違和感を覚えたが、気にするほどでもないと流した。
サマンサは深く追求しないことにした。自分も根掘り葉掘り訊問されるのは好きじゃないから。
でも――。
この静かな相手に、なぜか「何か言わなきゃ」と思ってしまう。励ますのは苦手だ。なら、自分のことでも話してみるか。
「……実は私が元気ないのよ」
サマンサは無理に笑った。ネルが黙っているので、つい続きを話してしまう。
「母さんと仲良くなくて喧嘩すらしないからさ。私が一方的に色々言われてばかり」
「…………」
「最近は彼氏にばっかり構ってて、私の話聞いてくれないのよね」
ネルは静かに聞いているだけだった。でも、それがむしろ心地よかった。変に慰められるよりずっと。
「……母さんが幸せそうならいいんだけど、そうでもなさそうだから……」
ふと、ふっと少し違う話がしたくなった。
「…………ねえ、恋愛したことある?」
「…………さあね」
即答しないのが意外だった。普通、15歳の男の子なら「あるよ」とか「ないけど興味はある」とか言いそうなものなのに。
「してみたいって思う?」
「思わないな」
「なぜ?」
「僕は普通じゃないから」
(病気ってそんなに深刻なの?)
「……じゃあ、あなたにぴったりな人が現れて、あなたのためになんでもすると言ったら?」
そう言うと、ネルは一瞬サマンサを見て、複雑そうな顔をした。またあの、酷く老成した表情。その瞳の色が、沈んだ湖のように深い碧だった。そして次の瞬間、彼は少し口元を歪めた。
「……同情する」
サマンサは返す言葉が見つからなかった。同年代の少年の口からそんな言葉を聞くなんて。彼には悪いが、予想の斜め上を行く答えに吹き出しそうにさえなった。まるで大人が、何かを悟ったような言い方だ。まるで、恋愛というものがどんなものかを知り尽くし、それが決して救いにならないと悟っているかのような――そんな話し方だった。
ふと、サマンサの目に止まったのはネルの服装だった。ショッピングモールの中は暖房がきいてるとはいえ、外の気温は今、氷点下10度を下回っているはずだ。にも関わらず、ネルは薄手のシャツにカーディガンを羽織っているだけだった。
「ねえ、寒くないの? コート着てないじゃん」
ネルは少し考える素振りを見せてから、首を横に振った。
「寒いって、どんな感じだっけ?」
サマンサは一瞬言葉を失った。息も止まってしまった。冗談を言っているのかとも思ったが、ネルは本気のようだった。
「……体が縮こまって、指先が冷たくなって……そういうの」
サマンサは衝撃のあまり上手く言葉が紡げない。なんでこの人はそんなことを聞くのだろうか。
「ふうん」
ネルは興味なさそうに肩をすくめた。でも、サマンサの視線は彼の指先に釘付けになった。彼の手は、まるで氷の彫刻のように青白く、それなのに指一本震えていなかった。
「僕は大丈夫。慣れてるから」
寒さに「慣れる」なんてことがあるのか? それに、指先も頬も、不自然なほど冷たく青白い。それなのに震えのひとつも見せないなんて――。
サマンサはその違和感を振り払うように、カバンの中を漁った。
「あ、そうだ。これ食べる?」
取り出したのはティムホートンのチョコレート菓子。ネルの手のひらにそっと乗せる。
しかし、ネルはそれをじっと見つめるばかりで、一向に口に運ぼうとしない。
「……甘いものは苦手なんだ」
そう言って、ネルはチョコレートをサマンサに押し戻した。
「え、でもこれ、そんなに甘くないよ? ほろ苦いやつ」
「それでも、いいや」
ネルはふっと微笑んだが、どこか無理をしているように見えた。
「ありがとう。でも……僕、食べるの、得意じゃないんだ」
ネルの指先が、ほんの一瞬、わずかに震えた。それは寒さのせいではない。まるで、そこにあるチョコレートが”異質なもの”であるかのように、指がそれに触れることすら拒んでいるようだった。
食べるのが「得意じゃない」? それは一体どういう意味なのか。「それってどういう意味?」と聞いてみたくもなったが、何故か聞いてはいけない気がした。
――寒がらない。食べ物を拒む。
サマンサの中で、言葉にならない違和感がじわじわと膨らんでいった。
「昨日の事件やばいね。しかも今回は二日続けてじゃん」
「また何者かに首筋を噛まれたかなんかで血を流して死んでたって」
サマンサが朝登校すると、昨晩起こった殺人事件のことでもちきりだった。学校のすぐ近くだったからだ。
どうも今回はサマンサが通う高校の近くの大学の女子学生が被害者らしい。前の二件と同様、凶器も見つからない上に、全く犯人像が掴めず、警察の捜査は難航しているとのことだ。
「でもさあ、毎回毎回ナイフで切り裂かれたとかじゃなくて、噛まれたような跡だったんでしょ? 人間じゃなくて野犬とかじゃないの?」
「それだったら全身ズタボロにやれてるはずでしょ? 首以外は綺麗なままだったんだって。今回は目撃者もいるらしいんだけど、『なにをしてるんだ!』って懐中電灯を向けようとしたら、消えるように逃げていったんだって。人間の動きとは思えなかったって」
皆ロッカーの前で、スマホにかじりつき、ネットのニュースを漁りながら口々に噂しあっている。
そんなクラスメイトたちをよそに、サマンサは一限目の教室へ向かった。
「やあ、今日も落ち込んでるの?」
翌日、ネルにそう尋ねられたサマンサ。
Ouiと言ったらさすがに構ってちゃんが過ぎる気がした。
「Non, 全然」
サマンサがそう言うとネルはまた複雑そうな顔をした。サマンサが気をつかってそう言っていることに気づいているのだろう。
「……そう、ならいいけど」
ネルが伏し目がちになる。その様はまるで絵画のように美しかった。どことなく、昨日よりも顔色がいいような気がする。それでも相変わらずひ弱そうなのだが。
「ところでだけど、連絡先を交換できない?」
ふと、サマンサは言った。
「? 文通でもしたいってこと? 」
文通…………あまりにも時代遅れな答えにサマンサは唖然としてしまった。おかけで、まるで幽霊でも見るような目でネルを見つめてしまった。彼が自分と同じように連絡手段を使うことを期待していたが、どうやらその常識は通じないらしい。
「……え? 何言ってるの。Whatsappとか持ってないわけ?」
サマンサがそう尋ねると、ネルは怪訝そうな顔になった。
さらにネルが時代錯誤なのは連絡手段だけではなかった。初対面のときから感じてはいたが、彼の使う英語も教科書的で古臭く、ティーンエイジャーらしくないのだ。彼の話す言葉は、まるでシェイクスピアの劇のようだった。
「Whatsapp? 何かな、それは」
ネルは首をかしげ、まるで何かの難解な言葉を聞いたかのように答えた。彼の態度は不思議と、今のモントリオールに生きる普通の人間とは思えなかった。
「ほら、Whatsappよ。メッセージアプリ。皆使ってるでしょ」
サマンサは少し驚き、すぐに説明を始めた。彼がそうもわからないとは思わなかったのだ。ネルはゆっくりと頷きながらも、依然としてその言葉にピンと来ていない様子だった。
「ああ、なるほど。残念ながら、そういった……現代の道具にはまるで馴染みがなくてね」
「え……Whatsapp使ってないの?まじで?知らないの? 」
ネルの答えには、少しの困惑と共に、淡々とした響きが含まれていた。彼の話し方、言葉の使い方が、どこか今の時代に馴染んでいないことにサマンサは気づく。
サマンサは信じられなかった。今どきWhatsappを知らない人がいるなんて。しかもティーンエイジャーが。
「あいにく使ってないよ。それに、あれも持っていなくてね……なんと呼ぶのだったか……ああ、そう『スマートフォン』と呼ぶのかな」
今度は困惑したような笑顔を浮かべるネル。
「……は?」
サマンサはその言葉に愕然とした。「スマートフォンを知らない」という事実が、思いのほかショックだった。
「マジで?じゃあ何使ってんの?」
ネルはしばらく考え込むような素振りを見せ、最後にゆっくりと答えた。
「紙とインクで事足りてるよ」
その言葉にサマンサは一瞬、言葉を失った。たしかに彼が時々、ノートに書きつけているのは見たことがあるが…。
彼の目の前で現代社会の情報網とテクノロジーが無に帰すような感覚に襲われる。
「うっそ。百年前の人みたい」
そのときネルの笑顔が少し引き攣ったのをサマンサは見逃さなかった。
「それは実に興味深い推測だね。ねえ、本当に僕がそんなに年老いて見えるかい?」
サマンサは思わずため息をついた。これでは、まるで時代をさかのぼって生きてきたかのようだ。
「見た目の話じゃないよ、言動のこと。スマホもないし、WhatsAppも使わないし……じゃあ普段は何してるの? ロウソクの明かりで読書とか?」
ネルはその問いに少しだけ眉をひそめたが、すぐに答える。
「時折なら、ね。揺らめく蝋燭の光には、ある種の風情があると思わないかい?」
サマンサはそれにさらに驚き、彼の言葉が何とも不可解で古風に感じられることを再確認した。
「冗談でしょ?」
ネルは微笑んだ。
"Je te jure, ce n’est pas une plaisanterie."
(「本気だよ、冗談じゃない」)
彼の言葉遣いが古臭いのは英語だけではない。今の時代、フランス語を使う人は多くても、こんなに「古風」な響きのフランス語を聞くのは初めてだった。
――現代社会は子供でもスマホがないと生活できない。シリアの難民ですらスマホの情報を頼りに生きているのだ。それなのに存在すら知らない人がいるなんて。一体この人はどうやって生きているのだろう、と。驚愕のあまりサマンサが唖然としていると、ネルはまた困ったように笑った。
「ごめんよ、君にとってはさぞかしつまらない奴だろう、僕は」
彼の諦念じみた微笑みを見て、サマンサは今しがたネルを宇宙人か何かのように扱ってしまったことを反省した。もしかしたらまともに流行に触れ、遊ぶこともできないほど病気が深刻なのかもしれない。自分の常識が万人に通用すると思ってはいけない。ここは移民の国だ。母国で差別や迫害を受けてきた人や、貧困に苦しんでいる人が救いを求めてここへやって来る。自分の先祖もそうだった。この国で生きていくなら、あらゆる価値観に理解を示すことが必要なのだ。
「ううん、大丈夫。何かあったら手紙でも書くわね。そうだ、会えないときはこのベンチの裏にでも手紙貼っておくからチェックしてよ」