Ⅱ Strangers in the Same Space 同じ空間の中で
「やあ」
サマンサがいつものようにショッピングモールの休憩所で課題をやっていると、見知らぬ少年に声をかけられた。
アッシュブロンドの髪、赤色がかった藍色の瞳、そして凍るような白い肌。まるでこのモントリオールの厳しい冬の大地のようだ。サマンサは久しぶりに感覚が揺さぶられるような気がした。
(なんて綺麗な色の目と髪……今まで見てきた誰よりずっとずっと綺麗……)
だが、ほっそりとした体つきと相まって少し病的にも見える。一月だというのにシャツに長袖のセーター、とやや薄着だった。ショッピングモール内は暖房が効いているとはいえ、サマンサ含め他の人間は皆コートを着ているというのに。彼だけ春の空間の中にいるようだ。
少年はサマンサに微笑みかける。サマンサは少年のその微笑みに既視感があるような気がした。
「いつもここに一人でいるよね……?」
ややイギリス鈍りのフランス語だ。ここモントリオールでは三番目に多いイングランド系だろうか?
この国では見知らぬもの同士が気軽に話すことなど別に珍しいことではない。しかし、こんな絶世の美少年に話しかけられたことは初めてだ。人間不信気味のサマンサは嬉しさより先に疑念が湧いてきた。
「何これ、何かの勧誘?」
サマンサが突き刺すように言うと、美少年は吹き出し、笑いながら言った。
「勧誘って……そんなわけないでしょう」
「じゃあナンパ? ブスの私に随分物好きだね。やめておきなさい。私みたいなブスと話してたら笑われるよ。ブス専だって」
サマンサが僻みっぽく言うと美少年はますます可笑しそうに笑った。
「面白い人だなあ。全く。そんなんじゃないよ。友達になろうとも思ってないけど。ただ少し気になっただけ」
歳の割にはかなり落ち着いた口調で話す。育ちが良いのだろうか。美少年の眼差しはただの好奇心ではなく、まるで何かを探しているかのように深い。その瞳の中には、モントリオールの冬に見られるような冷徹な静けさが漂っていた。
それにしても「友達になるつもりはない」なんてわざわざ言ってくるとは失礼なやつだ。関わらないでおこうとサマンサは思った。
「そう。さよなら。adieu!」
荷物をまとめるとその場を去るサマンサ。こんな美少年が自分に話しかけるなんて、絶対よからぬことを企んでいるに違いないと思ったからだ。
サマンサが少し気になって振り返ると、美少年は苦悶に満ちた顔で喉を押さえていた。
(風邪でもひいてんのかな?)
サマンサは母とモントリオール中心街の高層マンションに住んでいる。それも16階なので窓からはノートルダム大聖堂やチャイナタウンの門がよく見える。だが、こんなところで母と二人きりで暮らしているのも寂しいような窮屈なような何とも言えない感じがする。
「母さん、今日ケヴィンは?」
ケヴィンというのは母の恋人の名前だ。アイルランド系の男だが、酒やドラッグに溺れてばかりで金遣いも荒く、さらに女癖も悪いろくでなしなのでサマンサはあまり好きでない。だが、母は彼の口の上手さに乗せられているのか、母性をそそられているのか何か知らないが離れ難いようだ。母は高学歴高収入の出来る女性であり、サマンサの勉強や素行についてはかなり喧しい。だが、男を見る目はない。その上男に依存するところがある。父はケヴィンと違って、教養もキャリアもある男性だったが、やはり女癖は悪かった。離婚の原因も父の浮気だ。再婚相手も韓国系なので、アジアンフェチの疑惑もある。
「またカジノか呑みにでも行ってるんじゃない」
母は眉間に皺を寄せ、ため息をつくとうんざりしたようにそう言った。
テレビを付けると、CBCの記者がLGBT当事者たちのインタビューをしていた。母が呆れたような顔で画面を見る。まるで躾ができてない悪ガキを見るように。
「この人たち、図々しいと思わない? もうこの国では同性婚もできるのにこれ以上何を要求しようっていうのよ。もう差別なんてなくなったじゃない。いつまで被害者面してんだか。そんなんだからLGBTは嫌われるんだわ」
サマンサは胸やけがしてくるようだった。母はなんて想像力がないのだろうと。自分は日系人として散々差別を受けてきたはずなのに、なぜ「LGBT」にはそこまで冷酷になれるのかと。そう反論したところで、「私たちは国に貢献してるし、努力してるからLGBTとは違う。あんたは子供だから何もわかってない」などと取ってつけたようなことを言われるだけなので聞き流すだけだが。こんなに想像力がないから男を見る目もないのだとサマンサは思っていた。
母は昔から努力の人だった。子供のころから努力して努力して勉強でもスポーツでも何でも一番になり、いい会社に入ることもできた。だから自分が「努力が足りない」と判断した人間にはとても厳しいのだ。それが自分の娘でも例外ではない。いや、身内だからこそ厳しいのだろうか。ケヴィンには何だかんだ文句を言いながらも別れようとしないから。だが、なにが母をそんな人間にしたのかサマンサはよくわかっていた。きっとアジア人女性だからといって馬鹿にされたくなかったのだろう。優秀な人間になって白人たちに認めてもらいたかったのだ。実際優秀でもなんでも差別的な人達は「出来のいい動物」程度にしか思ってくれないのに。
母の母、つまりサマンサの祖母は中指を立てられてもジャップと罵られても黙って微笑んでいるような人だったらしい。それは「差別主義者とまともにやりあわない」という祖母なりの強さだったのだろう。そんな祖母はサマンサが生まれる前に亡くなったのだが、母はそんなおっとりした祖母に反発を覚えていたようだ。
(母さんって笑ったことあるのかな……)
舐められまいと常に完璧であろうとする母に対してサマンサはそう思っていた。「努力」や「苦労」は必ずしも人間を幸せにするものでも、優しくするものでもないと母で学んだ。
最近母は仕事から帰ってくるとすぐフラフラ飲み歩いているケヴィンを探しに行ってそのまま彼の家で世話を焼き、サマンサの話は聞いてくれない。一方的に指図をするだけだ。たまに二人の時間になると説教をされるか、父の悪口か、下らない愚痴か、ケヴィンへの不満を聞かされる。その割にサマンサの話は「暗くてくだらない。私に話すなら前向きな話にだけにしろ」と聞いてくれないのだ。サマンサに前向きになれなど土台無理な話なのだが、前向きな話をしたらしたで「口ばっかじゃなくて私が納得いくような結果を残してからそんな話をしなさい」などと言ってくるのは目に見えていた。
そのとき、殺人事件のニュースが流れた。25歳の男性が仕事帰りに喉を何者かに裂かれて死んでいたという。
「やだあ、今度はグリーンライン沿い!? 最近多くない? 若者が殺される事件!」
母があからさまにうんざりしたような声をあげる。
「……そうね」
そういえば、ついこないだも23歳の売春婦がほぼ同じ要領で殺された。
「やあねー、物騒になってきたわね、モントリオールも。移民を受け入れすぎたせいなんじゃないかしら。だから感染症も持ってこられるのよ」
「自分も移民三世のくせに……」
思っていたことがつい口に出てしまったサマンサ。
「え?」
「なんでもない」
「Salut.また会ったね。今日も一人でいるの?」
いつものショッピングモールの休憩所で読書をしていると、昨日の美少年がやってきた。またこいつか、とサマンサは思った。今日もまた笑われたりろくでもないことを言われたりするのだろうか。だが、会ったら即逃げなければいけないほどの危険人物とは思えなかったので、暇つぶしに会話くらいしてやることにした。
「……そうね。友達いないもの」
口を開けばネガティブな言葉しか飛び出さないサマンサが面白くてたまらないのだろうか。美少年がまた目尻を下げてクスリと笑う。
「奇遇だね、僕もなんだ」
「意外。あなたみたいな綺麗な人なら人が寄ってくるだろうに」
そう。やはり人間は見た目なのだ。サマンサはたった15年の人生で散々それを思い知らされてきた。同じ混血なのにまるで違う待遇を周りから受けていた日英ハーフの同級生、とんでもなく性格が悪いのに容姿がいいという理由で皆からチヤホヤされている一軍の女子たち。
「君も綺麗だよ」
彼は少し口角を上げて微笑みながら言った。本当に美しい笑みだ。真顔なのに笑っているように見える。
――そうだ、既視感があると思ったら、モナリザやマリア像のようなアルカイックスマイルだ。
サマンサはそうピンと来た。少し口角を上げただけなのにこの引力はなんなのだろうか。
絵か彫刻のように整った顔でこんな風に微笑まれたら老若男女誰もが虜になるはずだ。
「ありがとう」
一応お礼は言ったが、彼にとっては他人を褒めることなんて挨拶みたいなものなのだろうとサマンサは思った。
「あなた、この辺りに住んでるの?」
「そうだよ。この噴水の中にね」
彼はそう言って噴水を指さす。照明の効果でパープルになった水が柱のごとく高く天井に向かって吹き出してる。
「……冗談よね?」
サマンサが真顔でそう言うと、ふふっと笑われた。
「君、日本人?」
ここ、モントリオールには日系人は5000人程度しかいない。だからますます差別的な連中に中華系の人々と一緒くたにされやすいのだ。差別意識を持ってない白人たちでさえ「東洋系なんて皆一緒」とどこかで思っている。国によっては勿論、個々人それぞれ違ったアイデンティティを持っているにも関わらず。
「なんで私が日系人だってわかったの?」
「…………なんとなく、雰囲気かな」
そう言って何かを見抜くように見つめてきた。吸い込まれそうな藍色の瞳。その表情はまた彼を実際の歳よりかなり上に見せた。まるで達観した老人のように。サマンサは久しぶりに「自分がそこに存在している」ことを教えてもらえた気がした。同質の魂の持ち主にやっとめぐり逢えたような、そんな感覚だった。
そしてなんだかんだ話し相手に飢えていたサマンサ。昨日はなんて失礼なやつだと思ったが、今は彼と会話をすることを嫌だとは思ってない。いや、むしろ……
「私サマンサ。サマンサ・アツコ・タカハシ。サミーって呼ばれることが多いよ。あなたは?」
珍しく自分から名乗った。「誰も私に関心なんてあるもんか」と他者に対してシャッターを降ろしていたサマンサだったが、彼には自分のことを知って欲しいと思った。
「僕はネル」
「歳は?」
「15歳くらい」
……「くらい」? サマンサは少し引っかかったが、追求せずにいた。
「私も15。驚いた。もっと上かと思った」
白人はアジア系より歳が上に見られることがあるが、そういう問題ではない。ネルはもっと内側からの雰囲気が老けているのだ。
「そう? でもよく言われるかな」
「どこの学校に通ってるの?」
「……学校には行ってないよ。病気でさ」
「……そうなの」
(あー、だからこんなに顔色悪くて痩せてるんだ。でも外出はできるのね)
「……また明日もここに来るの?」
病気だと言っているのに「明日も会いたい」などと言ったら配慮がないと思ったのでこう切り出してみた。
「……多分ね」
「じゃあまた会える?」
「……会えるよ」
アルカイックスマイルが一瞬崩れたのを、サマンサは見逃さなかった。