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XIII The Blood of Endings 血の果てに


 ネルは初めてサマンサの肌に唇を寄せた瞬間、全身が痺れるような衝撃に襲われた。

——これは、危うい。

 彼女の血は、今まで口にしたどんな血とも違っていた。温かく、甘く、切なく、まるで何か懐かしい夢を飲み干しているようだった。その一滴一滴が喉を焼くほどに快楽をもたらし、飲めば飲むほど体の奥底から渇望が膨れ上がっていく。

 もっと欲しい。もっと、この甘美な蜜を。

 喉が痺れるように疼いた。彼女の鼓動が指先から伝わるたび、さらに深く牙を沈めたくなる衝動に駆られた。体の隅々まで満たされるこの感覚を、決して手放したくない、と。——いや、ダメだ。

 理性が辛うじて警鐘を鳴らす。これは、彼女の命そのもの。すべてを飲み干してしまえば、彼女は死ぬ。自分の手で、愛しい少女を殺してしまう。そしてネルは震える息を吐き、ようやく牙を引き抜いた。唇を離すと、サマンサの白い肌に赤い雫が滲んでいた。

 喉が焼けつくほど渇いている。飢えはまだ収まらない。きっと、自分はひどく血に飢えているのだ。

 このままでは危険だ。とにかく、他の者の血を飲んででも飢えを紛らわせなければ。そうすれば、少しは冷静になれるはずだ。


 ネルは目の前に倒れているケヴィンをじっと見つめる。ケヴィンの血を吸えば、とりあえずは落ち着けるだろう。

 サマンサの血を吸い続ければ、いずれ彼女を殺してしまう。それは絶対に避けなければならなかった。ならば、代わりの血を――。

 ネルはゆっくりと膝をつき、ケヴィンの首筋に指を這わせる。鼓動は鈍く、重たい酒の匂いが混じっていたが、血そのものは充分に温かい。サマンサを殺さないため。ネルは迷いを振り払うようにケヴィンの皮膚に牙を突き立てた。鉄の味が口の中に広がり、喉を通る。しかし――

「っ……!」

 ネルの喉を、焼けるような痛みが駆け抜けた。飲み込んだはずの血が、まるで毒のように体を蝕んでいく。内臓が裏返るような激しい吐き気に、ネルは苦悶の表情を浮かべた。喉の奥がひりつき、腹の底からこみ上げてくるものを堪えきれず、ネルは床に手をついた。

「……っ、ぁ……!」

 次の瞬間、血の混じった胃液を吐き出した。ケヴィンの血が、ネルの体に拒絶されたのだ。口の中に広がる鉄臭さが、苦しみを一層際立たせる。喉を焼くような感覚が続き、ネルは荒い息をつきながら震えた。その苦しみは、肉体的なものだけではない。彼の心が、もうサマンサの血を欲しがるその痛みが、内側から彼を壊し始めていた。

『我々は人間に恋をしたら死ぬ運命なのさ』

 昔黒衣の男に言われた言葉が脳裏に浮かぶ。

(ついこないだまで、どんな人間の血でも飲めたのに……なぜ……)

 床に倒れたままのケヴィンをもう一度見る。以前はどんな人間も美味に見えるかそうでないかの違いはあれど、皆「食料」に見えた。だが、今ネルの本能はケヴィンを「食料」ではなく「ただそこにいるだけの人間」として認知していた。

(……なぜ……なぜ……)

 次にベッドに寝ているサマンサに目をやる。

「…………っ!!」

 サマンサが目に入った途端、喉が焼けるほど渇いた。全身から彼女の血を欲する衝動が湧き出てくるかのように。血が沸騰するほど熱く、体が一瞬で飢えに支配される。まるで、砂漠で水を求めるように――否、それ以上に、サマンサの血を欲してしまう。

「嘘だ…………」

――もう自分はサマンサの血しか受けつけられない。

 それが、彼女を愛してしまった証拠だった。

 ネルは手の甲で口元を拭いながら、愕然とした目で床に散った血を見つめた。あまりにも残酷な事実。サマンサを守るために選んだはずの道が、今、完全に閉ざされた。このままでは、いずれサマンサの命を奪ってしまう。ネルは柄にもなく首をぶんぶんと横にふった。まるで見た目通りの思春期の子供に戻ったかのように。

「いやだ……いやだ……こんな風に彼女を求めたくない……っ!!」

 かすれた声が、静まり返った部屋に落ちた。部屋の中には、ネルの荒い息遣いと、血の匂い、そして――静寂があった。そして、その静寂を破るように、微かな寝息が揺らいだ。サマンサが、ネルの苦しそうな息遣いに気づき、ゆっくりと目を開けたのだった。

「……ネル?」

 その声にネルは顔を上げた。碧い瞳が、絶望に揺れた。

 サマンサは目を覚ますと、目の前に広がる光景に息を呑んだ。

 ネルが膝をつき、震えながら床に手をついていた。そのか細い指先が血に濡れ、唇の端からも赤黒い滴が伝っている。苦痛に顔を歪めるネルの姿に、サマンサは反射的に飛び起きた。

「ネル!」

 駆け寄り、その肩に手を置く。ネルの体はひどく冷たかった。それでも、サマンサの温もりを感じた瞬間、ネルの肩が小さく震えた。

「来ないで……」

 ネルは掠れた声で言った。

「もう僕は……君の血でしか生きられなくなった……」

 震える囁きが、まるで呪詛のように夜の静寂に溶けていく。

 サマンサの全身に戦慄が走った。ネルの言葉の意味を、理解するのが怖かった。けれど、それでも確かめずにはいられない。喉の奥が詰まりそうなほどの不安と恐怖を押し殺しながら、彼女は震える唇で問いかけた。

"Pourquoi…?(「なぜ」)"

 フランス語で紡いだ言葉は、祈るように掠れていた。サマンサは言葉が詰まりそうになる。ネルを愛しながらも、彼の命を支えるために自分が犠牲になることが信じられなかった。けれど、その恐怖を押し込め、どうしても確かめたかった――彼の真実を。

 ネルはゆっくりと顔を上げた。血の気を失った白い頬、憂いをたたえた碧い瞳。その唇が、静かに開く。

"Because I have fallen in love with you.……I never meant for it to happen… but it did."

(「僕が君を愛してしまったから。そのつもりはなかった。だが、そうなってしまった」)

 いつも通り完璧な、彼のクイーン・イングリッシュ。それはまるで、愛の告白であり、死の宣告のようだった。


******

 

 ネルの 「僕が君を愛してしまったから」 という言葉がサマンサの胸に焼きつく。それは甘美な告白のように響いたが、その意味を考えた瞬間、身体が強張る。

"ネルが私を愛したせいでもう私の血でしか生きられない"

 つまり、 彼を生かし続けるには、自分が血を与えなければならない 。けれど、それは 自分が死ぬことを意味する。


「僕が君を愛してしまったから」

 そう言われた瞬間、サマンサの中で何かが弾けた。恐怖でもなく、絶望でもない。ただ、彼を失いたくないという強烈な衝動 がすべてを飲み込む。

「それなら……」

 サマンサはネルに駆け寄る。 もう逃げられないのなら、受け入れるしかない。震える手を伸ばし、ネルの頬をそっと包む。

「あなたを助ける方法は、これしかないなら……」

 だが、ネルはサマンサの手を乱暴に振り払った。

「やめろ!!!」

 ネルの碧い瞳が、炎のように揺れる。

「君が僕のそばにいる限り、いつか僕は君を殺す……! それでもいいのか?」

「そんなの……」

 サマンサの喉が詰まる。

「だめだ!! それでもいいなんて言うな!! 僕から離れろ!!」

「でも、あなたを失うのはもっと嫌!!!」

 ネルの表情が歪む。自分がどれほど彼を必要としているかを、サマンサは痛感する。

 そして、 ネルもまた、サマンサを突き放すことなどできないと知っている。静寂が落ちる。ネルの唇がわずかに震え、絞り出すように言う。

「君はバカだ……」

 サマンサは唇を噛み、涙を堪える。

「……知ってる」

 次の瞬間、ネルはサマンサを抱きしめた。冷たい腕が彼女の背に絡みつき、二人の世界は完全に閉ざされた。



 互いの腕の中で静かに鼓動を感じながら、二人は悟る。

これはもう、後戻りできない関係だ 。ネルの瞳には、逃れられない運命の影が揺れていた。サマンサもまた、これが自分の命を削る愛だと理解している。けれど、もうネルなしでは生きられない。たとえ滅びが待っていても、ネルと共にありたい。その覚悟が、お互いをより深く絡みつかせる。長い沈黙の後、サマンサは静かに息をつき、涙を拭う。


「……とりあえずシャワーを浴びなさいよ」

 ネルがゆっくり顔を上げる。

「……え?」

「床も服も血だらけ。汚れたままじゃ気持ち悪いでしょ」

 どこか吹っ切れたようなサマンサの声に、ネルは戸惑いながらも微かに笑った。

「君は、本当に変わってるな」

 サマンサはわずかに微笑み、ネルの背を押した。

「早く行って。服と床は私が片付けるから」

 ネルは静かに頷き、浴室へと向かう。その背中を見送りながら、サマンサは床に散った血を拭う。だが、ふと気配を感じて顔を上げると、ネルが立ち止まり、じっとこちらを見つめていた。

「……どうしたの?」

 サマンサが問いかけると、ネルは少し迷うように視線を落とし、それからゆっくりと口を開いた。

「シャワーを浴びたら……君に見せたいものがある」

 その声はどこか硬く、それでいて決意を秘めた響きを持っていた。サマンサは息をのむ。ネルがわざわざそんなふうに言うのは、きっと何か重要なことなのだろう。

「……わかった」

 努めて平静を装いながらも、胸の奥がざわめくのを感じる。ネルはそれ以上何も言わず、再び浴室へと向かっていった。


 サマンサが床を拭いていると、ケヴィンが微かに唸った。

「……ん? なんで寝てたんだ、俺……?」

 ゆっくりと体を起こし、ぼんやりとあたりを見回す。

「あー、何もねぇみたいだし……帰るか」

 そのまま、何の疑問も持たずに部屋を出て行く。

ネルに噛まれたはずの 首元に傷はなく、血の跡すら残っていなかった 。まるで、最初から何もなかったかのように。サマンサは彼の背中を見送ると、静かに浴室のほうを振り返った。

 ネルが、何を見せようとしているのか――その答えは、もうすぐわかる。


 浴室のドアが開く音がした。

振り返ると、ネルがタオルで髪を拭きながら出てきた。

先ほどまで血に塗れ、苦しみに顔を歪めていた彼とはまるで別人のように見える。濡れた金髪が頬に張り付き、シャワーの湯気がその肌を霞ませていた。サマンサはネルに新しい服を渡そうとしたが、彼はそれを受け取らず、静かにサマンサを見つめた。

「……どうしたの?」

 そう問いかけた瞬間、ネルはガウンをゆっくりと外した。サマンサの視線が、否応なしに彼の体へと引き寄せられる。

 透き通るような肌。細くしなやかな四肢。そして――

 鎖骨のあたりにはうっすらと筋肉の影が浮かび、しかし胸元には微かな名残があった。骨盤のかたちも、どこか女性的な輪郭を残している。

 それでも、ネルの体は“男性に向かって変化している”ように見えた。

「……僕の体を、見てほしい」

 ネルの声は静かだったが、どこか張り詰めていた。サマンサは、胸の奥に言葉にできない感情が渦巻くのを感じた。驚き?戸惑い?それとも、ただ ネルをもっと知りたいという気持ち なのか。

 ネルは視線を逸らし、わずかに震える声で続ける。


「……僕はね、サマンサ。生まれたときから、こうだったわけじゃない。吸血鬼には、性なんてない。僕らは子孫を残す必要も、老いることもない。でも――願えば、体は変わる。ただ、人間として生きていた頃からずっと……僕は…………」

 ネルはそれ以上言おうとせず、自嘲するように微笑んだ。

「君は、どう思う?」

 サマンサは答えられなかった。答えようとしても、適切な言葉が見つからなかった。

 ただ――ネルがどれだけこの事実を伝えるのをためらい、苦しんできたのかを思うと、胸が締めつけられた。

 彼の体は、彼の存在は、どれほどの時間を 「否定されること」 に晒されてきたのだろう。サマンサはゆっくりと、ネルに歩み寄る。

「……ネルはネルでしょ?」

 ネルの碧い瞳が、かすかに揺れた。

「それだけじゃ……足りない?」

 サマンサはそっと手を伸ばし、ネルの頬に触れる。まだわずかに湿った髪が、彼女の指先に触れた。ネルは、しばらく黙っていた。そして、微かに震える声で呟く。

「……ありがとう」

 その声は、まるで 長い間凍っていた何かが、静かに解けるような 儚さを帯びていた。



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