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迷いの森に追放された悪役令嬢は、魔女の弟子になる。


どん、と乱暴に背中を突き飛ばされた。反射的に振り返れば、汚らわしいとばかりに目を細めた衛兵が、顎で先を示した。


……言われなくとも、わかっている。


夜会の場で断罪され、こちらの言い分を聞くことなく、即座に追放が決まった。その先は国外ではない。


迷いの森。


かつて生きて帰った人間がいないとされる、暗黒の森。一説には、森に棲んでいる異形のものに喰い殺されるという話もある。自殺者も多く、死に場所を求めた庶民が、この森に姿を消すとも聞く。


そんな場所に、夜会のドレスと身一つで追いやられようとしている。しかも、冤罪で。


とはいえ、抗弁の機会は与えられなかった。すべては、結論は既に決まっていた。あとは、自分ーーセイラさえ消えてしまえば、エドワードの治世は安泰、というわけなのだろう。


いつまでも歩き出さない彼女に、苛立たしげに鎧を鳴らし、槍のひらでぐいぐいと、森の方へと追いやろうとしている。セイラは、抵抗するのをやめて、森の方へと歩き出した。


すぐに、視界が薄い靄に包まれ始めた。まとわりつくような暗闇が、方向感覚さえ奪い始める。獣道か、あるいは昔、この森を征服しようとした王によるものか、僅かに踏み固められたような道が続いている。


一旦、靴を脱いだ。ドレスの端を切り裂いて、足に巻きつける。改めて靴を履き、また歩き出した。そういえば、食料も与えられていないのだと、今になって気づく。


ーー私はお前に、死ねと命じる。


エドワードの、下品な笑い声が頭の中で木霊する。一足ごとに、それを否定するように歩いていく。


ざり、ざり、と、大小の小石が踏みしめるたびに飛び散る。粘土質な土が、踏みしめようとする足を掬おうとする。その度に、歯を食いしばる。初めはいちいちたくし上げたドレスの裾を、もうどうにでもなれとそのまま歩いた。


コルセットをしていなかったのは、救いだった。ハイヒールを履いていないのもそうだ。つくづく自分は運が良い。


ただ、もっと運が良い人間をあげるとするなら、あのエドワードの寵愛を受けた少女だろう。少なくとも彼女は追放されて、このように歩く必要はない。


家の格は遥かに劣る、フローラという名前の少女は、貴族階級の常識を飛び越えて現れた。卑しい家、という声はあちこちで聞こえたが、無知ゆえの、横紙破りな振る舞いが、貴族学園という小さな社会に、確かな変革をもたらしていたのもまた事実だった。


セイラ自身は、フローラの良いところは認めていたし、同じくらい、貴族の所作について欠けているところは指導した。


変革には犠牲はつきものだ。市民を評価した結果、貴族のシンボルとして格の高い家のセイラが追放という目に遭うのは、ある意味道理である。


しかし、何もそこまで急進的にやる必要はない。波紋はあくまでも穏やかな話し合いと、時間とでゆっくり解消される程度のものだった。それが、市民派、貴族派だのと対立構造が生まれ、そこに中道を掲げた王子エドワードが、成敗とこちらを切って捨てたわけだ。


エドワードが、チェス盤を前にして、勝利の笑みを浮かべているのがわかる。後少しでチェックだと、わかりやすい手で知らせてくる。


彼に勝つのはいつもセイラだった。クイーンを縦横無尽に走らせて、伏兵にしては目立ちすぎる連中を、撫で斬りにして逆包囲する。


ーー今回も、同じことになるかもしれない。


とはいえ、王家の命が、覆されたことはかつてない。古の賢人は、悪法もまた法と、評決を受け入れて毒杯を呷った。そんな真似はできないにせよ、もはや戻る道はない。セイラは、髪を揺らして一心不乱に進んでいった。




どれほど時間が経ったか、天に星々が浮かび、群青色の空は、ついに暗闇に変わった。セイラの足は、ついに動かなくなった。


あちこちで、囁きが聞こえる。動物か、昆虫か、足元の草を揺らす音。流れるような、合唱。民たちに尊ばれる、狼の咆哮。


完璧に人間を排した場所で、セイラは一人ぼっちだった。ここには誰もいないし、助けは来ない。どこをどう進んだか、すっかり分からない。王命に逆らって実家の救援がきたとして、彼らも自分の捜索を諦めるだろう。


死ぬのだろうか。


木の梢に凭れ、考える。


死ぬだろう。このままならば……生き延びることはできるかも知れないが、遅かれ早かれ、死ぬ。万が一生き延びたとしても、それはもう、公爵令嬢セイラではなく、森に適応した新たな生き物として、自分は自分でなくなっている。そういうものなのだ、とセイラは思った。


眩しい星々に囲まれて、セイラはいろいろな話を思い出す。福音を届けるための修行者に、身を捧げた兎の話。逆に、飢えた虎の親子に己の肉を与えた修行者の話。足の骨を折ったことで、この時分こそ死ぬ時と見定めて、命を絶った賢者の話。


どれも、自然と共に生きてきた人の話だった。


ずっと昔に聞いていたのに、ついぞわからなかったこと。セイラは、闇に閉ざされた森の中で、ようやくそれらの話を、少し理解できた気がした。歩けるだけ歩くために、彼女は目を閉じた。




ふと、静かな波の音が、耳に飛び込んできた。ゆっくりと目を開ける。木々がなく、開けた土地に、半円の湖があった。朝風に吹かれて水面をさらう風が、宝石のように雫を輝かせる。


その光景に、目を奪われた。大きく深呼吸して、乾いた咳がこみ上げる。傅くようにして、手で水を掬う。僅かに流れ落ちる涙のような水が、体の内側から癒してくれる。


「ちょっと、人の家で何してるのよ?」


唐突に声をかけられて、セイラは振り返った。唇の端から、雫が垂れる。


綺麗に切り揃えた枝を束ね、身長ほどもある箒に凭れ、少女がひとり立っていた。可愛らしい顔つきだが、瞳は意地悪そうに光っていて、セイラの一挙一動を観察している。


ーー家?


疑問を口に出さなかっただけ、上出来だっただろう。セイラは唇の端を拭い、尋ねた。


「あなたは……?」

「聞いてるのはこっちじゃない。質問には答えなさいよ」


そう言って、胸を張る。セイラは立ち上がり、丁寧に一礼した。


「スミス公爵家が娘、セイラと申します」

「へえ」


なんとも言えない一言を返して、少女がずんずんと近づいてくる。


「貴族サマが、何の用なの?」

「私……その、追放されました」


唇を舌でなぞると、汗と砂埃が混じってざらざらとしている。息を整えて、口を開く。


「身に覚えのない罪で、この森で、生きていくように、言い渡されたのです」

「そう。生きていけるの?」

「……死ね、という意味だと思います。世間ではここを、迷いの森と呼んでいますので」


困惑しながらも、少女の質問に答える。少女はくるっと箒の柄を回転させて、軽く腰掛けた。足がブラブラと、虚空を蹴っている。


あまりに自然すぎて、一瞬気づかなかった。目を疑うセイラに、ようやく気づいたか、と言わんばかりに、少女が笑う。


「で?なんて聞いてきたんだっけ?」

「……あなたの、お名前は」

「わたし?スミレよ」


とうとう少女は、地面から足を離した。体勢を崩すことなく、宙に浮かんでいる。


「迷いの森のスミレ。魔女よ」

「魔女……」


セイラは、言葉を失った。



古の賢者は、森に住むという。かつては人々の尊敬を集め、賢者たちもまた人々に知識や知恵を授けたが、一転、世間に新たな教えが広まると、古の賢者たちは、邪に通じ、人を惑わせる者として迫害された。悪魔と同一視され、その知恵は、人々を苦しめる災いに用いられたと決めつけられた。


こうして魔女という言葉からは、賢人という意味が失われることとなる。


セイラがそれを習ったのは、一般的な学園の悪魔学ではなく、祖母の語りによるものだった。


祖母はそのような、一つの教えが幅を利かせる以前の世界を知っていた。異端視される知識をセイラに教えた理由は、よくわからない。自分たちが率先して広めた「事実」の裏側も教えるべきと思っていたのかもしれない。




その断片として学んだ知識も、目の前に立つ存在には何の役にも立たない。少女は雲のようにふわふわと風に揺られながら、セイラを見下ろしている。


「ジョンは元気にしてる?この森を平定しようだなんて馬鹿な真似をやって、しばらく懲りてるみたいだけど」

「……ジョン7世は、300年前に病死しました。魔女の呪い、と世間では言われています」

「なあにそれ。顔も知らないオッサン、呪った覚えないわよ」


少女は不思議そうに首を傾げ、すぐにさっきの意地悪そうな顔に戻った。唇の隙間から、八重歯が覗く。


「ま、それで。アンタ、ニンゲンたちから追い出されたんだ。ふーん」

「追い出されたと言うよりは……死ねと言われたと言いますか……」

「でも生きてるわねぇ?」


そこに、音もなく黒い猫が躍り出た。ちょうどいい高さに浮かんでいる魔女の周りをぐるぐると回って、喉を鳴らす。


唖然とするセイラを他所に、猫をあやしながら魔女が言う。


「あら?アンタずいぶん森に好かれてるわねぇ。おまけに、結界も突破できたときてるし」

「森……結界?」

「ええ。この森にはね、わたしの領分だって証がちゃあんと刻まれてるの。自暴自棄になった人間とか、意志が弱い人間は、迷った挙げ句死ぬようにね。それをアンタ、全部突破してきたワケ」


あっけらかんと命の危機について語られ、セイラは思わず少女の顔を覗き込む。人間がアリを平気で踏み潰すように、魔女にとっては人間も同列なのかも知れない。


「突破してきたとはいえ……アンタは土足でわたしの家に上がり込んできたのは事実なのよねぇ……ね、どうしよっか」


猫を抱え上げ、耳を撫でながら尋ねる。にゃあ、と猫が鳴いた。


「そうねえ。見逃すのも一つの手よねえ」


うにゃ、とまた猫が鳴く。


「舐められる?それもそうなんだけど……どうしようかしら?」


ねー、と猫を軽く揺すって、子どものようにあやす。一瞬猫がこちらを振り向き、まばたきするように目を閉じて、スミレに身を委ねる。


「……そうね。あんた、ついてきなさい」


ふわふわ途中を浮いたまま、スミレはゆっくりと動き始めた。セイラは慌てて後を追う。


聞きたいことは、山のようにある。しかし、対等な立場にはない。自分よりも上位の人間がいる時にどう振る舞うべきか、一番の臣下として、セイラは礼儀作法の一環で叩き込まれていた。


今のところスミレの人間ならざる言動といえば、精々宙を飛ぶくらいしか見ていない。それも、手品の範疇で再現できるかもしれない。


疑おうと思えばいくらでも疑う余地はある。だが、それをきっかけにして、藪をつついて蛇を出す趣味はなかった。


暫くすると、丸太で出来た小屋があった。湖面の光に照らされて、輝いて見える。ウッドデッキの手前では、箒がひとりでに掃き仕事をしていて、スミレに気づくと敬礼して迎えた。小屋のそばには畑があり、野イチゴがなっていた。


スミレは箒に腰掛けたまま、黒猫のお尻をポンポン、と押した。彼女の腕から抜け出した猫が、近くの木に駆けていき、そこになったりんごを一つ、もいできた。


それをひと齧りしたスミレは、セイラに向かってりんごを放った。


「何も食べていないでしょう?お食べなさいな」


つるりとした赤い皮がめくれ、抉れた中身はよく熟れている。小さな歯型がついていて、スミレは確かにそれを齧ったらしい。


木にはまだ、りんごがいくつもなっている。それでも、スミレがよこしたりんごはこの一つだ。恐る恐る、セイラはりんごを齧った。


歯と歯の間に突き刺さるように、皮が滑り込んでくる。歯を立てただけで、じゅわりと果汁が押し寄せてくる。果実は腹を満たし、その蜜は素晴らしい甘味だった。


スミレはそれを見届けると、ひょい、と箒の上から降りた。ローブの裾を引きずりながら、丸太小屋へと入ろうとする。


ドアを開けると、髪のリボンを揺らしながら言った。


「裏庭に色々と植物を植えてるの。あんた、その子達の世話をしなさい。詳しいことは、そこの箒が教えてくれるわ」


言われた通り、箒は恭しく最敬礼した。そして、かちん、と踵を合わせるようにして、身振りでどうすればいいか教えてくれた。


裏庭の茂みには、処女雪が微かに積もっていた。それを手で優しくふるい落とす。湖で水を汲み、柄杓で水をまく。みるみるうちに、ギザギザの葉の間から、硬い蕾が顔を出した。先端は尖っていて、微かに赤い。


バケツが空になる頃には、そこには立派な椿が花を咲かせていた。椿は子どもたちの声で歌を歌い、それから、都の噂話を囃し立てた。


「王子様はネ、王様になるんだってサ」

「でも、今まで支持してくれた家が後ろ盾になってくれないんだっテ」

「王子様、ホントに王様になれるのカナ?」


椿はまた歌を歌いながら、姿を消した。


近くでは、紅葉と山桜が背比べをしていた。紅葉は手のひらのような綺麗な葉っぱを振りまき、桜は負けじと薄い桃色の花びらを散らせた。


また湖から水を汲んで、その二本に水をやった。


「公爵家から支援を取り付けようと、王子が秘密裏に捜索隊を組織したそうだよ」


紅葉が言った。


「でも、見つかりっこないね。お嬢さんは、我らが魔女が隠してしまったんだから」

「捜索隊はやる気がないから、散々な目に遭ってるよ。あれだけ大見得を切ったのに、王子様、公爵様に合わせる顔がないね」


紅葉と桜は、幹をくねらせ、ぐんぐんと背丈を伸ばした。


「他に、水をあげるべき子はいる?」


汗を拭いながら、セイラが箒に尋ねる。箒は生真面目にも、セイラに対しても敬礼を欠かさなかった。


「いやよ。あたしは絶対大きくなんかならないわ」


そう言って地団駄を踏む竹の子を、箒が優しく示した。


また水を汲み、そっと周りの土に水をかける。


「なんてことするのよ!あたし、大人にならないって言ったでしょ!?」

「でも、水がなければ枯れてしまうわ」

「あたしのことバカにしてるんでしょ。あたしはそんなものなくても生きていけるわ」


その時、ウッドデッキで一連の動きを見守っていたサボテンが、パイプから口を離した。


「やれやれ。たけのこのわがままは、ほどほどに聞いてやんなさい。私にも少し水をくれんかね」

「あんなやつのこと、聞かなくていいわよ!あいつ、水をあげるお嬢様にもお礼にって針でさすのよ!恩知らずだわ!」


きいきい声で叫ぶたけのこを、箒がなだめている。つばの広い帽子を被ったサボテンは、柄杓一杯の水を飲み、またぷかぷかとパイプをくゆらせた。


「ありがとうお嬢さん。たけのこに水をやったら中に入ってみたらどうかね。きっと我らが魔女も、君を休ませてくれるはずだよ」


同意を示すように、箒が踵を鳴らして敬礼した。


たけのこに水をやると、子供扱いされたたけのこはぶるぶると羞恥に身を震わせていた。しかし、文句は言わなかった。


空になったバケツは、突然両足を引っ張り出した。立派なブーツで地面に立つと、タタン、と見事なタップダンスを披露した。自分の体を太鼓のように鳴らして、またタップを踏んだ。栄養がたっぷりの腐葉土の上で、賑やかな宴会が始まっていた。


セイラは箒の敬礼を受けながら、ノックをして、小屋に入った。ソファの上で、スミレがティーポットと言い争っている。


「わたしはすぐに紅茶が飲みたいの!」

「そんなせっかちじゃ、いいお茶は出せませんよ。せめて砂時計をひっくり返して、その分待ってくれなくちゃあ」


セイラが手を伸ばして、砂時計をひっくり返した。スミレがふくれっ面でこちらを見上げている。


「終わったの?」

「サボテンさんに言われて、こちらにと」

「あの庭で一番見込みがあるのはたけのこよ」


スミレが言った。


「あの子が一番根性があるわ」

「そうなんですか?」

「ええ。すぐに大きくなれるのに、その分の力を蓄えているのよ。すぐにサボテンも何も言えなくなるわね。ぜったい」


サボテンは空気を読んで、たけのこをおだてるのではないだろうか、とも思ったが、何も言わないことにした。スミレはまだへそを曲げていたが、すぐに手を鳴らして、フライパンを呼びつけた。


「なんざんしょ?」

「こちらのセイラに、お茶菓子を用意しなさい。わたしの分も忘れないこと!」

「もちろんでさぁ。久しぶりのお客人、腕がなりますなぁ」


そこへ、コート掛けがやってきた。スミレに何事か囁くと、スミレは飛び上がった。


「そう!お風呂を用意してたのを忘れてたわ!コート掛けについていきなさい。それから、替えの服も用意してるから、それを着ること!」

「ありがとうございます」


コート掛けに勧められるまま、大きな浴槽に身を沈め、よく体を清めた。服は、さっぱりとしたワンピースと、お揃いのローブだった。コート掛けが、感涙にむせぶ。


「あいつ、美人にはいい服を、とかしょっちゅう言うのよ。やってらんないわ」


スミレがやれやれと紅茶を飲み、頬を緩めた。これもまた、フライパンに勧められるがままに、ご相伴に預かる。


「さて、色々言いつけて悪かったわね。この小屋のベッド、好きに使って頂戴。アンタの事情は、それから何とかするとしましょう」

「ありがとうございます」

「こちらこそ」


とフライパンが口を挟んだ。


「いやぁ、我らが魔女殿を満足させられるお方がいるとは思わなんだ。お嬢さん、是非とも魔女殿のお友達になってやってくだせぇ。近頃は魔女殿も、寂しがりになっちゃって……」

「それ以上無駄口を叩くと、キッチンに入れない魔法をかけるわよ!」

「そんな殺生な!」


フライパンが逃げ出した。セイラはくすっと笑い、おやすみなさい、と挨拶した。


「おやすみ」


魔女が言った。驚くほど早く、セイラは眠りの中に落ちていった。




「アンタは、もう帰れないわよ」


スミレが朝食の後、初めに会った時のように、意地悪そうな顔で言った。セイラが動揺していないのを見て、つまらなそうに唇を尖らせる。


「アンタはこの大魔法使い、スミレの弟子になったの。それに、もうアンタが過ごした時間から、五年も経ってるわ。今更戻っても、いいように利用されるだけよ」


あの王子と、王家がある限り。そう言うスミレの声は、確信に満ちていた。


「エドワード殿下は、即位できなかったのですか?」

「そりゃそうよ。娘の不始末が事実でも、そうでなかろうと、公爵は自分の職を辞するでしょう。でも、そう簡単にやめられたら困る人間がたくさんいるのよ。そういう確執を、子供の頃からたくさん作ってきて、大人になったから後ろ盾になってくれ、って面の皮が厚すぎるでしょ」


すでに従弟が即位したらしいわよ、と頬杖をつく。


「一応王太子のままだけど、時間の問題ね。先代が死去したら、時間切れ。権力を自分のものだと思い込んだ人間の末路なんて、そんなものよ」


セイラの心は、驚くほど平静なままだった。王子の話は意地悪そうにしていたスミレが、少しだけ顔を曇らせる。


「……ただ、結果的に、アンタの両親から、アンタをこんな形で奪い取ったことは、申し訳ないわ」

「私も、最後まで親不孝のままでした」


しばらくスミレは、居心地が悪そうに体をもじもじとさせていた。


「……一つだけ、約束を守れるなら、会いに行ってもいいけど、約束を守れる?」

「やくそく、ですか?」

「そう。本当にアンタを愛している者にしか、アンタの正体を明かしてはならない。しかも、あくまで匂わせることしか許されないの。それでいいなら、アンタを少しの間、元の世界に戻せるわ」


少しだけ、逡巡した。


「……祖母は、どうなっていますか?」

「……亡くなったわ」


ごめんなさい、とらしくもなく、スミレがぎゅうと拳を握りしめる。セイラは首を振った。


「救っていただいた命、ですから。少しだけ、里帰りをさせてください」


スミレは作業小屋から、ピカピカの箒を取り出した。杖の先端でこんこん、と、柄を叩くとたちまちしゃんと姿勢を正した。


「この箒に乗れば、入口まで行ける。帰ってくるときにも乗りなさい。それから、これ」


今度は、少し古ぼけた帽子だった。


「これを被っていたら、ぼんくらはアンタの姿を正しく認識できなくなるわ。でも、アンタの存在を仄めかしていいのは、本当に愛している人だけ。わかっているわね?」

「はい。師匠」


その言葉に、スミレが頬を緩めた。庭師の箒が、今生の別れのように大げさな敬礼で見送った。




森に追放した公爵令嬢のための捜索隊は、エドワードが即位する、という噂がまだあった頃は、積極的に派遣されたが、どれも散々な結果だった。あるものは気が狂い、あるものは行方不明になり、迷いの森で公爵令嬢が生きているとはとても思えなかった。


そんな状況に娘を追いやられた公爵家の態度は頑なで、辞意を示しては国王に撤回されるような日々だった。秘密裏に行っていたその工作が明るみに出ると、国を担う公爵が愛想を尽かすような国、と辞表を示す家が相次いで現れ、一時は国が傾きかけた。


とうとう国王はエドワードを王位継承から外した。そんな彼は、セイラさえ戻ってくれば全て上手くいくと思っているのだが、肝心の彼は迷いの森を怖がって近づこうともしない。


ある時、森の番人から、一人の少女が現れたという報告を受けた。エドワードを始めとした王家や、公爵家、またどこからか話を聞きつけた国教会の司祭までが駆けつける始末だった。


まず、名乗るより早く彼女を異端審問にかけるべく、司祭は十字架と聖書を突きつけた。彼女はそれに動揺さえ見せなかった。続いて、聖書を朗読せよ、と押し付けられたそれを読まずに、見事に暗誦した。司祭たちはほうぼうの体で逃げ出した。


「おまえはだれだ!?セイラをだせ!」


エドワードが怒鳴る。セイラは、ぎゅっと帽子を深く被った。


「セイラは既に私の弟子になっている。お前が死ねと命じた女は、お前の部下よりも遥かに優れた意志をもって、私の元までやってきた。だが、お前が彼女に出会う必要はない」


最後にセイラは、両親に向き合った。少しだけ、声色が変わった。


「弟子は私に対して、よく接し方を理解していた。祖母のお墓に、お参りをさせてもらいたい」


久々の我が家で、祖母の肖像画を前に、セイラは祈った。愛と敬意と、そして謝罪。それらの所作が、二人にはお見通しだったのだろう。


「あの子は、元気でしょうか」

「ええ。元気にやっています」

「……その、お二人共、幸せになって頂きたい。私達が望むのは、ただそれだけです」


セイラは無言で頭を下げた。


再びセイラは、森の入口に来ていた。即位したばかりの新国王が、金貨を手に押し付けた。せめてもの謝意を表す形なのだろう。


金貨を一つまみ取り出して、ふっと息をかける。たちまち金貨に手足が生えて、エドワードに対する風刺の歌を歌い始めた。エドワードは、それを拾い上げようともしなかった。





セイラが箒に腰を乗せた。エドワードの目がぎらりと光った。


突如、突風のように箒が走り出した。


こっそり糸を巻きつけていたエドワードは、木々にぶつかって粉々に散った。




そうして、セイラは帰ってきた。庭師の箒がまた敬礼する。セイラは瞳を潤ませて、ただいま帰りました、と師匠に言った。


「当たり前でしょ。アンタはわたしの弟子なんだから」


そう言って二人は、迷いの森の、誰にも見つからない家で、静かに暮らした。




なお、エドワードを風刺する歌を歌う金貨は、未だに王家の宝物庫に飾られていて、今でも時々歌い出すということだった。




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