あの、隣、いいですか?
それはそれは暑苦しい夏の土曜日の朝。最近の太陽は本当に手加減してくれない。自転車で爽やかに風に吹かれながら公民館に向かおうと思ってたのに、家を出る前から汗が体中からにじみ出てきている。
いつも土曜日になると、勉強をしに公民館に行っている。それはガリ勉だからではない。死に物狂いの浪人生だからである。
公民館では、いつも通り自習室が開放されていて、もう何人か勉強を始めていた。
鉛筆がコツコツと音を立て、ノートや参考書がパラパラとめくられる音以外には、何も音がしない。
静寂の空間をゆっくりと進み、窓際の特等席に座った。
オレはいつもこの右端の一番後ろに座っている。なぜならここが一番涼しくて集中しやすいから。
それともう一つ理由がある。
それは去年の夏。オレがまだ高校生だった頃のこと。
はじめての自習室に変に緊張していたオレは、どうにも気持ちが落ち着いていなかった。
それまで勉強に無縁だった俺は、やはり自習室に来たとしても勉強に身が入らず、ただ鉛筆を回すだけだ。
そんな中、突然目の前にかわいいと言うより、綺麗な女の子が現れたのだった。
「あの、隣、いいですか?」
一瞬、固まってしまった。
その子は、近くの高校の制服をきちんと着ていて、オレが前々から好きなアイドルに似ていて……。
その姿はオレの心に焼き付いてしまった。
そう。いわゆる一目惚れだ。
「えっ、あっ、どうぞ」
広げっぱなしのノート達を端っこの方に寄せる。と同時に、女の子が隣の椅子に座った。今気付いたが、綺麗なのに加えてなんだか雰囲気というか柔らかなオーラが漂っている。どんどん彼女の世界に引きずり込まれるようで、それがまた心地良かった。
それからと言うもの、いつのまにか勉強目当てではなく、彼女目当てで自習室を訪れるようになっていった。彼女は必ず土曜日だけ自習室に現れる。だから、オレは土曜日が来るのが待ち遠しかった。
自習室にいる時間中は、ずっと勉強してるふりをして、チラチラっと彼女の横顔を覗く。苦手そうに高校数学に頭を悩ませている時、たまに目があってあたふたしたりする。それでも目があった時に嫌がりもせず、逆に微笑み返してくれる。それがなんだか無性に嬉しかった。
何度か話しかけようともした。でも、自習室と言う静かな空間で、しかも名前も知らない女の子に、話しかけられるわけもなかった。
だが、その一方で成績はどんどん下がっていく。塾に行っていないせいでもともと決して良いとはいえなかった成績は、ほぼ最下位まで下がってしまった。
新学期に入ってからも土曜日には必ず自習室を訪れて、彼女の事を見ていた。
だから、普段の学校生活でも、呪われたかのように彼女のことを思い出していた。
親からは怒鳴られ、先生からは進路変更を迫られた。でも、オレは進学にこだわった。自習しに行く理由がなくなるから。
その時やっと気付いた。
そうだ、俺は受験生であって恋愛などする必要、今はない。いつの間にかオレは、彼女の事で頭がいっぱいになっていた。長い将来のことを考えると、今こんな甘えた考えを持っていてはいけない。だが、どうしようもなかった。
受験日当日。オレは大失態を演じてしまった。『一問も答えられなかった』と言っても過言ではない。前日に勉強なんかする気にもなれず、彼女の事を思いながら眠ったため、点数が全く取れなかったのだ。この瞬間、オレは浪人生になってしまった。
全てが終わったと思った。その時のオレには、基本的な公式や、漢字なんか全く頭に入っておらず、中学生くらいの頭になっていた。このままでは就職も危ういと思い、今度こそ本気で勉強しようと思い、公民館の自習室に向かった。彼女はきっと来ないだろう。きっと、今は充実したキャンパスライフを楽しんでいるだろう。そう思ったから、あえて同じ公民館にしたのだ。今日からまた頑張ろう。今度こそ、今度こそ。と、勉強を始めようとしたその時だった。
「あの、隣、いいですか?」
聞き覚えのある声だった。恐る恐る顔を上げると…………彼女だ。紛れもなく、あの女の子だった。
「えっ、なんで……」
颯爽と現れ、下からのぞきこむように俺を見ている女の子。
風に舞いそうなワンピース姿の女の子は、ふわふわの髪の毛を耳にかけながら問いかけてきた。
もっている鞄を重そうに抱えている様子から、彼女も浪人生になってしまったのだろうか。
「えっ、あっ、どうぞ」
まさか。
あの女の子にまた逢えたなんて。
もう会えないと思っていた。
でも実際に女の子はオレの前にいる。
「……また会いましたね」
オレの事を覚えてくれているのか、わざとらしく小声で話しかけてくる。
「あ、そうですね」
オレも小声で返した。
「私、浪人しちゃって」
女の子はなぜか、不思議と悔しそうな表情をしていなかった。
「オレもです。お互い、頑張りましょうね」
そう言うと、女の子はあの頃のように微笑みで返してくれた。いい匂いもしたし、去年よりも綺麗になっていると思った。
「……今年もダメかもなぁ」
参考書を見るふりをしながら、女の子の横顔をやっぱりチラチラ見ていると、女の子がそんな事をつぶやいた。
「オレも」
あ、また目が合った。女の子の口元が、さっきより少しだけ緩んだような気がした。
「いやいや、頑張りましょうよ。……あの、ちなみに、どこの大学への進路希望なんですか?」
去年幾度も思い出したあの優しい笑顔で微笑みながら聞いてくる彼女に、俺はただただ驚いて、指先で回していた鉛筆を机の上に落としてしまった。