ミストストーカー・コモンスライム
不用意に音を立ててしまってから僕は即座に行動を起こした。後ろへ全力で走る、ただそれだけだが、今は必要な行動だ。
空間がループしてるような感覚に気付いたのはつい先ほどだが、回りの風景で大体の動ける距離は把握している。
橋を渡った先から商店街を抜けた先の交差点まで。そしてあの音がするのは橋を渡って最初の曲がり角だ。だからまずは商店街の半ばで待機する。
商店街は所々歩行者用の道があるため、ここなら前後左右何処にでも行くことが出来る。何よりこの空間をループしているのが僕だけでないのなら、空間ギリギリまで行くのはむしろ悪手だ。
僕が走り出した音を聞いたからなのか、あの粘度の高い液体の音が再度空間内に響く。
早々に目的地へ走りついた僕が後ろへ視線を戻すと、音は近づいてきているのに何故か姿が見えないままだった。距離を取っても尚あの音のみに集中できるこの静けさで、距離を取ったからと言って大まかな位置が分からないはずがない。
けれども間違いなく、先程より速度を上げたその存在が見えないでいた。焦りと恐怖で脳内がパニックになっていると、脳内にテレパシーで会話していた相手の声が響いた。
(少年、目なノ!)
ラビの声でハッとする。あの時より明るい環境だったから失念していたがそうだ。僕が対峙したたった一度の異物は魔力を目に通さなければ視認する事が出来なかった。であれば今も同じ事をしなければ相手が視認できないのは道理だろう。
(待って涼太!)
この一週間で初めて聞いた西野さんの張られた声と僕が目に魔力を通すのはほぼ同時だった。
ほぼ反射的だったと言えばそれまでなのだが、僕は自分の行った行為に後悔する。距離が離れているのであればまだあんなモノを見るべきではなかった。初めて対峙したモノがマトモな容姿をしていたからと、全ての異物にそれを当て嵌めようとするべきではなかった。
音から何となく連想していたが、あの音の正体はスライムだ。全体的に光を当てれば艶が見えそうな、液体の中央部に真っ黒な核のようなものがあるスライム。
バスケットボール程の大きさをした核を秘めたそのスライムは軽自動車程の縦幅と横幅をしている。ただ、その大きさ以上にあのスライムは連想されるスライムとかけ離れた姿をしていた。
核を包む液体は赤黒く濁っている。
液体で構成されるのが相場のスライムの体内に、肌色や赤色、白色の物体が浮かんでいる。
スライムの外側には、引き摺られるように、肌色の腕が一つ。咥えられていた。
スライムの体内に居るのは間違いなく人だ。人がバラバラに、身体としての形を維持せず取り込まれている。それが液体を混ぜるような音と共に、少しずつ。少しずつ。人としての色を失っていく。形を崩していく。
その事を理解した、してしまった僕は途端に鼻に付く臭いを感じる。これだけの距離があるのに臭いを感じてしまうのは錯覚だからだろうか。僕の鼻は怪我をした時に良く感じる血の臭い。そして、嗅いだ事のない、ゴムのような、けれどどこか肉々しい臭いが嗅覚を占める。
スライムの定番と言えば溶かす事……。
「うぉぉおえぇぇ!!」
頭が現状を統べる全ての事を理解してしまった瞬間、抑えきれない嘔吐感に支配され、僕の口からは胃液と昼ご飯が混ざって吐き出される。抑えようなんて余裕は既に無く、何度も何度も僕の身体は絞られるように中身を吐き出そうとした。
「ラビ、考えれば分かる!」
「ゴ、ゴメンナサイなノ少年……」
真下を向いていた頭を少し上へ上げ、視線を合わせるとそこには昨夜見たのと同じ外見をした西野さんとラビが立っていた。
「辛いと思うけど」
そういうと西野さんは僕の背中に手を当て擦ってくれる。これ以上醜態を晒したくないという思いもあるがこういう事態でそのような事は言ってられない。僕は視線をスライムに合わせる事なく再度身体の中身を吐き出す。
「それで良い、後は任せて」
そう言うと彼女は僕の背中から手を離し僕の前へ身体を動かす。これ以上あの存在を僕の視界に入れないようにという配慮だろう。けれど彼女の戦う武器は腕に付けたガンドレッドのみである事は変わりない。それでは攻撃が出来ない。
「僕は大丈夫だから、アレを……ゲホッ」
伝えたい事を伝えようとするも、吐き出しきれていなかったものがあったのか言葉の端を吐き出した息が遮る。それでも伝わったのだろう。正面を向いていた首を縦に一つ動かした後、彼女はそのままスライムへと走りだす。
西野さんの走りは力強く、僕が十数秒程で稼いだ距離をわずか三秒程で詰めきった。後ろへ引かれた西野さんのガントレッドは金色の光を帯び、その光と勢いを失わずスライムの身体へと撃ち込まれた。遠くからでも分かる程に、スライムの赤く染まった身体が飛び散る。その場景に再度吐き気が込み上げてくるが、軽く嘔吐くだけに留まった。
「これで終わっ……ってないノ!前に出会ったミストストーカー・コモンスライムはあれで一発だったノ」
終わってない、という言葉に僕はラビへ向けていた顔を再度西野さんの方へと向ける。四散したスライムの破片はそのままのように見えるが、目を凝らすと微かに動きその破片は核を持った本体へと集まっているように見える。
西野さんもスライムの様子に気付いたのか跳躍を繰り返し後退する。状況を観察した西野さんはスライムに背を向けると僕たちの方へ駆けてきた。
「今までのより物理耐性が高そう。殴ったら少し硬かった」
そういうと西野さんは叩きつけた右手をヒラヒラとした。
「それは面倒なノ。ツッキーは殴る事しか出来ない脳筋魔法少女だから、硬い敵はそれだけで難敵なノ」
僕が見た二回とも拳を使った戦い方しか見ていなかったが、彼女のそれは素であるらしい。そういう意味では確かにあのスライムは難敵なのだろう。
幾分かあの姿に慣れてきたためスライムへと視線を向けるが、確かに軟体のような形だったのかしっかりとした四角い形を保ち、その表面にはヒビが入っていた。
それも四散した破片が集まる度に修復されているため、一刻も立たずして修復が終わるだろう。
西野さんの配慮かスライムの修復による結果かは分からないが、赤黒さ以外は異物の姿が見えなくなっており、幾分か視界に入れられる外見になっていた。
「それなら西野さんが魔力を固めて撃ち出すー……とかは出来ないの?」
「ノーコンよ」
「じゃあ至近距離でやるのは?」
「多分速力不足よ」
どうやら過去に試したらしい。
拳で魔法と言ったらそういった物しか思いつかないし、先程の拳に纏っていた光も多分魔力なのだろう。物理的な物が纏ったのでは駄目となれば飛ばすしか手段が思いつかないが、それが不可能となれば彼女にあのスライムを相手取るのは酷なのだろう。
あの強度を肉体で感じて速力不足と言うのであれば、魔力で出来た飛び道具を一つ誂える必要があるのだと思う。魔法については詳しくないが、彼女がそれをしないという事は出来ないのだろう。
どういう原理で人を巻き込むのか分からないが、あのスライムは間違いなく人を巻き込んだ。それなら何かしらの手段を持ってあのスライムを倒さなければならないのだが、その手段が無い。
絶対絶命だ。
僕の朝知恵を振り絞っても解が出ず、スライムの修復が八割ほど終わった頃、ラビが喋り出す。
「少年、君は何かスポーツをやってたりはするノ?今はやってなくても過去経験で良いノ」
「それだったらアーチェリーをやってるけど……ラビ、何をやらせるつもりさ」
こんな状況とはいえ頭も回るようになってきた。その為ラビがアーチェリーという単語を聞いて反応した事に何となくの予想がついてしまう。
「少年、それならこの状況を打開するキーマンは君なノ」




