闇色目玉と消臭剤
「あなたのことが分からない」
彼が疑問じゃなくソレを口にしたのは、たぶん初めてのことだった。
「いいえ、いいえ。私は恐らく、分かりたくないだけなのでしょう」
柔らかくてツヤツヤの黒髪を鬱陶しそうに垂らして、前髪で見えなくなった目がどんな表情を浮かべているのか私には分からない。たとえ見えていたとしても、誰も本当のことなんて分からないだろうけどね。
「あなたは勘違いしてらっしゃるのです。初めて出会った人間が私だったばっかりに、あなたは……」
ブツブツと何やら言っている彼を無視してゆっくりと手を伸ばす。尖った顎から耳までをたどるよう指を這わせ、長すぎる黒髪を避けてやる。するとバカみたいに白くてスベスベの顔に、バランス良く配置された目鼻口が良く見えた。薄いながらに柔らかそうな唇も、スッと通った鼻筋も、凛々しく整った形の眉も、黒いバサバサ睫毛も。びっくりするくらい綺麗で、どっかの美術館に飾られている誰かの絵みたいだ。ずっと見ていたいわけではないけど、数分立ち止まってじっくり見たくなるような、そんな顔。普通に綺麗な男の人の顔。
両目のところに嵌め込まれた眼球が、白目も瞳も見当たらない真っ黒いガラス玉じゃなかったら、だけどね。
「ああ、可哀想な女神さま」
私は可哀想なんかじゃない。少なくとも私にとっては。
異世界に突然飛ばされて、女神なんてたいそうな呼び名をもらった私には、彼の方がよっぽど可哀想だった。
ジーラメクトはこの国の四番目の王子さま。王妃似の綺麗な顔で、私より頭二つ高い身長のヒョロッとしたモヤシ王子だ。でも侍女さんに見せてもらった姿絵からするに、昔はもう少し筋肉がついていたみたい。今よりも少し短い黒髪と月みたいに輝く金の瞳で、おとぎ話の騎士みたいに背筋をピンと伸ばした美形だった。絵なのに実物より生き生きとしたオーラがあって、昔の彼はとても健康な人だったんだろうなあと思った。
この世界には魔法はない。が、呪いはあるみたい。私からすれば魔法と呪いはどう違うんだって話だけど、異世界基準だとまったく別物なんだとか。簡単に言うとフィクション小説に出てくる不思議な術が魔法で、ノンフィクションの伝記に出てくる不思議な術が呪いだって。もっと意味が分からん。まあ、この世界の人たちにとっては呪いは旧時代の遺物というか、昔はあったけど今は実現不可能な技術って感じで埃をかぶって忘れ去られていたらしい。
それがどういうわけか、十年前の隣国とのイザコザで突然呪いが使われた。どっかでひっそりと暮らしていた呪術師の家系の人を使って隣国のおバカさんがこの国の王族に呪いをかけさせた。呪術師とはいえ、旧時代の遺物を多用できるほどの能力は誰も持っていなく、せいぜい呪えたのが一人程度。それが国王や王太子であったなら向こうとしては万々歳だったらしい。
残念ながら、実際に呪われたのは宰相補佐として王と王太子のいる会議室で文書を読み上げていたジーラメクトだったわけだ。
人を呪わば穴二つってのは異世界でも共通だったらしい。埃をかぶった伝記をとっかえひっかえ読み尽してすぐさま隣国に探りを入れたところ、おバカさんの屋敷から身元不明の遺体が発見される。ジーラメクトを呪った呪術師だった。国王と王太子は優秀な臣下を使いまくって証拠をかき集め、最終的にはジーラメクトを害したことを理由に不平等条約を締結。現在この国は隣国から搾取した資源と資金で国庫が潤いまくってる。だからか私の扱いはまんまお姫様と同じくらい手厚いんだと後で知った。
当時、中学生とか高校生くらいの年だったジーラメクトは目が見えなくなった。綺麗な金色の瞳は曇った夜空と同じように隠れ、白目はマジックでイタズラされたマネキン人形みたいな黒色で塗りつぶされる。私もパッと見、目ん玉抉られて空洞なんじゃないかと勘違いした。
『皆、闇は恐ろしいものです。それに王妃様の月色の瞳はそれは美しいものでした。私の瞳に王妃様を見ていた者たちがいたのなら、なおさらでしょう』
十年間。目が見えないまま、世界で唯一呪われた王子として後ろ指をさされていたジーラメクト。耳は聞こえても目は見えないだろう、と。声もなく指差される毎日。それでも空気では何となく自分が忌避されていることに気付いていたのだろう。触れられることもなく生きてきた年月は、彼をすっかり可哀想な人に作り変えてしまった。
この世界には目が見えない人のための点字も盲導犬もない。国王は父親としての優しさと国王としての威厳と人としての恐怖を天秤にかけて、ジーラメクトを王宮内にある聖堂のそばの部屋に隔離した。療養の名の元に神へ祈りを捧げながら呪いが解けることを待つように。自分の身代わりで呪いを受けた子に対して、してやれることはそれだけだったのか、私にはまったく分からない次元の話だった。
ここまでが、私が人づてに聞いてまとめたジーラメクトの過去。そしてここからが私が実際に体験した出来事だ。
端的に言うと、私は“消臭剤”だった。
仕事帰りでぼんやりしていた私。花金で浮かれて階段を二段飛ばしで駆け下りていたところで、妙に長い浮遊感の後、私は知らない場所に座り込んでいた。真っ白くてだだっ広い、石造りの寒々とした部屋。唯一ある家具は祭壇のようなベッドで、そこで寝ていたイケメンの上に尻もちをついた。
正直、飛び上がった。見知らぬイケメンの寝込みを襲ったみたいな恰好だったから。それになんか部屋が変な臭いで、すぐに窓を開けて換気したかった。三角コーナーの生ごみを放置したまま夏がやってきたみたいなヤバい臭いだ。飛び上がった拍子に後ろに倒れそうになった私を伸びてきた手が捕まえる。男の人だから、というのを抜きにしても骨ばった手だった。
『待ってください』
呻くような懇願。細いくせに力はちゃんと男の人だった。
びっくりして相手の顔をマジマジと見た。寝ている、と思ったのは目を閉じていたからでジーラメクトはずっと起きていた。普段、彼は呪いの象徴の目を見せないようにしていて、誰も世話人がいない時はジッと横になってお祈りしているのだとか。
その黒いばかりの眼球はどこを見ているのか分からない。けれど顔の向きから彼が私をまっすぐ見ていることは分かった。
『何故、私の目は光を映すのですか』
異臭は、いつの間にか消えていた。
生ごみは、彼の眼球に張り付く呪いの臭いだった。
「あなたが私の元に落ちて来なければ、もっと別の人生があったでしょうに。こんな冷たいところに来て、もう二度と普通の暮らしはできないでしょう。女神さまにこんなにも窮屈な場所を与えるなんて……」
女神さま、とジーラメクトは私を呼ぶ。他の人も敬いはするけどせいぜい他国の客人くらいのものなのに。
国から与えられた地位は王子の呪いを解いてくれた恩人。国庫が潤う決定打になった王子を、そのまま十年放置していたことはさすがに罪悪感があったのか、それとも呪いが自分たちにも広まることを恐れたのか。とにかく歓迎されてジーラメクトの隣の部屋に無駄にデカい部屋が作られた。私の消臭パワーがあまり離れると意味がないことを知ったからだ。そりゃあ、臭いものに蓋したいのに消臭剤を遠くに置くのはおかしいものね。私は炭か何かか。
毎日毎日、嫌でもジーラメクトの顔を見て声を聴いて手を握って臭いを嗅いだ。今ではほとんど無臭の空間に様変わりしたけれど、ジーラメクトの目は変わらず黒いガラス玉だった。目玉が元に戻らない限り、いつまでも呪われた王子のレッテルは剥がれないのに。
「申し訳ありません、女神さま」
白い肌と黒い眼球の隙間から透明な涙が滲み出てくる。男の人の涙を見るのは二度目だ。初めて会った時のジーラメクトも泣いていた。だからって私が男の人に涙に慣れているわけではない。だってたった二回見ただけだし。
「それってさ、誰に謝ってるの」
「もちろん、女神さまに」
「どっちかっていうと、自分のために謝っているみたいだよ」
「それは、」
薄い唇が何度か開いて閉じてを繰り返す。
「当たり前でしょう」
はっきり言ったジーラメクトは、すごく苦い物を吐き出すように眉根を寄せた。
「あなたが来なければ、私は王と兄のために一生を闇の中で終えることになったのです。皆に“闇色目玉”と蔑まれて、それがもう、あと何十年続くのかと、恐れ怯えることすら忘れていたのです。あなたが来なければ、私は呪われたことすら私の一部として受け入れて諦めるところでした。あなたがいなければ、私は真の意味で生きられないのです。女神さま、ああ、許されるのなら」
こんなにも長く話すジーラメクトは初めてで、言ってる内容にもびっくりした。
昔よりも少し肉の付いた手が私の手を取る。そのまま引っ張られて、薄い胸板に倒れ込むように私は飛び込んだ。
「私の女神さま。あなたのことを私だけの女神さまにしてしまいたい」
ああ、体が震える。もう、耐えきれない。
「ちょっと待って」
「お願いします、どうか、私を受け入れてください」
「待って、タイム、タンマ」
「女神さま、お許しください、どうか、どうか」
「ジーラっ」
思いっきり胸を突き返すと、意外とアッサリ体が離れた。見上げた先のジーラメクトは嬉しいやら悲しいやらいろいろと混じった表情で私を見ている。そういえば初めてジーラって呼んだかもしれない。
真っ黒い眼球が嵌った綺麗なお顔に向かって、私はぶふっと吹き出してしまった。
「女神さま……?」
「ふっくく、ふはっ、あっはっはっは! あなたって意外と、」
「い、意外と?」
「最高だったのね! あはははははっ!」
おもしろい、傑作すぎる。
おかしすぎて突き返したばかりの胸板をドンドン叩く。モヤシ王子はそれだけで苦しいそうな顔をしたので叩くのをやめて、今度は自分から抱き付いた。
「め、女神さまっ!?」
「なに、ジーラメクトはこういう意味で自分のものにしたいんじゃないの」
「はっ、は、ぃ、いいえ!」
「どっちよソレ、ぶふっ」
さっきは思いっきり抱きしめてきたくせに、今は抱きしめ返そうかやめようか腕があわあわしている。ヘタレてるなあとは思ったけど、彼の恋愛レベルは十代真ん中から成長していない。女性の扱いなんて分からないことだらけだろうし、私はそういうの苦手だから別にいい。
「私、たった今あなたのこと好きになったわ」
「そ、それは本当でしょうかッ!?」
「あっはっは! 食いつきすぎでしょ!」
モヤシ王子に抱き付いて頭をぐりぐり押し付けること数分。やっと回った腕の感触を背中に感じながら、治まった笑いの隙間を逃さないように私は口を開いた。
「私、自分の欲望に正直な人、大好き。他人のためとか、自己犠牲ばっかで物事を決める人、大っ嫌い。だからジーラメクトが私の人生責任取るとか言い出したら絶対夜逃げしようと思ってた。負い目で人生背負われたってこっちの肩身が狭いだけだもの。あなたが、自分の勝手で私が欲しいなら、それはいいことだと思うよ。だって、今まで他人のために十年生きてきたんだ。十年分余計に自分勝手に生きたって許されるはずだよ。少なくとも私は許す」
ジーラメクトは、赤い顔のまま固まって、また黒い眼球をウルウルさせ始めた。
「ところでジーラメクト」
「はい、女神さま」
「“私の女神さま”って、つまり求婚?」
「もっ」
「も?」
「もちろん……伝わって、良かったです……」
「何それ、伝わんなかったらどうするつもりだったの?」
「私は、女神さまがそばにいてくだされば、」
「本音」
「……誰かのモノにならないのなら、それで良いと、」
「はいはい、そういうの今日からナシで。言いたい事ははっきり言いましょう」
「はい……」
と、そこでジーラメクトは私の背中に回した手をモジモジと動かし始める。くすぐったいんだけど、ワガママを聞くと言った手前、とりあえず様子を見ることにした。
数分、数秒、何か口ごもって、ジーラメクトは耳まで真っ赤に茹で上がった。
「も、もう一度、」
「うん」
「ジーラ、と」
「うん」
「呼んで、ください」
「うーん」
言われて、とりあえず考えるフリをする。ジーラメクトは何故か判決を言い渡される被告人のような顔でまた眼球をウルウルさせる。初めて会った時より格段に人間らしくなっている彼が、今だけは呪われた過去を気にする余裕もなく私の返事を待つ。自分の願望のために闇色目玉と馬鹿にされていた目に光を映している。
初対面でジーラメクトに対して持った感想は同情くらいしかなくって、私は消臭剤に徹することでしか自分の安全を確保できなかった。だから彼に感謝されるのは正直とても面倒だと思っていたし、女神さまと崇められるのも訂正するのが面倒でスルーしまくっていた。でも、今のジーラメクトに対して、私はとても面白く思っている。白目のない眼球も少し昔飼っていた犬に似ている気がしてきたし、今こうして私の返事を待つ彼は餌待ちをしているあの子にも被って見えた。
同情や、打算抜きにして気に入ってしまった。それはもう彼から逃れることはできないのではないかと、少なくとも私は思った。
とっくの昔に帰ることを諦めた私はここにいる価値を自分で見つけた。彼のそばで自分の幸せを見つけることだ。
彼に乞われたからじゃなくって、自分の意思で。
「手始めに、女神さま呼びをやめようか」
この世界に来て初めて名乗った自分の名前。
ジーラは聖書でも諳んじるように私の名前を呼んだ。