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第114章 犬

 もう日本時間で夜の十時だ。

 寝る前にちょっと思い立ち、いつものように日本のマンションへと出かけ窓を開けて空気の入れ替えをしようと思っていたら、表通りを珍走族が爆音を立てながらやってきた。


 珍しく三台くらいでやってくる。

 この辺りでは一台で走っているのが普通なのだが。


 もう連中の仲間なんて、そうそう集まらない。

 あんな風に纏めて走ってくるなんて、今時珍しい事もあるもんだ。

 そして珍しいといえば。


 俺は、そいつを見つけて眉を顰め、そして続いて力を抜いた。


 ここは、いつもなら耳を塞いで街のダニが通り過ぎるのを待つシーンなのだ。

 まあ今はサイレントなんていう便利な魔法もあるのだが。


 奴らにそれを超強力にかけておけば、爆音を封じるどころか一生奴らが何を言おうが誰の耳にも届かない。

 珍走族を引退して普通の生活をしようとしても、泣いても叫んでも誰も何も聞いてくれないだろう。


 だが、今日は普段とは趣が違った。

「御客さん」がいたのだ。


 俺は目視で眼下の大通りへと転移した。

 そして珍走の行く手に、重戦車数十台が全力で突っ込んでも破れないほどの威力で不可視のシールドを展開しておいた。


 珍走族が次々に意気揚々とそれへ向かって突っ込んでいき、全員が火花を散らして吹き飛んでいった。

 俺は転がったままピクピクしている奴らには目もくれずに、その御客さんに向かって、いつになく優しく語りかけた。


「そんな道の真ん中に突っ立っていたら危ないぜ。

 もう少しで轢かれるところだったじゃないか。

 俺に何か用があったんじゃないのかい?」


 すると、彼はこちらへ向き直った。


 それは一匹の犬だった。

 しかし、ただの犬ではなかった。

 パッと見にはごく普通の、その辺にいる犬種だ。

 中型犬だった。

 まだ若い犬なのか、少し小柄なくらいか。


 ただ、目だけが違っていた。

 真っ黒で、まるで闇が漆黒に燃えているかのような暗い空洞のような眼差し。

 そして全身から吹き上がる、おどろおどろしい雰囲気。

 俺はその感じに激しく覚えがあった。


「やあ、裏の者。

 こんな所へ一体何の用なんだい?」


 俺は先日激しく敵対した彼に対して、むしろ優しいとすら言える感じに話しかけた。

 何しろ、御客さんなのだ。

 異世界から次元を越えて、わざわざ遊びに来てくれたみたいなのだから。


 それにしても野良犬とは珍しいな。

 あるいは、どこかの家からの脱走兵なのか。

 むしろ、そちらの方へ気がいくほどだ。

 毛に埋もれてしまっているものか、ここからでは首輪の有無は確認できない。


「そこはまた車が来ると危ない。

 こっちへ来いよ」


 すると彼は、ゆっくりとした足取りで、異なる世界をじっくりと踏みしめるかのように歩道の方へと歩み寄ってきた。

 とても犬らしからぬ重厚な足取りで。

 まるで遍く獣の王であるかのようだ。


 そして彼の者は語り出した。


「何、お前と少し話がしてみたくてな。

 先日は失礼した。

 あのような出会いは不幸なものだったな。

 非礼は詫びよう」


『犬』は、特に悪びれもせずに人の言葉を話した。

 だがプリティドッグのそれとは明らかに異なる。

 なんというか、あまり人間らしくない感じで地の底から響くような、おどろおどろしい声だ。

 他の人間がいたら腰を抜かすような情景だ。

 サイレントの結界を張ってあるので、その外に聞こえる事はないのだが。


 それにいつもの通り、この時間には通り過ぎる人もいない。

 事故った珍走の騒動も、サイレントをかけた上で不可視となるようにシールドで囲んでおいた。

 人払いの魔法も広範囲にかけておいたので、新たに通りかかる車もない。


「今日は一体どういう吹き回しなんだい?

 先日の荒ぶりようと、うって変わった紳士ぶりじゃないか」


「何、この前はいきなりであのような出会いとなったものでな。

 つい魔が差したというものさ。

 我々もあれに対しては懸念しておったのだから。

 お前のような者にもな」


 だが、それを聞いて俺は首を竦めた。


「でもそいつは、お前さんの管轄ではないのだろう?

 ロスやアエラグリスタなんかが気にかける事なのだから。

 それが協約とかいう物なのだろうからな」


 犬は低く嗤うと、続けて話を切り出した。


「お前は、あのフィアとかいう小娘をどうするつもりか」


 犬は通常ならば何も見えないだろう闇黒の眼をこちらへ向けると、広い歩道にしゃがみこんだ俺に近寄り、見上げるようにして尋ねた。


 人の未来をどうするのか、進化の行く末に干渉するつもりなのか、と言いたいのだろう。

 それは神、または神相当の者の管轄なのだから。


「そう言われてもな。

 俺は人の可能性という物を信じている。

 だから、あれもまた俺にとっては面白いものさ。

 大いなる諍いの原因にもなるのかもしれないが、また大きな人の進歩、種族としての進化にも繋がる可能性を秘めている。


 そういう物に対しても、あんた方神相当の存在は期待する者なのではないのか。

 いや、むしろ命をそこへ導く事こそ神にとっては本命の仕事なのではないかと、俺は常々そう思っているんだけどな。

 あんたの見解は違うのかい?」


 かつて、俺はこの地球で神相当の者に『遭った』。

 それ以来、そういうように物事を考えるようになったのだ。

 一種の思考の呪縛だ。


 しばしの間、沈黙の時が街と同化した。

 俺が静かに見つめるのを、果たしてきちんと受け止めているのかどうかもよくわからないような漆黒の闇の目で彼は答える。


「そうさな。

 確かに我らにとっても興味深くはある。

 それでお前がどう思っているのか、あの小煩いロスのいない所で聞いてみたくてやってきたのだ」


 ロスの弟分らしいアエラグリスタの奴は、俺の頭の中で聞いているけどな。

 だが奴も空気を読んで大人しくしている。

 これが『数十億年の時を生きる神相当の者達の大人の作法』っていう奴なのかね。


「そいつはいいんだが、なんでまた今日は犬の格好なんだい?」


「何、これがたまたまそこにおったのでな。

 依り代として使わせてもらったまでよ。

 次元を、世界を渡る際には不要な力などは持って来れぬ。

 それはこちらの世界への干渉と取られて、我の渡来が撥ねられてしまうのでな。

 意思の力が強すぎる人よりも、このくらいの弱い生き物の方が都合よい。

 今のわしは、ただのか弱い犬に過ぎぬ」


「あ、そう」


 彼をジョゼに見せたらどう思うのか、ちょっと好奇心はあったのだが止めにしておいた。

 そんな場面じゃないしね。


「じゃあ、あんたは今後フィアに干渉しないという事でいいんだな?」


「まあ、そのつもりだ。

 あちらの世界の神はそのつもりのようだし、連中はお前の事も面白いと思っているようだしの。

 そこにも、そういう了見の者が一人おるようだが。

 それでは、わしも楽しみにさせてもらうとしようか。

 お前は神の契約者。

 神を楽しませるためのみに存在している者なのだからな」


 それだけ言うと、犬は再び低く嗤った。


「ちっ、やっぱりそういう契約なのかよ、あれは」


 俺は思わず『ロスの契約者』の称号をチェックした。

 アエラグリスタの加護も。


 犬は俺の渋そうな様子をも面白そうに眺めている。


「では、我はそろそろ行くとしようかの」

「そうかい」


 俺も彼と会話するためだけにしゃがんだまま、ただ首を竦めた。


 いつも突然に現われるんだな、この裏の者。

 こいつの事は、リバースとでも呼んでおくか。


 ふいに犬から何かが抜け落ちたような気がして、その眼を覗き込んでみると、そこには円らな眼をした可愛らしい犬が尻尾を振って俺の事を見つめ返していた。


 こいつは柴犬っていう奴なのかな。

 その割には、滅茶苦茶にもふもふなのだが。

 俺は普通の犬には詳しくない。


 その犬に、先ほどまでの闇の生き物じみたところは、今はもう全く無い。

 首元を撫で回しながらよく見ると、毛皮の奥にまだ新しい首輪を付けている。

 子犬から大きく育ったのでサイズを交換しましたというような雰囲気だ。


 彼は無邪気に俺の手を一心に舐め回している。

 こうしてみると犬も可愛いもんだな。


 あっちの世界に慣れ過ぎて、犬が人間にとって、こういう大変親しみのもてる生き物だというのを、ついつい忘れがちだ。


 プリティドッグはアレな連中だから別枠としても、ジョゼのところにいる連中は血統書付きなんで、大概の奴は俺に対してこんなに馴れ馴れしくしたりはしない。

 あの大変賢そうなグレートデンのアキレスなんかは非常に親しくしてくれているのだが。


「さて、お前もそろそろおうちにお帰り。

 きっと家族に心配されているぞ。

 車に気を付けてな」


 そう言ってまた頭を撫でてやると、犬はへっへっへという感じで舌を出しながら、御機嫌な感じの足取りで家路を辿っていった。


 俺も転がって呻いている珍走共に回復魔法をかけてやると、家族の待つ世界へと速やかに帰還していった。


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