甘宿り
僕は雨の日が好きだ。
打ち付けるような激しい雨も、しとしとと降る穏やかな雨も、突然降り出す土砂降りも、いつ止むとも知れぬ長雨も全部好きだ。
雨に濡れた土やアスファルトの匂いがすると胸が高鳴る。
雨の音を聞くと心が躍る。
雨の日に開く色とりどりの傘の花は、僕を幸せな気持ちにしてくれる。
――だって雨の日には、彼女に会えるから。
初めて彼女に会ったのは偶然だった。
僕は仕事柄、朝が早い分、終わるのも早い。その日の仕事が終わったのもまだ夕方前の時間だった。
家へと帰る道すがら、空を見上げればどんよりと分厚い雲が立ち込めている。天気予報通りなら雨は降らないはずなのに、その日は昼頃からずっとそんな天気だった。
降られる前に家に帰ろう。
そう思って速足になるも、僕の思惑はあっさりと打ち砕かれたのだった。
最初の一滴が頬にあたる。見上げる僕の周りでは二つ目、三つ目と続けてアスファルトを叩き始める。そしてポツリポツリと落ちて来た雨粒は一気にスピードを加速させ、瞬く間に激しく降り出した。
僕は堪らず、その雨から逃げるように偶々目に付いた喫茶店のドアを開けた。
店の名前は、甘宿り。
こじんまりとしているけれど、清潔感のあるお洒落な店だった。
「いらっしゃいませ」
ずぶ濡れの僕を穏やかな声で迎えてくれたのは、横で一つにまとめた栗色の髪が良く似合う小柄な女性だった。
まぁ何とゆうか……。
いや、誤魔化すのは止めよう。
あれは間違いなく一目惚れだった。
あの瞬間、初めて彼女に会ったあの時に、僕は恋に落ちたのだ。
ハンカチで、濡れた身体を拭う僕に、彼女はタオルを貸してくれた。
お礼を言って受け取ったそのタオルは何だかとても良い匂いがした。
勧められるままカウンター席に座った。他に客はなく、ドビュッシーのピアノ曲が静かに流れる店内はとても居心地の良い空間だった。
僕はコーヒーと一緒に、彼女に勧められた手作りだというティラミスを頼んだ。
お勧めと言うだけあって彼女が出してくれたティラミスは絶品だった。甘さの中に感じる僅かな苦みが絶妙で、思わずおかわりしてしまった程である。
「ありがとうございます」
少し照れたように笑う彼女がとても印象的だった。
一時間程のんびりと彼女との会話を楽しんでいると雨が弱まって来た。
僕は名残惜しい気持ちを抑えて会計を頼んだ。
そのついでに、またティラミスを食べたい事を伝え、営業日や時間帯を聞いた。
そんな僕に彼女は困ったように笑った。
「実はここ、雨の日しか営業してないんです」
どうして?と理由を聞けば、晴れた日はケーキの移動販売をしているのだという。
「結構人気なんですよ」
冗談っぽく言っていたけれど、きっと本当なのだろう。これだけ美味しいんだから間違いない。
弱くなった雨の中、彼女から借りたビニール傘を開いて家路についた。
あの時、僕は完全に浮かれていた。
現金なもので、それまでただ憂鬱だった雨が途端に好きになった。
湿気を帯びた独特の空気も、水溜りや傘に落ちる雨の音も、足が雨で濡れてしまう事さえも、その全てが愛おしく感じられたのだから驚きだ。
まぁその気持ちは今尚続いている訳だけど……。
あの日から雨の日がとても待ち遠しくなった。
僕は雨が降る度に、時間を見つけては甘宿りに足を運ぶ。
彼女に会う事が一番の目的だけど、あのケーキの味が忘れられないってのも理由の一つだ。
あれから色んなケーキを食べた。
苺のショートケーキにチーズケーキ、フルーツのタルトにシフォンケーキにモンブランにロールケーキにと実に様々な種類を食べたけれど、どれもこれも本当に美味しかった。
その中でも僕の一番のお気に入りは、最初に食べたあのティラミスだ。
あの味が恋しくて、また僕は傘を差して甘宿りに向かうのだ。
通い始めて半年。
すっかり常連になった僕だけど、実は未だに彼女の名前を知らない。
彼女の趣味や好きな食べ物や嫌いな食べ物、好きな映画に音楽、小説や漫画、行きたい場所やハマっている事や誕生日なんかも知っているのに……。
最初の頃に名前を聞きそびれてしまった事を酷く後悔している。
どれだけ親し気に会話が出来ても名前を知らないというだけで、その距離は一気に広がる。
甘宿りで過ごす時間はとても甘くて、同時に少しだけほろ苦いのだ。
ある時、僕は偶然街で彼女を見かけた。
嬉しくなって声を掛けようとして、やめた。
彼女が知らない男性と親し気に話しているのが見えたからだ。
スッと身体から熱が奪われたように感じられた。胸がざわめき、とても居た堪れない気持ちになった。
わかっていた。
彼女のように可愛らしい人に恋人がいない訳がない。
ただその事実を知るのが怖かっただけなのだ。
その日予定していた買い物をやめて、僕はそのまま家に引き返したのだった。
それからしばらく雨が降っても甘宿りには行かなかった。
いや、行けなかったという方が正しいのかもしれない。
今まで通りに彼女に接する自信がなかったから。
でも……。
やっぱりこのままでは終われない。
ようやく僕は覚悟を決めた。
そして雨を待つ。
――この気持ちが揺らいでしまわない内に、どうか雨を降らしてください。
だけど、そんな時に限って晴れの日ばかり。
何日も何日も雨が降るのを待ち焦がれた。
でも不思議な事にどれだけ待ってても僕の気持ちが揺らぐ事はなかった。
そうして降って来た久しぶりの雨。
待ちに待ったそれは、しとしとと降る静かな雨だった。
「いらっしゃいませ」
初めて会った時と変わらぬ穏やかな声で彼女は迎えてくれた。
「久しぶり」
僕の姿を確認した彼女は花が咲いたように笑った。
「本当に久しぶりですね。ずっと待ってたんですよ」
わざと拗ねたように頬を膨らめるその姿が相変わらず可愛らしい。
「ごめん、忙しくて。それにずっと晴れだったから」
僕の言葉に彼女は「仕方ないですね」と言った。
彼女に促されるようにいつもと同じカウンター席に腰を下ろし、コーヒーとティラミスを注文する。
相変わらず店の中は静かで、僕以外に客はいない。
静かに流れる音楽はあの時と同じドビュッシーのピアノ曲で、落ち着かない気持ちを少しだけ穏やかにしてくれた。
出してくれたコーヒーと共に大好きなティラミスを食べる。
もしかしたらこれが最後になるかもと思って、最初の時と同じようにおかわりをした。そんな僕を見て彼女は言った。
「こうやって目の前で美味しそうに食べて貰えるのってすごく嬉しいんです」
ほんのりと頬を上気させるその姿は本心から言ってくれているように思えた。
「サービスです」
その時のティラミスには苺が添えられていた。
いつもと同じように一時間程過ごした後で僕は立ち上がる。
窓の外を見ると変わらず雨はしとしとと降り続いているようだ。
会計を済ませ、思い出したように僕は振り返る。
「良かったらこれ」
「え?」
驚いている彼女に優しく微笑んで見せる。
僕が差し出したのは綺麗にラッピングされたプレゼントだった。
「少し遅くなっちゃったけど、誕生日おめでとう」
「覚えててくれたんですか?ありがとうございます」
はにかんだその表情がまた可愛くて僕の胸を打つ。
思わず飲み込んでしまいそうになった言葉を無理やり声に出す。うるさい程に高鳴った胸の鼓動を誤魔化すように。
「彼氏さんには申し訳ないけどね」
出来るだけさりげなく、嫌味に聞こえないように、細心の注意を払って。
だけど……。
僕の気持ちを知ってか知らずか、彼女はきょとんと首を傾げた。
「彼氏なんていませんよ」
「え?でもこの前街で……」
反射的に言いかけて失敗したと思った。
どうやって誤魔化そうかと考えている僕に彼女が納得がいったように頷いた。
「もしかして見られちゃいましたか?実はこの前、実家から遊びに来た兄にこの辺を案内したんですよ」
「……お兄さん?」
「はい」
思わず力が抜けた。
その場に座り込んでしまいそうになるのを必死で堪えて彼女を真っ直ぐに見る。
デートに誘うなら今しかない。
理由はわからないけれど、そう思った。
再び高鳴る鼓動は先程以上に勢いを増して、まるで全身が脈打っているかのように感じられる。
出来るだけ自然に聞こえるように気を付けて発した僕の言葉は不自然に少し震えていた。
「そっか。じゃあ迷惑じゃなければ、お祝いにご飯でもどうかな?」
少しの沈黙。
不安になる僕と驚いた表情の彼女。
そしてゆっくりと彼女の表情に変化が訪れた。
「はい!」
満開の笑顔で頷いてくれた。
ほっと胸を撫で下ろす僕に向けて彼女は続けた。
「でも……。一つだけお願いがあります」
勘違いしないでくださいね。
彼女がそんな事言うはずないと分かっていても、嫌な想像が頭に浮かんでしまう僕は最低だ。
勇気を振り絞り続きを促す。
「お願いって?」
その言葉に真面目な表情をつくる彼女に僕の不安は大きくなっていく。
でも……。
続きを聞かない訳にはいかない。
彼女が僕に何を言ったとしても、それを受け入れよう。
そう思ったんだ。
だから……。
彼女の口から出た言葉に固まってしまったのも仕方ない事だと思う。
だって彼女の口から出た言葉は僕がずっとずっと思っていた事だったから。
「お名前、教えてください」
そう言って耳を赤くする彼女はやっぱりとても可愛らしかった。
雨の日限定の僕らの関係が少しだけ前進した瞬間だった。
こうして甘くて少しほろ苦い僕らの関係に、甘酸っぱさが加わった。