本物の音
ワイングラスが置かれる甲高く乾いた音がして志郎が眼を上げると、カウンターの向こうの男が人差し指をたてて無言でうなずいた。グラス売りの安価なチリ産の赤などひと口で飽きがきそうなものだが、これで三杯目だ。窓の外の通りをバイクが走り去る気配に志郎と男が眼をむけると、先ほどまで街を染めた夕焼けは既に空から去り、近所の服屋の看板はみな夜闇に沈んでいた。
梅雨の中休みというには強すぎる日差しに炙られてぐったりした様子で男は一時間ほど前に志郎の店に入ってきたのだが、普通の値段の赤ワインを飲ませてくれ、とひとこと言ったきりでカウンターに両肘をついて黙ってしまった。フードのメニューを見せても黙って首を横に振るだけで、志郎にしてみれば誰も飲まず酸化が進んだ安物の赤しか出せないのが申し訳なく思えた。この季節のサービスのスナックはポテトチップスと決めているのだが、冷蔵庫の奥を探るとクリームチーズとクラッカーが残っていた。昼間のカフェ営業のスタッフに後で文句を言われることを考えたが、香味の変わったワインに我慢していただいているんだ、せめてもの気持ちだと自分に言い聞かせ、小皿に入れて男の前に差し出した。男は黒い皿の上の淡い黄色のクリームチーズにしばらく眼を吸われていたが、志郎のほうを見てごくわずかに口元を緩めてみせた。男の頬はこけ、耳を覆う髪はわずかに茶色に染められていたが、白髪を隠すための色が逆に男の印象をくたびれたものにしていた。くぼみ気味の眼が濃く長い眉毛の奥で穏やかな光を帯びており、その瞳は杯を重ねても酔いにかすむことがないようだった。
店のPCがメール受信を小さな音で知らせてきたので開くと、以前に昼間のスタッフとして働いていた奈苗からだった。今からツレと店に顔を出すから席を確保しておいて、という。彼女のいうツレが二か月前に店に現れたアキトとかいう男かな、と思うと志郎はやや気が重くなった。シンガーソングライター志望という二十歳の男とは少し話しただけで、五つほどしか齢の変わらない志郎の眼から見ても呆れるほど世間知らずで夢想家肌なのが判った。以前付き合っていた彼女に原付を買わせて、その半月後に別れた際にもめたのをネタに自作曲を書いたという話を聞いたときは思わず奈苗と顔を見合わせてしまったが、そんな奴が来てまた自分語りを得々と始めたのでは、この赤ワインのお客さんに申し訳ないような気がした。
店に来るのはもうしばらく後にするよう頼もうとしたが、そのメールを書いている途中でドアが開き、長いポニーテールを揺らして奈苗が入ってきた。
「ども、おひさでぇす」
「なんや予想外に早いなぁ。まだなんにも」
用意できていないのに、という間にも奈苗は小走りするように店の奥に進んでいき、赤ワインの男のふたつ横のストゥールに飛び乗るようにして座り込んだ。奈苗のたてるドスンという音に男は少し驚いた様子で、カウンターに置いていた文庫本とケータイをそっと自分のほうに寄せた。すみません騒々しくて、と謝るように眉を寄せて軽く頭を下げる志郎に、男は小さく首を横に振って苦笑いを見せた。
しばらくしてアキトが現れた。正確にはドアが少し開き、くすんだ水色の樹脂製の、得体のしれないケースのようなものが出現し、眼をむいた志郎が入口に向きなおると、息を切らせたアキトがケースごとドアを押して店に入ってきたのだった。
「遅いやん」
「悪い、ツレからのメールやLINEでめっちゃ忙しいねん。」
アキトは手にしていた樹脂製のケースを床に置いた。ドア越しに先端しか見えなかったので分からなかったが、形からするとそれはどうやらギターの、それもアコースティックギターのケースらしかった。ケースの上面にはライターぐらいの幅のくぼみがあり、黒縁に銀の、ブランドロゴと思われる文字が埋め込まれていた。暗がりでは分かりづらいが、志郎はかろうじてそれが“MARTIN“と読めた。
その時、志郎は横からの視線に気づいて振り返った。カウンターの端にいた赤ワインの男がグラスを置いて、見ることもなしにギターのケースを見やっていた。志郎が話しかけようとして口を開こうとすると、その気配で男は視線をケースから外してワイングラスに手を伸ばした。
「なぁ、そんなに音が違うん?」
奈苗がケータイの画面から眼を離そうとしないアキトに、わずかに苛立ちを込めて訊ねた。
「違うよぉ、全っ然違うからホンマ。同じD-28っていう型番でもな、新品じゃ絶対こんな音せぇへんし。」
アキトがケータイを置き、レッドアイで喉を湿らせてから奈苗に向かって言い放った。
「で、なんで楽器屋さんに行かへんと、わざわざ電車代使うて遠いところの、しかもリサイクルショップで買うん?修理とか必要になったら」
「その時は楽器屋さんか、知り合いに頼むから大丈夫やって。この前会ったトッキーさんのツレが修理屋さんで、この近くのビルで店やってはるし」
アキトの言うビルはこの店から歩いて十五分ほどの、一階にカレー屋が、三階に雀荘が入っている雑居ビルだった。志郎はそのビルの二階にあったタトゥー店にコーヒーの出前で何回か行ったことが、おんぼろの空調のせいでビル中がカレーの香りに染め上げられるようだったことしか印象に残っていなかった。
「そのギターって古いんですか?」
奈苗にソルティドッグを渡しながら志郎が訊ねると、その言葉を待ちわびていたかのように、飛びつかんばかりの勢いでアキトが身を乗り出してきた。
「もうね、音がね、なんしか鳴ってるんですよ!自分より年上のギターっていうだけで凄いんですけど、それが今も弾ける状態でね、しかも新しいギターとは持った感じとか、軽く触っただけでも分かるぐらい違うくてね、」
右手でギターを構える仕草でアキトがグラスをひっくり返しそうになり、慌てて奈苗がコースターごと自分のほうへ寄せた。
「店の人は何年製って言ってたんやったっけ」
奈苗がアキトの顔を覗きこんだ。
「シリアルナンバーで判断すると、七六年製やって」
「ふうん、もう三〇年ぐらい前なんや…大丈夫なん?ちゃんと、これからも使えるん?」
奈苗の問いにアキトは眼をむいて、前髪をかきむしった。
「おし、そんならもう、見せたるわ。見りゃ分かんねんから。」
アキトはストゥールから降りると一目散にギターに駆け寄った。しゃがみこんだアキトの手元でケースの金具を開ける音が聞えてきたので、他のお客さんの迷惑になるから止めろ、と志郎が制しようとしてふと男を見やると、男の眼がまたもギターを向いており、それが好奇と期待の色を帯びているのに気づいた。
アキトがギターを持ってストゥールに座りなおした。志郎の眼で見ても、お世辞にもキレイとは言えなかった。上面の木の板は日に焼けて色が褪せており、老人の肌を思わせる渋茶色に染まっていた。丸穴の下にある黒いプラスティックの板はピックでひっかかれた傷が無数に刻まれ、しかもその傷の多くは黒い板をとおり越して木の上にも、その塗装にも跡を残していた。ネックに打たれた音程を決めるフレットという杭も手垢と錆びにくすんでおり、ただ弦だけが赤みを帯びた金色に光っていた。
アキトは手元のショルダーバッグから何やら小さな洗濯バサミのようなクリップがついた人差し指ほどのチューナーを取り出し、ギターの先端の糸巻きがある部分に留めた。アキトが弦をはじくとその音を検知するらしく、赤いLEDがせわしなく動くのが志郎の眼にも見えた。糸巻きを細かく動かして六本の弦を全て調音するのに手こずるのか、その様子を眺めていた奈苗はソルティドッグをふた口ほど飲んで小さく欠伸をした。
調音が済んだアキトが、おし、とひと声かけるとジーンズのウォッチポケットからピックを取りだした。彼の左手の小指にはクロムハーツだろうか、華奢な指に似合わない肉厚で重厚な指輪がはめられており、ギターのネックに当たって小さな音を立てた。コードを押さえ、おもむろに右手のピックを弦に向けて振り下ろす。思わず志郎は眼をみはり、奈苗は小さく息を飲んだ。ギターは弦の微弱な振動を瞬間的に増幅し、店の空気を震わせた。アキトが右手を振るたび、ピックを弦に当てるたびにギターは底知れぬ精力を傾けて吠え、唸るようだった。
「これぐらい強く弾いても音が割れへんギターをずっと探しとったんよ。新品のギターやと音が硬いしなんかキンキンいうし、ガーッて弾かれへんくてストレス溜んねんなぁ」
ひと通り弾き終えたアキトがレッドアイのグラスを奈苗から受け取る。頬がわずかに紅潮しているのは酔いのせいではないようだ。
「うん、音を聴いたら全然違うのは分かったわ。でもな、」
奈苗がアキトの顔を下から覗きこんで続ける。
「前に持ってたヤマハって、確か後ろの部品が剥がれてダメになったんよね?ホンマやったら弾き終るたびに弦を緩めなアカンのに面倒くさがって」
「いやいやいや、大丈夫だって。あのギターはもとからブリッジの接着が甘かってんて。剥がれてもちゃんと接着しなおせば」
「そんなこと言うて、修理代立て替えたの私やんか。せっかくのタイ旅行の貯金があれで無くなってしもたんやからね。」
奈苗がいつになくむきになって言い返す。色白で垂れ目の奈苗の怒り顔は全く迫力が無く、この店に勤めていた頃には奈苗に何かあると先輩の「鬼殺し」こと百合子が代わって他のスタッフを叱り飛ばしていたことを志郎は思い出していた。
その時、ワイングラスを置くつつましやかな音が志郎の耳に入った。
「ちょっといいかな。もしよかったら、そのギターを見せてくれないかな。」
カウンターの端から男が、背中を丸めるようにしてアキトに頭を下げた。
「え?ええ、いいっすよ。どうぞ。」
アキトはギターをヒョイと奈苗に渡し、両手で受け取った奈苗がおそるおそる男に差し出す。ありがとう、と小さく言って男はストゥールからいったん降り、カウンターから少し離すと座りなおした。左手でネックの付け根を軽く持ち、ボディの側面の底部にあるプラスティックの小さな突起を右手の人差指と親指でつまんでいた。男はギターの表面をしばらく眺めたが、志郎にはその横顔が父の友人の古美術商とそっくりなのに気づいて思わず唾を飲み込んだ。アキトのほうを見ると、やはり板についた男の仕草に圧倒されたらしく、レッドアイのグラスを持ったまま男とギターを凝視していた。
男は右手を離すとギターの底面を自分の腹に当て、表の板を中指で、軽くノックするように叩き始めた。それを見たアキトがとっさに口を開く。
「もしかして、ブレイシングが剥がれてるんですか?」
男はその問いに、ううん、どうかな、と曖昧に答えていたが、ボディの裏面も同じように叩いた後で薄く笑った。
「大丈夫だね。七〇年代のニッパチでブレイスが剥がれていないのは珍しいよ。ちゃんと修理がされているのかもしれないね。」
それを聞いたアキトが、よっしゃ良かった、と拳を固めて喜ぶ。こいつはホンマに、と志郎は心の中で舌打ちした。
「ブリッジもちゃんとくっついてるし、今のところ修理には出さなくてもよさそうだよ。」
ギターをくまなく眺めた男はアキトにそう話しかけると、ギターをいったん奈苗に手渡した。コンチョをモチーフにしたネックレスを外すとストゥールに浅く腰かけなおし、ギターを受け取って構えた。糸巻きの近くにつけられたままのチューナーにしばし眼をやっていたが、その機械で太い方から二番目の弦だけを合わせると男はチューナーを外してカウンターの上に置いてしまった。
「それって使いづらいですか?もし暗くて見えづらいんやったら、明るさの調整が出来るんで」
と言ったアキトだったが、男の手元を見るなり黙ってしまった。志郎の眼には細く骨ばった男の指がネックの五番目と七番目のフレットの上を何度か往復しているだけにしか見えなかったが、囁くような澄んだ音がふたつ鳴り、それが糸巻きの動きに合わせてひとつの音に紡ぎあげられていく様をアキトは眼を皿のようにして見つめていた。うん、と男がうなずいて六本の弦を無造作にバラリと弾いてみせると、アキトがチューナーを使って合わせた音よりも明らかに澄んだコードが耳に流れ込んできたので、つい志郎はアキトと眼を見合わせた。
男はギターを構えなおした。背筋をぴんと伸ばし、右の肘でギターをグッと自分の脇に抱えこむ。左手はネックを持ったまま、何かを思い出そうとするかのように右手で顎をしばらく撫でていたが、そうだな、あれかな、と小さく呟いて右手を弦の上に置いた。あ、ピックを、とアキトが言おうとするが、男の右手の指は既に静かに動きだし、軽やかなメロディを奏ではじめていた。
志郎は男のギターを聴いてすぐに、それが二日前に店で流したビートルズの「ヒア・カムズ・ザ・サン」だと気づいた。すぐにPCに駆け寄り、BGMの音量を下げた。
Here comes the sun, du du du,
Here comes the sun, I said
It’s alright
男の声は女性的で線の細いものだったが、それがギターの音色と呼応し、融けあい混じりあって流れた。弦が切れそうな勢いで弾くアキトに比べれば男は全く力みが無いのに、ギターは男の腕の中でヴァイオリンのように情熱的に、ハープのように清らかに鳴り響いた。もはやギターじゃない、まるでグランドピアノみたいだ。心が優しく揺られ、温められるようだった。志郎はうなだれて、ひたすらに男のギターに耳を傾けた。
ハミングのような穏やかな余韻を残して男の演奏が終わると、感極まった奈苗が拍手し、アキトと志郎も続いた。男は我に返ったように顔を上げ、三人の拍手と、いつのまにかBGMの音量が下がって静まり返った店内にわずかだが困惑の表情を見せた。
「凄いっす。感動しました。ニッパチってこんなにええ音するんですねぇ。」
子供っぽい驚きを顔に浮かべるアキトに、男はどこか恥ずかしそうに答えた。
「ううん、たぶん新品の当時はここまで良い音はしなかっただろうけどね…おそらく、今までのオーナーが大事にしてきたんだろうね。」
自分の言葉にうなずきながら、かみしめるようにしみじみと男が言う。
「そういえば、このギターね、指板が三フレット目までがめちゃくちゃえぐれてるんスよ。何でですかね?」
アキトの指すネックの、糸巻きに近い方のフレットをちらと見やった男は、ああこれか、と呟いて穏やかに笑った。
「これはね、カントリーのギタリストが弾いたときに出来る跡だね。」
「ええっ、そんな弾き方あるんですか?」
「なんてったってアメリカ人は手が大きいし、開放弦を使ったローコードを結構使うからね、こんな風に」
男はそう言ってネックを握りなおした。先ほどまではネックの裏に隠れていた親指を弦の張られている側に出し、力任せに握りこむように構えた。右手を先ほどよりもかなりブリッジ側に置き、強く弦を弾く。たちまち、西部劇で流れるような底抜けに明るく開放的なトーンが店に響き渡った。
「このギターはきっと、最初の二十年くらいはずっとアメリカで使われていたんだろうね。ヴィンテージギターのブームが本格化したのは九〇年代後半ぐらいだから、その頃に日本にやって来て」
男は高い位置のフレットを押さえてきらびやかなコードを鳴らしてみせた。
「腕の良い修理屋さんにしっかり直してもらったんだろう。これほど弾きやすい状態の七〇年代ものは東京の専門店でも手に入らないよ。運が良かったね。」
アキトがにんまりと笑い、どうよ、と言って奈苗の肩を乱暴に叩く。痛いやん、と奈苗はふくれた。
「このギター、いくらだったんですか?」
志郎は深く考えもせずに訊ねたが、アキトがこたえた金額は志郎の月給の二か月半分に近かったので思わずええっ、と声を上げてしまった
「でもまあ、このギターでその額はお値打ちだよ。中途半端なネットオークションでハズレをつかまされることを考えたら、実物を確認できて買えたんだし、良かったんじゃないかな。」
男がうなずきながら言う。それを聞いたアキトはにんまりと笑うと勢いよくレッドアイのグラスを空けた。
「あの、お仕事は音楽関係ですか?」
志郎におずおずと訊ねられると、いやいやそんな、と言って男はストゥールに座りなおした。
「今は音楽なんて全く…若い頃にちょっとやってただけです。」
「そうですか?その割にはずい分詳しくて、今の市場までちゃんと」
「いや、まぁ、仕事先が楽器屋の多いエリアにあるから、暇なときにチョイとね…」
男は慌てた様子でワイングラスを手に取った。
アキトは自分の手に戻ったギターをしばらく弾いていたが、アカン、何でや、とひとりごちて手を止めた。
「あのぉ、『ブラックバード』っていう曲、弾けます?」
「ビートルズの?うん、昔に演ったことはあるけど…」
男は顎に手を当てて、どんな曲だったかな、と首を傾げた。志郎は急いでキャッシャー横のノートPCまで行き、iTunesの画面をクリックした。アコースティックギターのわずかに揺らぎを帯びた音色がスピーカーから流れだすとアキトはすぐにギターを構えなおし、スピーカーから流れる曲に合わせて弾こうとするが、しばらくすると手が止まってしまった。右手の指がもつれてしまうのが志郎の眼にも判った。
「この曲のスリーフィンガーって、どうやったらうまく弾けるんですかね?」
アキトの眼が子供っぽい不満を映しだした。志郎はこのガキ、ええ加減にしてくれんかな、と喉元まで声が出かかった。
「この曲はね、歌いながら弾くのが一番いい練習だよ。」
男はアキトに向かい合って答えた。
「歌いながら、ですか?」
「そう。この曲はギターの演奏にみんな耳がいくけど、元々は歌付きなんだから、テンポをちゃんと守って、歌いながら弾くといい。」
それなら、と言ってアキトはギターを構える。ブラックバー、シンギンオナ、デッドオブナーイ、と口ずさみながら指をどうにかして連動させようとするのだが、志郎の眼にはその姿がハイハイを始めたばかりの赤ん坊にしか見えなかった。奈苗が思わず噴き出した。
ちょっとやってみようか、と言って男はギターを受け取ると、靴でテンポを刻み始めた。カツコツと乾いた音がストゥールの下から志郎にも聞こえてきた。
Blackbird singing in the dead of night
Take these broken wings and learn to fly
All your life
You were only waiting for this moment to arise
男の声は先ほどと同じように細く女性的だったが、ギターの音は全く違っていた。きらめくような響きは影をひそめ、夜闇を思わせるしめやかな艶を帯びた音色が店内に漂った。押し付けがましい感触の一切無い、皺ひとつないシーツに身を横たえるような心地良さに志郎は半ば陶然となった。ギターの音で、音楽でここまで感動したことなどついぞ無いことだった。
男の演奏が終わってしばらくしてから、さすがに圧倒されたのか、アキトが何やら申し訳なさそうな、恐縮しきった様子で男に訊ねた。
「あの、どうやったらそんな風に弾けるんですか?」
アキトの問いに男は眉を寄せた。
「どうやったら、って言ってもね…色々な人の演奏を聴いて、こんな風に弾きたいって思って、それに近づくように練習して…」
男はそこまで言うと、アキトに向きなおった。
「君は今、いくつ?」
「はい、二十歳です。」
「そうか…僕が二十歳の頃に聴いていたギタリストといったら…」
男は顎に手をあてた。
「そうだ…あのPCに、カーラ・ボノフって入っているかい?」
男の問いに志郎は一瞬面食らったが、すぐにPCへ駆け寄った。
「はい、入っています。『ささやく夜』っていうアルバムですけど」
「うん、それ。ちょうど良かった。その中の『Only A Fool』っていう曲をかけてもらっていい?音量は少し大きめでね。」
志郎がクリックすると、果たして聞こえてきたのはアコースティックギターのゆったりしたアルペジオ(分散和音)だった。カーラのわずかに曇った愁いのある声を抱きかかえるように、そっと寄り添うように奏でられるギターに、アキトは全身を石のように固めて身じろぎひとつせず聴き入っていた。その横では奈苗がカーラの繊細で伸びやかな声に感極まったらしく、バッグからハンカチを取り出していた。
曲はギターの雨だれのようなささやきを残して終わった。アキトが、いいッスねぇ、とため息交じりにいった。
「コードを力いっぱいかき鳴らすのもギターだけど、歌をひきたたせるのもギターだ、って教わったもんだよ、僕らの世代はね。」
男は残り少なくなったワインをひと口含んで続ける。
「この曲で弾いているのはデイヴィッド・リンドレイ。ロスアンジェルスのセッションギタリストではかなり有名で、探せばきっと他の演奏も見つかるはずだから、時間を見つけて聴いてみたらいいよ。」
「はい、ありがとうございます。デイヴィッド・リンドレイですね。」
アキトの瞳が星を浮かべたかのように輝いた。その様子を見て男が嬉しそうに言う。
「僕らの時代は楽器屋に行くと長髪のニイちゃんばっかりで、弾けないくせに売り物のギターを弾こうとすると怒られるような空気があったけど、今はそんな時代じゃないよね。店員も礼儀正しくて店もきれいで…」
男は頭を掻く。
「でも、肝心の商品がイマイチでね…メーカーのせいかもしれないし、売れ筋とかいろいろあるかもしれないけど、なんか、熱くなれないんだよなぁ。」
アキトの抱えるギターを見やり、顎に手をあてて男は苦笑する。
「そのニッパチだってリサイクルショップで買ったんだってね?ネット通販もますます勢いづいてるし、これじゃ誰も楽器屋にいかなくなってしまいそうだなぁ…」
「そうなんすよ。ボクのまわりでもみんな、弦とかシールドとかレコーダーとかは通販で買ってますもん。」
アキトが口をとがらせて言う。
「でも、本当の音、本物のギターに出会える場所っていうのが減っているとしたら、今の若いミュージシャンはちょっと気の毒だよね。」
志郎が振り向くと奈苗と眼が合った。奈苗もまた男の言葉を反芻しているのが固く結ばれた口元で分かった。
「どんな時代のミュージシャンも、最終的には自分自身で音を見つけ、自分のものにしていくんだろうけど、それまでに出会う音楽や、その機会はもっと有ったほうがいいんだろうね。」
「でも、それは大丈夫です。」
アキトがいきなり自信満々の声で言い切ったので志郎と奈苗はまた顔を見合わせてしまった。
「今はネットで動画や楽譜もなんぼでも手に入るし、レコードを買わないと聴けない時代じゃないんで。ボクかって、YouTubeで自分のチャンネルを持って曲をのっけてたらちゃんと反応もありますし」
アキトの妙に明るい声にあっけにとられていた男も、アキトの顔を見るうちに表情が緩んできた。
「要はいろんな曲を聴いて、いろんなギターを弾いて音を聴いて、その中から選ぶんですよね?そんな難しいことじゃないですよ。」
男はついに噴き出してしまったが、しばらくして、そうだね、とうなずいてみせた。
「たしかに、僕たちの頃とは違うもんね。その中で新しいものを見つけるセンスかな、それに期待すればいいのかもね。」
男は柔らかい笑顔を浮かべてグラスを傾けた。
「あの、こちらの方のお会計、うちらが払ってもいいですか?」
奈苗の唐突な申し出に志郎は戸惑った。見ると、男も驚いた顔で奈苗を見ている。
「そんな…別にいいよ。自分の酒代ぐらい自分で払うし」
「いや、ここはうちらに払わせてください。色々教えてもらってすごく為になりましたし、」
奈苗はアキトのほうを向いた。
「ええよね?ちょっとぐらいなら出せるやんな?」
「ええっ、そんな、待てよ。今日はこのギターでめちゃ使ってもうて」
「そんなら仕方ない、私が出すよ。そのかわり」
「わぁあ、待ったまった。分かった、出すやんか…ああもう、御前に借りをつくったら後でえらい目に遭うもんなぁ。」
「何言うてんねんな。ひと様からご厚意を受けたんやからこれぐらいのお礼は」
奈苗はなおもアキトに詰め寄った。男はその様を見て声を上げて笑い、志郎に人差し指をたてて無言でうなずいた。はい、と志郎が応じ、新しい赤ワインのボトルを冷蔵庫から取り出した。
(了)