第七章 王の器
第七章 王の器
「兵は神速を尊ぶ……か」
この言葉を京汎は、帷幕内で腰を掛けながら呟いた。
京州軍の邦州侵攻作戦は、快進撃を続けていた。
京州軍は、強行軍を編成し、まだ、軍勢を整えていない邦州軍に奇襲を仕掛けた。背後の反乱軍の情勢もあってか、この奇襲は、大成功を収めた。
この奇襲の策は、朱信が考えた策である。
京州の全軍に『兵は神速尊ぶ』を主要作戦として説明をした。歩兵隊にいたっては、強行軍は、無理があるかと京汎は思ったが、流石は、槍竜児の張毛が鍛えた歩兵隊である。しっかりと騎馬隊についていては、戦場で活躍をしていた。
「京汎王さま、失礼します。次の作戦の相談に、参りました」
朱信が帷幕内へと入ってくる。この軍師のおかげで、京州は立ち直った。この男の功績は、言葉に表せない程である。
「ついに、邦州の首都まで近づくことが出来ました。邦州軍も主力を集めているようです」
「邦州側も、この一戦が大事だとわかっているんだろう。待ち構え獲ている相手に対して、奇襲は使えないな……」
「はい。邦州軍側は、邦盛王自ら陣頭に立ち、この戦の重要性を示しているようです。その兵数も五十万――」
「五十万!? 流石は、邦州だな。まだ、そんな余力を残していたとは……。対する俺らの兵力は、二十万か……」
「この一戦。しくじれば、一気に体制が崩されかねません……。相手の軍師である蔡用は、これを狙っていたのかも……」
ふと見ると、朱信の足が震えていた。
「す、すみません。このような大軍勢で戦うことに緊張してしまって……。もし、失敗すれば京州の国までもが壊滅すると思うと、恐怖が……」
「朱信……」
京汎は、立ち上がり京汎の肩に手をおいた。そして、朱信の赤い瞳をみつめる。
「大丈夫だ、朱信。お前は自分の考え通りに、策を考えればよい。京州の国のことなど考えるな。その責任を取るのは、王である俺だ。お前は、気にせず自由にやれ」
「京汎王さま……」
「なあに、何とかなるはずだ。ご先祖様も俺たちのことを、応援してくれているはずさ」
京汎は、朱信に満面の笑顔を見せた。不思議と、朱信はその笑顔をみて恐怖が消えた。
「京汎王さま、ありがとうございました。ともかく明日、雌雄決する戦を致しましょう!」
翌日、京州軍は、陣を構えている邦州軍に対して、軍勢を進めた。
空は、雨雲が覆い、雨が降り出していた。
「ますは、投石部隊を出す! 前進!」
朱信が、赤い旗を振る。そして、強大な投石兵器が、張毛の歩兵隊に守られながら、ゆっくりと前進をした。
投石の射手距離まで近づけば、邦州軍の陣営に打撃与えられる。混乱をした、陣に歩兵隊が攻撃を仕掛ける。これで、ある程度の邦州軍の戦力を削ぐことが出来るはずだ。
投石機が、射程距離まで近づいた時、全ての投石機が音を立てて、視界から消えた。
穴が掘られていたのである。邦州軍は、落とし穴を用意していたのだ。
「小僧の愚策など、わしには、お見通しじゃ! そら、次の策じゃ!」
邦州軍の陣内にいる蔡用は、笑い声を上げ、合図の赤い旗が振られた。それと同時に銅鑼が鳴る。
銅鑼の音によって、掘られた穴から、邦州軍の兵士が出てきた。伏兵として、穴の中に隠れていたのだ。
虚をつかれた京州軍は、混乱し浮足立つ。
「静まれ! 浮足立てば、敵の思う壺だぞ! 一つにまとまり敵の攻撃を受け止めろ!」
張毛の叫び声。張毛が、馬を駆けながら槍を振り回し、大声を上げている。京州軍の兵士たちは、張毛の下に集まり、防御を固めた。
「ますは、攻撃を受け止めよ! 重装歩兵! 盾を一斉に並べろ!」
邦州軍の突撃。それを京州軍の重装歩兵は、盾を並べ、後ろに押されていくのを防ぐ。
「そら! 敵の勢いは止まった! 一気に押しかえせぇぇ!!」
張毛の雄叫びのような合図。それにつられて、歩兵隊は、掛け声を上げ、槍を前に出し、邦州軍を押し返していく。
「押せ! 押せ! 押せ!!」
張毛も馬腹蹴って、前線へと出る。張毛が駆ければ、そこのいる敵兵たちは、吹きとばされていく――。緑色の甲冑は、その敵兵の返り血で、赤くした。
「なんじゃ! あれが、噂に名高い、槍竜児の張毛か! 我らの歩兵隊が攻めあぐねて、おるわい!」
蔡用は、ぎりぎりと歯ぎしりをする。その歯茎からは血が流れる。
「こりゃ! 高泉! 見ていないで、あの張毛を打ち倒してこい!」
「無理ですよ。あんなのと戦って勝てる訳がない。俺は、命が惜しいんでね。御免ですよ。騎馬隊でもいれば少しは、変わりますが……。その騎馬隊の馬延殿は、先の閑州の反乱で戦死してしまったしね……」
蔡用の側に立つ高泉は、やれやれと言った顔つきをしている。
「こうなれば、孫興を出すか……。いや、孫興には、京汎王の暗殺を命じている……。呼び戻すのはまずい……」
「蔡用さま、報告します! 閑州以下の反乱勢力が、この邦州の首都の背後を、狙っております!」
伝令が血相を変えて、帷幕の中に入ってきた。
「なんじゃと! 不味いぞ、これは不味い……」
「報告します!」
「今度は、なんじゃ!!」
「はっ! 南から皇帝陛下の勅命を受けた巴州が、兵をすすめ来ております! 我々は四方を囲まれておりますが……」
「なっ、なんと……。こ、これでは、邦州は、もう終わりじゃ……。う~~ん」
ばたりと、蔡用は、大量の血を吐き、その場で倒れた。側にいた兵士に、担がれていく。
「こりゃ、もう邦州もお終いだな。俺は、一先ず先に、おさらばさせてもらうよ」
高泉は、呟くとその場から逃げる様に去って行った。
京州での陣営はその夜、軍議を開いていた。
「張毛将軍、よく、敵の伏兵を抑えてくれた。あそこで、攻め込められていたら、我が軍は一気に崩されていたかもしれない。礼をいう」
「拙者の働きが、京州軍のお役に立てることが出来て、嬉しく思います」
張毛は、京汎の言葉に一礼をした。
「朱信、巴州の軍も援軍に、駆けつけてくれたみたいだな」
「はい。閑州の反乱軍も邦州の背後へと迫っております。宰相の蔡用は、失墜のうちに病に倒れたようです。もはや、邦州軍の勝機はほとんどないかと、しかし……」
「しかし?」
「なぜか、邦盛王は兵を退却させず、この場にとどまっております。普通であれば、降伏をするか、首都がある城へと戻り、籠城をするはずですが……。それが静かに待っているとなると、少し不気味です……。何か策でもあるのか……」
京汎王は、顎から生えた髭を撫でて、朱信の言葉に思考を巡らしている。
「邦盛王の性格からして、降伏はしないと思いますがね」
と張毛は、言った。
「おそらく……」
京汎が、立ち上がり背向けた。
「……。おそらく、俺を待っているんだろう」
「待っているとは?」
朱信は、京汎王の言葉の意味を理解できず、問いかける。
「同じ王として分かるんだ。邦盛王は、たしかに俺を待っている。そして、最後の勝負に出ようとしている。それが、王としての誇りだと思っているんだ」
そして、京汎は正面を向いた。
「明日は、俺が戦闘に立ち、邦州の陣営に乗り込む! 直接俺が、邦盛王と戦う!」
「しかし、それは危険すぎます! 張毛殿も何、頷いているんですか!」
「京汎王さまの言葉、拙者にも分かりますぞ。これが男としての生き方ですな!」
張毛は、涙目になり、京汎王の言葉に感動をしていた。
「しかし、京汎王さまの命がなくなれば、京州はお終いです! お止め下さい!」
「命なら、大丈夫だろう。なぁ、韓岐」
朱信は、帷幕の入口の方へ振り返る。いつの間にか帷幕の入口には、韓岐と羊鮮が立っていた。
「多分、混冥隊の孫興が、京汎の命を狙っている。だが、孫興は、俺が引き受ける。京汎は、気にせず、邦盛王と戦いな」
と韓岐は、言った。
「ということだ、朱信。異論はないな」
朱信は、納得がいかない表情をしていたが、
「……分かりました……。京汎王さまのご要望の通りに作戦を立てます」
と渋々と答えた。
軍議を解散すると、韓岐と京汎は、二人で夜の陣営内を歩きあった。
いつの間にか雨はあがり、上を見上げれば、星が夜空に瞬いている。
「いよいよ、邦州との戦いだな」
「ああ……。ここまでこられたのが、夢の中にいるような感じだ。ついこないだまでは、邦州との戦は、ほとんど負け戦ばかりだったからな。朱信たちには、本当に感謝しているよ」
「しかし、朱信は、お前が前線に出るのを、相当に心配していたぞ。あまり朱信をいじめるなよな」
「そうだな……」
京汎が、苦笑をした。
「俺は、死んでいった者たちの為にも、絶対に負けることは出来ないと思っている。だけど、なんだか変に落ち着いてしまってな。明日が、決戦という気持ちではないんだ」
「いいじゃないか。変に気負いをするよりも。その方が、お前らしい戦ができるはずさ」
「そんなものかな」
京汎は、微笑みを見せ、ふと星空を見上げる。韓岐から、見えた京汎の横顔は、いつの間にか、王者の風格を帯びたような顔つきをしていた。
京汎も成長している。京州という国も成長をしている。戦いが、戦うことによって、人も国も成長するのだ。止まってはいられない。強さを望むこと……。正しい強さを望むことが、勝利を手にするのかもしれないと、韓岐は思った
「死ぬなよ。京汎……」
「ああ、お前もな。孫興という男、相当な強さを持っているのだろう?」
「強いな。蔡用の薬だけの強さじゃなく、しっかりとした武術の技術も持っている。無傷で勝つって訳には、いかないだろうな……」
韓岐は、自分の右拳をぐっと握りしめた。
「だが、俺は負けない。韓家の為にも――。いや、自分自身の為にも。俺は必ず勝つ」
韓岐の様子は、静かである。が、見えない熱い闘気を、京汎には感じた。
「その気持ちがあれば、心配ないな。そういえば、衛殿が言っていたが、韓岐の様子が変わったと言っていたぞ。なんか、閑州の反乱を助けた後と言っていたが……」
「なっ!?」
韓岐は、驚いた表情をする。その韓岐に京汎は顔近づけ、しげしげと見つめる。
「確かに、俺の目から見ても、変わったな。なんか青臭さが消えたような……。さてはお前、女を知ったな!」
「なんで、分かるんだよ!」
韓岐は、顔を真っ赤にしている。
「やっぱりそうか!! それは、衛殿には、分からないはずだ。ははは、凄いな、韓岐もやることはやっていたか!」
「うるせい! それ以上からかうのは止めろ!」
「しかし、俺より早く女を知るとはな。憎いぞ、こいつめ!」
京汎は、韓岐の頭を、抱える。
「京汎、止めろ!」
韓岐は、腕から抜け出そうともがく。そして、二人は何かにつまずき、転び合った。
あまりの滑稽さに、二人は笑いあう。
「ははは……。なあ、京汎……。邦州の馬延将軍がいただろう。もし、戦場で見かけたら、見逃してはくれないかな。敵国の奴を助けて欲しいなんて言うのは、虫がよすぎるかもしれないが……」
韓岐は、寝転びながら星空を見上げ、呟く。その眼差しは、真剣でどこか、寂しげだ。
「……それが、お前の想い人か……。わかった。見逃してやる。兵士にも伝えておこう」
「いいのか?」
「当たり前だろう。俺が韓岐の頼みを断れるわけがないじゃないか。お前には、返しきれない程の貸しがある。それに……」
「それに?」
京汎は、立ち上がる。韓岐もそれに続き、立ち上がった。
「それに俺たちは、友だろう? 友の頼みは、命を懸けて助ける。たとえお互いに、貸し借りがなくてもな」
京汎は、韓岐の胸に拳を突き出す。
「京汎……。ありがとう……」
「しかし、韓岐もかなり面食いなんだな。邦州の馬延将軍と言えば、天下の美女将軍ということで有名だ。こいつ、憎い奴め!」
京汎は、にやけた顔を韓岐に向け、肘で韓岐の肩を突く。
「だから、からかうなって、言ってるだろう!」
韓岐は、京汎に飛びつく。京汎はそれをひょいと避け、韓岐から逃げ回る。
走りながら、韓岐はこんな素晴らしい友を持てて、嬉しく思っていた。
「京汎王さま、準備は整いました。あとは、合図を出していただければ、いつで出陣できます」
「うん。わかった」
朱信の言葉に、京汎は、息を大きく吸い込んだ。
馬に跨った京汎の後ろでは、京州軍の兵士たちが並ぶ。目の間には、既に邦州軍が布陣をしているようだ。恐らく、邦盛王が先頭に立っているはずだ。
「皆の者! これが、邦州軍との最後の戦だ! みんな良くここまで、俺について来てくれた! この中には、邦州軍によって、大事な人を失っている者もいるかもしれない。だが、もう邦州軍に怯えなくてよいのだ! 天命は、我ら京州にあり! 今こそ、我らの力を見せるときだ!」
京汎は、手に持った槍を前に振りかざす。
「全軍! 突撃!!」
京汎は、言葉と同時に馬腹を蹴り、駆け出した。そして、京州軍の全員が雄叫びを上げ、走り出した。
馬蹄の音。兵士たちの地面を蹴る音。銅鑼の音。太鼓の音。全ての音がこの大地を揺らした。
京州軍に続き。邦州軍も動き出す。
京汎の目の前には、最初の集団が見えた。
その集団の雰囲気は、狂気さを帯びているように見える。
「待っていたぞ。京汎王! 貴様を殺せば、この戦は邦州の勝利だ。大人しく死んでもらう!」
「お前が、孫興か! だが、今の俺は、誰にも止められない!」
「馬鹿め! 無鉄砲に突っ込みおって! 死ね!」
孫興は、馬を駆けさせる京汎に向かって、跳躍をする。孫興が飛び蹴りを放とうとした時、黒い物体が、孫興の目の前をはばんだ。
「貴様は韓岐! 生きていたのか!!」
「負けっぱなしってのは、許せないからな。なあ、孫興!」
孫興の目の間には、黒装束を身に着けた韓岐が立っていた。馬延を暗殺しようとした時、崖から転落して死んだと思っていたが……。
「さあ行け、京汎! 混冥隊は、黒衣隊に任せろ! 邦盛王にぶちかましてこい!」
「韓岐! 頼んだぞ!」
京汎は、馬腹を蹴り、駆け出した。
「くっくっく……。そうか、生きていたか。俺は、戦う相手がいなくなって、退屈をしていたところだ。その姿……。俺に負けそうになって、相当な修行をしてきたようだな」
「まあな。韓家の不敗伝説は、俺で終わらせるわけには、いかないんでな」
「今度は、停戦などの小細工で、途中で終わることはないぞ!」
孫興が一つ気合を入れた。ぴりぴりと孫興の闘気が、韓岐の体中を疼かせる。
「羊鮮、衛! 他の混冥隊の兵士は任せたぞ! 孫興は、俺がやる!」
「わかった!」
「かしこまりました!」
羊鮮と衛の声。黒衣隊は、混冥隊と戦闘を開始した。黒衣隊も混冥隊との戦闘に向けて、相当の訓練を重ねてきた。韓岐がいなくても、大丈夫なはずだ。
韓岐も気合を入れた。その闘気によって、砂埃が舞う。
「最初から、本気を出させてもらうぞ!」
孫興は、丸薬を取り出し、飲み込んだ。獣のような雄叫び。そして、孫興の体つきが一段と大きくなる。闘気の質も変わった。
だが、韓岐はその孫興の闘気を吹きとばすように、駆け出した。そう、それは、勝利を手にするために。
韓岐の下段の蹴りが、孫興の脚に当たる。
衝撃音とともに、孫興の顔つきが変わる。以前に戦った時の衝撃ではない。その時の記憶から、けた外れの衝撃が、孫興の脳へと伝わった。
手応え――。たしかな手応えを感じた韓岐は、そのまま追い打ちをかける。
続けさま、下段の蹴り。衝撃音。右拳を突き出す。孫興は、咄嗟に腕を上げ、防御をする。蹴り、拳、蹴り、拳、韓岐は、呼吸を整えずに次々と、攻撃を繰り出す。
孫興は亀のように、固まり動かない。
いけるか!? 韓岐の頭に片隅にそんな言葉が横切る。
韓岐の上下に繰り出す攻撃に、一瞬の孫興の防御が下がった。孫興のこめかみが顔を出す。
勝機――!!
「しゅっっっ!」
掛け声とともに、地面を強く踏み込むと、右拳をこめかみ向かって、思いっきり横に振った。
だが、その右拳を待っていたかのように孫興は、体を下に屈みこみ、避ける。
そして、孫興は左拳を突き上げる。そこは、韓岐の空振りによって、がら空きとなった、右横腹だ。
「ぐふっ!」
一瞬にして、韓岐の動きが止まる。体が思うように動かない。
体の芯に衝撃が伝わったような感じだ――。
孫興は、韓岐の肝臓に向かって拳を当てたのだ。肝臓がある位置は、筋肉が薄い。息が出来ない――。
一気に形勢を逆転させた孫興は、拳を繰り出す。韓岐は、防御が間に合わず、頭に孫興の拳をまともに食らう。血が舞う。
そのまま、蹴り、拳、蹴りと、孫興の追撃――。まともに食らったのは、最初の一撃だけで、韓岐は、なんとか防御をして、致命傷を免れた。
呼吸が回復した韓岐は、後ろに跳び、孫興との間合いを広げる。
「やっぱり巧いな……。あそこで、肝臓を狙ってくるとはな」
呼吸を整える韓岐。鼻から出た血をぬぐう。
「ふん、だがお前の攻撃も重くなった。そこまで、強くなっていたのは、驚いたぞ……」
孫興は、手をぶらぶらとさせた。腕には韓岐の拳と、脚の痕がついている。恐らく、打撃を防御したときの痕だ。骨にまで、その痛みは、あるはずだ。
「楽しませてくれる! まだこれで終わりではないだろう!」
「当たり前だ! 行くぞ!」
韓岐は、走り出し一気に孫興との間合いを詰める。孫興は、脚を蹴り上げ、韓岐の勢いを止めようとした。咄嗟に韓岐は、その蹴りを避けると、孫興に滑り込みその地面を支えている脚を両足で挟み込んだ。
「ぬぉ!!」
両足で挟み込み、回転――。
韓岐と孫興は、地面に寝転ぶ。韓岐は、挟んだ両足で孫興の足の関節を固定させると、腕を使って、反り上げた。
ぴしぴしと、孫興の足の関節から音が聞こえる。
孫興は、その痛みから、逃れる様に、這い回るが逃れることが出来ない。そして、挟まれていない脚で、韓岐を何度も蹴った。
韓岐は、その蹴りから吹きとばされるように、手を放し、飛ばされた。
「膝十字を決めてくるとは、関節技も鍛えてきたようだな……」
「もう少しで、完全に決まっていたんだけだな……」
「俺に関節技を決めるとは、百年早いわっ!!」
孫興は、おもむろに丸薬を取り出すと、食らう。そして、雄叫び。
筋肉は、さらに膨らみ、血管は、その身では抑えられないほどの、膨らみを見せ、膨張させていく。孫興の目は、血走り、真っ赤だ。
「……お前、それ以上、その薬をやれば死ぬぞ!」
「知れたこと! 貴様に勝てれば、本望だ!!」
孫興の跳び膝蹴り。
早い――!
咄嗟に韓岐は、防御をする。そのまま、孫興は、間合いを詰め、拳を繰り出す。執拗に、腹への打撃。
「ちぃぃぃ!!」
孫興の打撃を嫌がるように、韓岐は拳を突き出し、反撃をする。すかさす、孫興は、避けて韓岐の突き出された腕を掴む。
不味い――! 関節技へとつながる!
韓岐は、腕をひねり、孫興の腕から逃れる。
「がはっ!!」
また、孫興の拳が、韓岐の右横腹へと突き刺さる。
孫興の上段の蹴り。韓岐の頭が吹き飛ぶ。そして孫興は、韓岐の腹へと、前足をぶち込む。後ろに吹き飛ぶ韓岐。
「天下最強は、この俺だ!!」
獣にも似つかぬ、孫興の声――。
辛うじて韓岐は起き上がり、構える。
意識はある。体もまだ動く。拳を強く握る。
孫興は、強い。先ほどの、韓岐の仕掛けた、膝十字固めも、今の孫興には効いていないのか、動きがまるで衰えない。その点、韓岐の方は、執拗な、腹部への打撃が効き、体力が無くなってきている。
この化け物に勝てる要素はあるのか……。
「滅竜波……」
韓岐は、呟いた。
ふと韓岐の頭に浮かんだのは、滅竜波という技だった。
乱戦――。
京州軍を率いた京汎は、邦州軍の集団の中へと突撃をした。
京汎は、槍を振り回し、戦場を駆け回る。
血しぶきが舞う中を、馬を走らせる。京汎は、邦盛王を探していた。
いつの間にか、京汎は護衛の兵とはぐれていた。それだけ、目まぐるしく、兵士たちが入り乱れている。
邦州の兵士が、一つに固まり京汎の行く手を阻む。その中に京汎は、槍を振りかざした。
「邪魔だ!!」
京汎の雄叫び。その声とともに、邦州の兵士たちは、吹き飛んでいく。そして、集団の先にその男はいた――。
「やっと来たか! 京汎王! 待ちかねていたぞ!」
「見つけだぞ! 邦盛王よ! さあ、勝負だ!」
京汎は、槍を前に構え直すと、馬腹を蹴り、邦盛王に向かって駆け出した。対する邦盛王は、鞘から大剣を抜く。そして、剣を抜いた鞘を投げ捨てると、馬腹を蹴り、京汎に向かって駆け出す。
お互いの、槍と大剣がぶつかる――。馬の位置が入れ替わる。そして、またぶつかり合う。
京汎と邦盛王は、何度もぶつかり合う。勝負は互角。一瞬の隙で、勝負は決するだろう。
「京汎! 貴様は、腐ったこの成国に何を求める! なぜ、貴様は戦うのだ!」
邦盛王は、大剣を振りながら、声をあげる。京汎は、その大剣を槍の柄で受け止め、押し返した。
「俺が戦う理由! それは、民を守るために俺は、戦うのだ!」
「民だと!? 非力な民に何が出来るというのだ! 俺は、この国を変えるために戦いつづけたのだ! それを、民を守るために戦う貴様などに……!」
邦盛王の大剣を振る速度が上がる。京汎は、その振られた大剣を受け止めるので、精一杯だ。
「民は、非力ではない! 現にお前は、その民の反撃に合っているではないか! 民とは力だ。民によって、この国は栄えるのだ!」
京汎は、雄叫びを上げ、槍を繰り出す。その槍は、邦盛王の肩へと突き刺さった。
「民が、この国を栄えさせるだと……。偽善を抜かすなぁ!!」
邦盛王の大剣が、京汎の槍を飛ばす。槍は、京汎の手から離れ地面へと突き刺さった。そして、邦盛王は、京汎の喉元に剣を向ける。
「京汎王さま!!」
後ろで、朱信の声が聞こえた。
「京汎王さま! 戦は、我が軍の勝利です。邦州軍のほとんどは、こちら側に寝返っております!」
朱信の報告に邦盛王は、舌打ちをした。邦盛王の大剣は、京汎の喉元に突き付けたままだ。
「京汎王よ! 余はお前に問う! 武力では余が上、国の力でも余が京州軍よりも上であったはずだ! しかし、なぜ、お前たちは、ここまで力をつけることが出来た!? 答えろ!」
さらに、邦盛王は、大剣を前に突き出した。朱信以下の兵士たちが、動き出そうとしたが、それを京汎は、手で制止させた。
「俺たちが、ここまで力をつけられた理由……。それは『徳』の力だ!」
「徳だと?」
「そうだ! 俺だけでは邦州を追い詰めることなんて、到底できはしなかった。だが、俺には、京州のみんながいる。京州の家臣、京州の民が、一つになって力をつけたのだ!」
「……」
「そして、邦盛王! お前は、民を虐殺するという悪行をなした! その悪行が徳を失わせ、お前から力が無くなったのだ! 俺を殺したとしても、京州は同じように立ち上がる! お前の悪行を正すためにな!」
京汎に突き付けられた、大剣が震えていた。目の前の邦盛王は、笑い声をあげている。その邦盛王の後方に、側近の兵が現れた。
「報告します。我が国の首都が、閑州軍と巴州の軍の包囲を受けており、陥落寸前となっております!」
「ふっ、余には、徳が無かったということか……」
「邦盛王……」
「京汎王さま! 報告します! 邦州の首都は陥落寸前ではありましたが、立て直した模様! 敵の指揮官は、馬延将軍と報告されております!」
京汎の後方で、伝令の声が聞こえた。この報告は、邦盛王にも聞こえているはずだ。邦盛王は、京汎に向けた、大剣を降ろし、馬首を返した。
「邦盛王よ、どこに?」
「ふん、この一騎打ちの勝負は余の勝ちだ。ならば死に場所は、余で決める。余にも最後の徳が残っていたらしい……。京汎王よ、楽しい勝負であったぞ! さらば!」
邦盛王は、馬腹を蹴り駆け出した。
「京汎王さま、追撃を掛けますか?」
「朱信。追撃は中止だ。邦盛王は、死に場所を得たんだ。ここで、追撃を掛けるのは野暮だろさ。俺たちは、軍をまとめて、邦州の首都へ後詰として向かう。恐らく、もう戦いは無いだろうがな」
「……わかりました」
朱信は、京汎から、離れて各隊長に指示をだす。
京汎は、槍を拾うと、ふと冷たいものが顔に触れた。
「雨か……」
京汎が空を見上げると、黒い雲が空を包んだ。そして、しばらくすると大雨が降り注いだ。
血と汗が、空に舞う。
韓岐と孫興がぶつかり合う。その度に、汗が飛び、血が舞った。
いつの間にか、大雨が降り注いだ。
韓岐の体力は、限界に来ていた。孫興の攻撃をかわす体力は無くなり、急所をなんとか守り、致命傷を免れている。
いつの間にか、黒衣隊と混冥隊の戦闘は、終了をしていた。戦闘は、黒衣隊の勝利に終わっている。しかし、韓岐と孫興の戦いは終わらない。お互いの誇りを掛けて戦っているのだ。そんな二人を衛、羊鮮、黒衣隊の兵士たちは、黙って見つめていた。
「しぶとい奴だ。まだ死なぬとはな……」
「あんたも、相当に疲れているようだな。攻撃が優しくなってきたぞ」
それは、韓岐の強がりだった。
今は、守るだけで精一杯だ。韓岐は狙っている。最後の一撃を放つ勝機を――。その為に亀のように固まり、体力を温存している。
「ふん、強がりを言って――。そろそろ、終わりにしようか!」
孫興が、韓岐に横腹に向かって蹴りを放つ。また、体力を奪う攻撃か。
咄嗟に肘で孫興の蹴りを抑えようとする。が、孫興の蹴りは、途中で軌道が変わり上段の蹴りに変化した。韓岐は、まともにその蹴りを頭に受ける。倒れそうになるのを、辛うじて堪える。膝が揺れる――。
「俺が天下最強の男だっ!!」
孫興は、左拳を韓岐の顔に突き出す。が、孫興は、態勢を崩す。韓岐の仕掛けた膝十字固めが効いていたのだ。孫興は、地面の踏ん張りが効かなくなっていた。
左拳は、韓岐に当たらず、風を切る。その一瞬の隙を韓岐は見逃さなかった。その、一瞬の隙を待っていたのだ――。
「食らえ! 孫興!」
韓岐は、左足を地面につき、思いっ切り左へとひねる。そして、体は、半身を右に向け、一気に足を捻ると同時に、高速の回転をさせた。右拳も左に回しながら、突き出す。
「これが滅竜波だっ!!」
韓岐の右拳は、孫興の心臓部へと突き刺さる。
雷鳴とともに轟音――。それと同時に衝撃波が、韓岐の腕へと伝わった。韓岐の腕は、皮膚が破け、血が舞う。
「ぐはっ!!!!」
孫興は、その場で大量の血を吐く。倒れそうなのを辛うじて耐えている。が、耐えきれず、白目を向き、その場で倒れ込んだ。
一瞬の静寂の後、歓声が湧きあがった。
衛と羊鮮が、韓岐に近づく。
「韓岐さま! 見事にやりましたね!」
「まったくあんたってやつは、いつも冷や冷やさせてくれる。一時は負けてしまうんじゃないかと思ったよ!」
「はぁはぁ……。何とか、勝てたかな……」
韓岐は、呼吸を荒くしている。その滅竜波を放った右手はだらりと、下にたらし、血を流していた。
技の反動だ。その右腕を見ると、技の威力の凄さが、わかった。
韓岐は、倒れている孫興を見つめる。既に滅竜波によって、絶命しているだろう。武という、いや、強さを求めるという魔力が、孫興をここまで、狂わせたのかもしれない。
「韓岐さま! 直ぐに応急処置をします! 右腕は、動かせますか!?」
「大丈夫だ。神経までは、いってないし、感覚もあるよ」
衛は、涙目になりながら、韓岐の右腕の傷を応急処置していく。包帯を巻き切るころに、伝令の兵が、韓岐の下に来た。
「報告します。京汎王さまが、率いている京州の本隊は、見事に勝利を治めました」
「そうか! 京汎が無事に勝利したんだな!」
「今、本隊は、邦州の首都へと向かっています。なんでも、首都で最後の抵抗をしているとか……。一角青騎兵の馬延将軍と言う者が、指揮をしているそうです」
「なんだって!?」
韓岐は、血相を変えて、立ちあがった。
そして気づけば、伝令が乗っていた、馬に跨り、駆け出していた。それは、衛や羊鮮が止める間もなく一瞬の出来事だった。
なぜ、馬延が!? 戦はもう終わっているはずなのに……! 助けなければ!
大雨の中を、韓岐は、ひたすらに邦州の首都に向かって駆けるのだった。
邦州の首都の守備は、 指揮官である馬延の登場により、その陥落を免れていた。
馬延の見事な指揮は、一度は包囲の軍を追い返す。しかし、数で劣る、邦州軍は、馬延の活躍があっても、その陥落は、時間の問題であった。
「邦盛王さま、この首都へご帰還をいただき、ありがとうございます」
「……」
玉座の間にて、邦盛王と馬延は、向き合う。玉座に座る邦盛王に対して、馬延は、一礼をした。
「馬延よ……。余は、お主を一度殺そうとしたのだぞ。なぜ、この城に戻ってきた?」
「はい。私は馬家の当主です。馬家の当主は、この邦州に忠誠を誓っております。忠誠を誓ったならば、最後まで戦うのが、武人の務め。それ故に、戻って参りました」
「そうか……。お主は、邦州という国に忠誠を誓っていたのだな。余は、歴代の邦州の王が築き上げた徳を、壊してしまった……。馬延よ。すまなかった。お主の諫言は、誠に邦州を思っていたのに……」
「……陛下……」
邦盛王は、玉座から立ち上がる。
「後世の者は、皇帝に反逆をしたものとして、余を非難する筆を執るだろうな。だが、余とて一国の王……。最後ぐらいは、王としてこの城と、殉ずるつもりだ……」
馬延は、膝まずき邦盛王の言葉を聞く。
「馬延よ。お主とて、余と一緒に死ぬことはない。京州軍もこの城に近づいているという。京州軍に投降をすれば、悪いようには、されないだろう」
一呼吸――。一呼吸置いた後に、馬延は立ち上がった。そして邦盛王の目を見つめる。
「陛下。私も陛下と一緒に、この城で討ち死にをする所存です。投降などは、致しません」
「なに! しかし、お前は女であり、そしてまだ若い。生きていれば、それなりの人生が歩めるはずだぞ」
「いえ、陛下。先ほども申しましたが、私は、馬家の当主。この邦州が滅亡するのであれば、馬家もその道に殉ずるのが、この馬家のしきたりでございます。いま戦っている、兵士たちも誰一人、投降はしないでしょう!」
馬延の瞳は、真っ直ぐに邦盛王を見つめている。覚悟は、決まっているようだ。
「陛下! 馬延将軍! 閑州軍と巴州軍が、城門を突破し、城内へと侵入してまいりました!」
後ろで、伝令の兵士の声が聞こえた。既に、城内への侵入を許してしまったようだ。間もなくここにも、敵兵が現れてくるだろう。
「陛下! 時間がありません。ご準備を! 私が食い止めます!」
邦盛王は、馬延の言葉に頷くと、玉座の間の奥の部屋へと消えた。
馬延は、それを確認すると、走り出す。玉座の間から出ると、既に、邦州軍のわずかの兵と閑州軍・巴州の軍が戦闘を開始していた。
「この馬延が来たぞ! 皆、奮い戦え! 城には、火を放て!」
馬延は、鞘から剣を抜くと、集団の中に入る。
敵兵を斬りつけ、敵兵をはね飛ばし、敵兵を投げ飛ばす。その馬延の戦いぶりに、閑州軍と巴州軍の兵士たちは、怖気づく。
城には、火が上がったようだ。時間もたてば、この城も灰塵となるだろう。
「貴様ら、何を怖気づくか! 敵の将軍は、目の前ぞ! 押しかえせ!!」
敵の指揮官らしき者が、兵士たちの間に割って入る。馬延は、その指揮官を視界に入れると、駆け出した。
「ぬぉぉぉ!!」
指揮官の怯む声。馬延は、疾風のように敵指揮官に近づくと、剣を突き出し指揮官の首へと突き刺した。
そして、直ぐに、引き抜くと剣を横一閃させ、敵指揮官の首を飛ばした。
邦州軍の歓声――。
閑州軍と巴州軍の兵士たちは、既に退却をしていた。この城に留まれば、火の餌食になるのは、分かっているからだ。
「皆の者、よく戦ってくれた。既に邦州は、首都を占拠され、滅亡の時がきた。陛下はすでに玉座の奥で、自刃をしている。ここにいる全員は、邦州の勇者である。後世の史家は、皆の功績を称えるであろう!」
馬延の声の後に、兵士たちのすすり泣く声が聞こえた。既に、火の勢いは増し、煙は蔓延している。柱は、音を立てて崩れていた。
馬延は、兵士たちに微笑を見せると、玉座の間へと向かった。
火と煙の舞う玉座の間に、馬延は一人座り込む。
「父上。私の非力で、邦州を滅亡させてしまったことをお許しください。これから、そちらへと向かいます」
馬延は、剣を持ち直す。
「……。最後に、一目でも会いたかった……」
馬延は、呟く。燃え盛る炎の音を掻き分けるように、馬延には、聞き覚えのある声が聞こえた。
韓岐は、邦州の首都へ向かい、城内へと入った。
韓岐から見た邦州の城は、煙があがり、火が勢いよく飲み込んでいるのが見えた。
既に、閑州軍と巴州軍は、城内から退避をしているようだ。韓岐は、城内の奥へ、奥へと、一人駆けていく。
しばらく進むと、複数の兵士たちが自刃をして倒れているのが、見えた。
この奥に、もしかしたら……。
燃える炎が韓岐の行く手を阻む中、韓岐は、奥の部屋へと飛び込んだ。そこは、玉座の間らしく、その中央に馬延はいた。
「馬延! まて! 早まるな!」
馬延は、剣を自分の体に刺そうとしていたところ、韓岐の声に気付き振り返る。
「韓岐! まさか、最後に一目会えるなんて……」
馬延は、覚悟を決めている瞳を韓岐に向けた。
「その様子だと、あの孫興に勝つことが出来たようだな……。おめでとう……」
「馬延! 死んではいけない! 俺と一緒に行こう!」
韓岐が馬延に近づこうとした時、柱が倒れ韓岐の行く手を阻んだ。
「くそ! 馬延こっちに来い!」
「韓岐、それは出来ない。私は、馬家の当主。既に覚悟は、決めている……」
馬延は、立ち上がりゆっくりと韓岐に近づく。そして柱の間から見える韓岐の顔に優しく手を触れた。
「……。そんな傷だらけの体になってまでよく、よく、私に会いに来てくれた……」
馬延の手に触れられて、韓岐の瞳からは、いつの間にか涙が溢れだしていた。馬延の優しい赤い瞳が輝いている。
馬延は、自分の首に手をやると、一つの首飾りを外し、その首飾りを韓岐の首へと回した。
「この首飾りは、馬家に代々伝わる首飾りだ。これを韓岐に身に着けていて欲しい……。邦州も馬家も滅亡するが、韓岐の中で、私を生かしてくれ。そして後世に我々の生き方を、伝えて欲しい……。生き抜いてくれ韓岐!」
馬延の瞳から、一筋の涙が流れた。
「韓岐……。こんな私を好きに、なってくれてありがとう……」
馬延は、韓岐に背を向けてゆっくりと離れていく。
「行くな! 馬延! 馬延っ!!」
韓岐は、涙を流しながら炎の中に消えていく馬延を見つめ、その名前を、いつまでも叫んでいた。
邦州との戦争が終わり、数週間の時が過ぎた。
邦州と戦ったすべての州は、落ち着き差を取り戻し、平和な時を過ごす。それは、邦州での戦いで一番の功労者であった、京州も同じであった。
馬延を失い、しばらく放心状態であった韓岐も、すでに、元気さを取り戻していた。京汎が気を使い、毎日のように韓岐を酒の席に誘う。京汎は、韓岐に落ち込んでいる暇を与えないように。
時間が、国も人も、変化させていた。
「どうやら、邦盛王の母は、あの蔡用の娘だったらしいな」
「そうなのか。通りでの蔡用も、天下を取るのに熱心だったわけだ」
韓岐は、京汎の言葉に、酒を口に入れながら答えた。韓岐と京汎は、二人で席を並べ、いつものように飲み合った。
「あの邦盛王は、人質時代に相当、皇室の人間に虐められていたみたいだな。平民の子供だと言われて……。俺もそんな生活をしていたら、捻くれてしまうだろうな……」
「蔡用は、自分が天下を取るために、邦州の先代の王に娘を進めたってわけか……。邦盛王の兄弟は、みんな不審な死をしていたみたいだから、それも蔡用が手引きしていたんだろう。恐ろしい男だったな。蔡用という男は」
と京汎に答えた後、韓岐は、ぼうっと酒の入った杯を見つめている。
「しかし、その野心を持った蔡用も今は亡き身か……。なんだか儚いもんだな。生きるってのは……」
京汎は、酒を一気に飲み干す。
「京汎が、儚いっていうことが分かるなんてな。そっちの方が驚きだよ」
「うるせいよ……。なぁ韓岐。俺は、いつまでもお前がこの京州に居てくれてもいいんだぜ。最近のお前は、元気がないみたいだしな。俺が毎日、付き合ってやるよ」
「そうだなぁ……。それも悪くないかな……」
韓岐は、気力のない声を出す。馬延失った悲しさは、なんとか乗り越えた。
今でも思いだし、苦しくなることがあるが、それは時間が解決をしてくれた。しかし、今の韓岐は、すべてにおいて、やる気が出ないでいた。
孫興を倒してから、生活にはりが無くなったような感じがする。次に何をすればいいのか分からない。このままでは、駄目だと自分では分かっているものの、体に力が入らず腰が重くなっていた。
「そういえば、明日は、邦州討伐の功績を称えるために、皇帝の勅使が来ると聞いていたぞ。京汎も相当な褒美がもらえるな」
「俺は褒美なんてものは、それほど興味ないんだけどな。ただ、うまい酒が飲めればいいさ」
「また酒か。呆れたやつだよ。お前は」
次の日、京汎は、皇帝陛下の勅使を出迎え、玉座の間へと案内した。
京州の群臣たちが並ぶ中、勅使は、書面を読み上げた。
「皇帝陛下への反逆の徒である邦州の討伐、ご苦労であった。皇帝陛下も京州の功績を称えている。皇帝陛下は、京州の功績に報いるために、褒美を遣わすと仰っている。喜べ、邦州の全版図を京州に下賜するぞ」
群臣たちは、勅使の言葉に湧いた。
邦州の版図を手に入れれば、京州は、この大陸が誇る一大強国となるはずだ。しかし、群臣が湧く中、一人京汎は、思うことがあるように、静かにしている。
「申し上げます。皇帝陛下さまの下賜の件。この京州は、辞退を致します!」
「なんと! 京汎王よ。正気か?」
京汎の発言に勅使は驚く。湧いていた群臣は、静かになり、京汎の次の言葉を待った。
「勅使様。邦州の版図の下賜は、嬉しく思います。しかし、邦州の版図は、膨大なのもまた事実。京州にとっては、過ぎたるものでございます。古来からも過ぎたるものを手にすれば、滅びは必定です。それに……」
京汎は、群臣たちの方を向く。
「それに、私には、この京州の家臣たちという宝があります。この宝があるかぎり、京州はさらに栄えるでしょう!」
京汎の言葉に群臣たちは、また湧いた。家臣たちを宝と称して、ここまで思ってくれた王は、今までいたであろうか。
勅使もその京汎の予期しない言葉に、感嘆の声をもらす。
「京汎王よ。よくぞ! 申した! 殊勝であるぞ! この京汎王の言は、しかと皇帝陛下にお伝えしておく。しかし、邦州の版図に統治者がいないのも良くない。どうじゃ、近隣の州と均等に分けるというのは?」
「それであれば、お受け取りさせていただきます」
「うむ、それはまた、追って沙汰する。そして、韓岐よ。ここにいるな?」
「はいよ。俺ならここにいるよ」
韓岐の雑な言葉に、勅使の白い眉がぴくりと上がる。
「すみません! 私ならここにおります。すぐに前に行きます!」
「よろしい。お主も護影士として、よく、皇帝に対する反逆者を打ち払った。皇帝陛下も喜びであったぞ」
「ありがとうございます」
韓岐は、勅使に向かって一礼をする。
「そして、護影士として次の任がある。南だ。南に不穏動きがあると報告あった。韓岐は、護影士として、南へと行き、調査を開始するのだ。ここに、細かい内容が書かれているから、良く読むように」
勅使は、韓岐に書簡を渡した。
「南かぁ。初めて行くな。南にも強い奴がいると聞いたことがある。そいつと手合せするのも悪くないかな」
「良かったな。韓岐、行って来いよ。そしてまた大きくなった姿を俺に見せくれ」
京汎は、韓岐に向かって笑顔を見せた。そして群臣たちは、また歓声の声をあげて、いつまでも湧いた。
韓岐と衛は、旅の支度をして、城門の前で京汎たちから、見送りを受けていた。
「じゃあそろそろ俺たちは、行くよ……」
空は雲一つない快晴。旅立ちには、もってこいの空模様だ。
「今のお前には、やることがあった方がいい。またいつでも遊びに来てくれ」
「また、来るんでしょうね。どこかで野たれ死んだら許さないよ!」
「馬鹿ぁ。野たれ死ぬか! お前の方こそ、ちゃんと黒衣隊を引っ張っていくんだぞ」
韓岐が羊鮮に近づき、おでこに指を当てた。
「痛い! 何すんのよ!」
羊鮮は顔を真っ赤にして、大声をあげた。側いる衛は、くすくすと笑っている。
「朱信も頼んだぞ。京汎は見ての通り頭が悪い。京州の宰相として、助けてやってくれよ」
「はい。京汎王さまの家臣が宝だという言葉に感動しました! ちゃんと宝だと言われるようにしかと宰相の任に応えてみせます!」
朱信は、赤い瞳を輝かせている。
さらに後になるのだが、この京汎の言葉は、全土に知れ渡り全国の人材が京州へと集まるようになる。有能な人材を抱えた京州は、成国一の州として栄えるのだが、それは、もっと先の話だ。
「なんだ? 張毛はいないのか?」
「ああ、張毛なら歩兵の調練に出ている。俺が、張州再建の支援を提案したんだが、どうやら京州が気にったみたいでな。しばらく将軍として、この京州にいるそうだ」
「そうか……。じゃあ、そろそろ、行くよ。南の調査が終わったらまた、遊びに来る」
韓岐と衛は、京汎たちに手を振りながら歩き出した。京汎たちは、韓岐たちの姿が見えなくなるまで、いつまでも、手を振った。
しばらく道を歩くと、衛が韓岐に声を掛けてきた。
「そういえば、韓岐さまの想い人のお話を、まだ聞いていませんでしたね」
「なんだよ、急に。どうせ、もう知っているんだろう。人の傷口を広げるのは、止めろよな」
韓岐は、顔を赤くし口を尖らせている。
「やっぱり韓岐さまの口から聞かないと、割に合わないような気がしますから」
「絶対に衛には、言わねぇぞ」
「ふふふ。初恋とは、いつも上手くいかないもの。でもその方が、成長できるのかもしれませんね」
「何か言ったか?」
「いえ、何も」
太陽の光がまぶしく韓岐を照らす。その首元につけられた首飾りがきらりと光った。
後世の史家は、この邦州の反乱を記す。
邦盛王は、暗愚の暴王として、史書に記される。しかし、その邦盛王の側には、一人の忠臣がいた。その名を馬延と言う。
後世の者は、この馬延の生き方を手本とし、いつまでもその功績を称えるのであった。その功績を広めたのは、一人の男の存在が大きかったのかもしれない。
「おい、衛、早くしないと置いていくぞ」
「待ってくださいよ。韓岐さま、そういえば、少し背が伸びられましたかね」
「そうかな。全然、気づかなかったけど……」
「いつの間にか、心も体も成長したのかもしれません。ねぇ、韓岐さま」
衛から見る韓岐の背中は、たくましくなっていた。その背中を衛は、優しく見つめる。
南には、何があるのだろう。韓岐の胸は、高鳴る。それは、若者という年齢がそうさせているのかもしれない。
もう、心の痛みは既にない。これから可能性は、無限に広がるのだ。
韓岐は、首に巻かれた首飾りを握りしめると、地面を強く蹴り、太陽が光る方向へと歩き出した。
これにて、影の立役者は終了です。
ここまで、読んでいただいた方は、本当にありがとうございます。
今後は新シリーズを執筆しながら、護影官としての韓岐のその後を考えています。
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