第四章 朱信と王毛
第四章 朱信と王毛
連戦に続く連戦。
馬延は、兜を脱ぎ、自分の帷幕内で一息ついた。
馬延の美しい金色の髪が、帷幕の入口から吹いてくる風になびいている。暖かい春の風だ。戦中に、風の心地良さを感じることが出来たのは、戦況が良くなって、余裕を持つことが出来たからだろう。
京州との戦の後、皇帝陛下の勅命により、邦州に軍を進めてきた各州に、反撃を開始していた。
実際に各州は、威嚇をする為だけに、軍勢を進めたのだが、邦盛王は、邦州に軍勢を進めたこと大義名分にして、戦争を仕掛けた。
戦は、順調に邦州の勝利に終わっていた。
既に、邦州の後方にある州は、領土の半分以上を失っている。
京州との停戦期間が終わるころには、邦州は今よりも領土を拡大し、しかも後顧の憂いが無くなり、ほとんどの軍隊を京州との戦争に投入することができるだろう。つまり、京州が邦州に勝つ確率は、ほとんど無くなる……。
「馬延将軍。白獅子歩兵隊の高泉将軍さまがお見えになっておりますが、いかがしますか?」
馬延が、心地よい春の風に、まどろみながら思考を巡らしていると、従者の声が耳に入った。
「分かった。直ぐに会う。ここまで通してくれ」
しばらくすると、「失礼するよ」と声が聞こえた。馬延の目の前には、白銀の甲冑を身に着けた高泉が立つ。その白銀の甲冑の中央は、獅子の形をしている。高泉の切れ長の少し垂れた瞼は、微笑みを馬延に向けていた。
「今日も美しいな。馬延将軍。君のその美しい白い肌を見ていると、今が戦の最中だとは、忘れてしまいそうだ」
高泉は、腕を胸に当てて、軽いお辞儀をする。馬延は、その高泉の姿を、ジト目で睨む。
「そんな、お世辞を入れた挨拶はいらん。高泉将軍、一体、何の用だ? 将軍自ら来られたということは、作戦の変更でもあったか?」
「いや、作戦の変更なんてないよ。邦州一の美女のご機嫌は、如何かと思ってね。気になって会いに来たんだ」
「はあ? 貴様、そんなこと言いに。わざわざ私の帷幕に来たのか!」
「つれないねぇ。その怒った顔も素敵だけど。僕の婚約者としては、もっと女性らしさが必要だな」
「婚約者?」
「いつも言っているじゃないか。高家の人間と馬家の人間が、縁談を結べば、邦州での影響力も増す。そうすれば、邦州での繁栄は、約束されたようなものだよ」
高泉は、馬延の手を掴む。馬延は、慌てて手を引き抜く。
「私は、結婚に興味はない! 勝手なことは言わないでもらおう!」
「勿体ない。そんな美しい、美貌を持っているのにさ。女性として生きれば、もっと幸せな人生を全う出来るはずなのに……」
「私は、一角青騎兵を受け継いだ時に、女は捨てたのだ。私の望みは、邦盛王さまに忠義を尽くことだけだ」
ふと、馬延の頭に、韓岐の言葉が横切った。一角青騎兵を受け継いだ時には、女は忘れていたはずなのに、あの韓岐の言葉を思い出すと、胸が高鳴る。
「はい、はい。いつもの断り文句ね。まぁ、僕は諦めないけど」
高泉は、口を尖らせて、少し馬延から離れた。
この高泉は、こんな軽い性格ながらも、勇猛果敢な、重装備の歩兵隊を率いている。その歩兵隊は、獅子の形をした甲冑で統一をされて、近隣諸国から恐れられている。
高泉自身も、剣の腕前は、邦州内でも一・二を争う実力だ。そして、美貌も持ち合わせており、邦州の女性からも人気がある。
しかし、馬延は、この男が好きになれない。
この高泉という男は、出世や、金にしか興味がないのだ。
それ故、馬家の当主である馬延に結婚を申し込んでいる。馬延に対する褒め言葉も全てお世辞である。馬延には、それが分かっている為、高泉を遠ざけていた。
「そう、そう、そういえば、京州の噂は聞いたかい?」
「聞いている。邦盛王さまも、その報告に喜んでいたよ」
京州の噂とは、京州の王、京汎王が乱心されたという噂だ。
京汎王は、邦州との戦の後、一切政務を行わずに、毎日、酒を飲み、美女と宴を開いているという。一時は、邦州討伐の勅命を受けたという話もあったが、邦州の首脳陣は、この噂を聞き、安堵し京州に対する警戒を解いていた。
「邦州の国力との差は、大きくなるばかりだからね。現実逃避するのも仕方ないよなぁ」
高泉は、尖った顎から生えている髭を、少し摘まむ。この高泉を、邦州の女性たちは、黄色い声で出迎えると言っているが、馬延には、少しも理解出来ないでいた。
「私は、残念でならないよ。停戦期間を終えた京州とは、良い戦が出来ると思っていたが、これでは無理そうだな」
「ほう、京州の肩を持つのかい?」
「そうではない。ただ京州との戦を楽しみにしていただけだ」
「まぁ、これで、邦州の勝利も確実となるし、次は、打倒、皇帝かもね。あの混冥隊の孫興も皇帝の護衛官である韓家の人間に、ほとんど勝っていたと言うし、邦盛王さまの天下は近いかもしれない」
「それよりも、高泉将軍は、こんな雑談をするために、私の帷幕に来たのか。さっさと出て行ってもらおうか」
馬延は、高泉の体を帷幕の入口まで押す。
「おいおい、本当につれないなぁ。今回の戦が終わったら、今度二人で食事にも行こう。本当はこれを言いに来たんだ」
「行かん! 私は、部下からの報告の処理で忙しいんだ。ささっと出でいけ!」
「分かったよ。じゃあ、ここは一旦退くよ。また来るからさ」
高泉は、馬延に叩きだされたように、帷幕から出ていく。馬延の方向に振り向くと、投げキスをした。馬延は、溜息をつき狼狽した。
京州の噂……。馬延は、敵国の噂ながらも心配をしていた。なぜだか、自分でも分からない。ただ、馬延の胸の中には、韓岐の姿が浮かぶ。あの男は、何をしているのだろうか……?
春の風、帷幕の外にいる馬延は、ふと、空を見上げる。雲一つない空。眩しい太陽の光が馬延の瞳の中に、飛び込んだ。
京州内の街中では、京汎王さまが乱心したという話で、持ち切りだ。
もう京州は駄目だとか、次の王を持ち上げたらどうだ、という話まで出ている。そんな人々の話を尻目に、朱信は、いつものように街へ出ては、生活品と書物の買い出しに来ていた。
朱信の着物は、ボロボロだ。いつも同じ着物を着ていて、みすぼらしい恰好をしている。それもそのはずで、朱信の身分は、京州内では一番低い。身分は低いと言っても、差別を受けている訳ではない。
他の人と同じような扱いで暮らすことが出来る。いくつかの制限はあるが、それは、王族の者と話すことができないとか、日常の生活に関わりのない事柄が多い。
仕事は、卑賤の身分の者が行う街の厠の清掃の仕事だ。この仕事をする者は、一番低い身分の者が行う決まりとなっている。
朱信には、家族はいない。数年前に、母を病で亡くしてからは、母の墓と受け継いだ畑を守るように、郊外でひっそりと大好きな書物と供に暮らしている。
そんな書物だらけの家に暮らしている朱信を周囲の人々は、変り者と呼んでいるが、本人は少しも気にしていないでいた。
いつの間にか、朱信の赤く輝いた瞳は、本屋に置かれた、書物を見つめていた。
「おじさん。この書物も買ってもいい? 僕のまだ、見たことのない本だ」
「おお、朱信か。それは、成安都から昨日届いた兵法の書物だ。いいよ。この辺じゃ朱信だけしか、買う者はいないからな。半額で売ってやる」
「半額で、いいの?」
朱信は、驚いた眼を向ける。
「店を畳んで、別の街へ引っ越そうと思ってな。長年住んでいた街を離れるのは寂しいが、今の王があれではな……。邦州との戦になれば、あの豊陽城の住民のように、殺されちまう。そうなる前に、な」
「京汎王さまの乱心の話か。それなら大丈夫だと思うよ」
「なぜ、そんなことが言える?」
その質問に朱信は、ただ微笑むだけであった。
朱信は店を出た。春の日差しが、朱信を照らす。
京汎王さまの暗殺――。そんな物騒な話を、数日前に朱信は、耳に入れた。人里離れた朱信の家の近くにある邸宅が、暗殺者たちの拠点になっているらしい。朱信はその邸宅の厠掃除も担当している。その時に、従者が話をしているのを聞いたのだ。
理由は、分かっている。以前から京汎王さまのことを快く思っていない勢力がある。それは、京汎王さまの叔父にあたる京政さまだ。
京政さまは、京汎王さまの王位の座を密かに狙っている。そして京汎王さまの乱心の噂――。叔父の京政さまは、この機を狙って、京汎王さまの暗殺を計画しているのだ。京州の国民もこの乱心の噂に、心が離れている今、京政さまの王位の簒奪は、支持されるに違いないとふんでいるのだろう。
だが、この京汎王さまの乱心も、計画されているとしたら……。
朱信は、思考を巡らしたが、はっとしたように、思考を止めた。自分がこんなことを考えても仕方がないのだ。卑賤の身分である自分は、京汎王さまに謁見をすることが出来ない。近くの兵に話したところで、朱信の話など誰も信じないだろう。それだけ、朱信の身分は低いのだ。
いつかは、自分の得た知識を存分に奮ってみたい――。
それが朱信の夢であった。自分が京州の高官として就くことが出来れば、きっとこの国を良くすることができるのに、といつも思う。しかしそれは、夢物語なのだ。
朱信は、一度、溜息をつき木々で生い茂る小道を歩く。自分の家が肉眼で見えるところまで、来たときに、木々の間から声が聞こえた。
「人がいるのか……。そこの者。助けて下され……」
朱信が、ふと声がする方向に目を向けると、一人の男が地面に倒れている。まだ若そうな男だ。その男が悲痛な声を上げている。
「どうしました!?」
「この数日、飲まず食わずでして……。ついに、動けなくなり……」
「これはいけない! 私の家がすぐそこにあります。そこまで連れていきましょう」
「かたじけない……」
朱信は、男を自分の背に乗せて担ぐ。しかし、重い。
この男の体躯は大きいようだ。それに体も引き締まっている。どこかの兵士なのかもしれない。この様な状況でも、男は手に持った槍を肩見放さずに持っていた。
朱信は、非力な体に目一杯、力を入れて、男を家まで運び入れた。そして、すぐにありったけの食事を用意して、男の前に並べる。
油を浮かした肉の焼けた匂い。山菜や根菜を煮込んだ甘い香り。男は、鼻に入ってきた情報に今まで動けなかった体が、火を着けたよう動き出し、目の前の料理に食らいついた。
あっという間に食べ終わると、目の前にいる朱信を認識し、照れくさそうに頭を下げる。
「いや~、本当に助かりました。危うく命を落とすところで、餓えで命を失くすなんてなったら、ご先祖さまに、顔向け出来ないところでござった」
「見たところ、どこかの兵士さまかと思いましたが……。道に迷われましたか?」
朱信は、男を探るように見つめる。若く、そして真っ直ぐな凛々しい瞼を持っている。額にある横に刻まれた切り傷が、印象的であった。
「申し遅れた。拙者は、張……、いや、王毛と申す。一念発起して武者修行の旅に出ましてな。ただ、途中で路銀が底をついて、あそこで、力尽きたというところで、貴殿に助けられたのですよ」
「武者修行ですか? それで、その槍を離さなかったんですね。あっ私は、朱信と申します」
朱信は、小さく頭を下げる。
「朱信殿。宜しくでござる。そう、拙者は、槍の腕だけが自慢でな。しかし、朱信殿の家は凄いですな。部屋中、書物だらけだ。何か、この国での重要な位置にいる御仁か?」
王毛は、あたりをきょろきょろと見渡す。たしかに、部屋は書物で埋められている。その数は異常な程だ。
「いや、これは私の趣味でして……。私は京州での一番低い身分の者です。たいした者では……」
「たしかに、京州で重要な人物であれば、そのようなみすぼらしい恰好は、していないはずですな」
「王毛殿……。さらっと酷いことを言いますね……」
「あいや! すまぬ! 朱信殿をけなすつもりで言った訳ではないのだ。許して下され!」
王毛は、慌てて何度も地面に頭を着き、懸命に謝った。
「あははは、そんなに謝らなくてもいいですよ。もう気にしていませんから。それよりも、王毛殿は、これからどうするつもりですか?」
「いや、実は、京州に来たのも京汎王さまに会って、仕官をしようと思っていたのです。しかし京汎王さまが、乱心したという噂を聞いてな。どうしようか悩んでいたのだ。悩んだあげく、餓えに困るとは情けないが……」
「京汎王さまの噂ですか。大丈夫ですよ。あれは、わざと乱心したと見せているんです。それだけの理由で仕官をしないのは、勿体ないと思いますよ」
「なぜ、そんなことが言えるのだ?」
王毛は、いぶかしげに朱信を見つめ、次の言葉を待っている。朱信は、得意げに人差し指を立てた。
「簡単です。京州は、皇帝陛下から、邦州討伐の勅命を頂きました。これは、全土に知れ渡っていることです。しかし、京州は邦州を討伐する力は、まだありません。これは、邦州を油断させる策です。これがまず一つ」
「もう一つは?」
王毛が、身を乗り出している。
「もう一つは、京州内にいる反対勢力を炙り出す策です。京汎王さまが王位を継いでからは、家中はまとまっていませんからね。邦州を討伐するのに、国内がまとまっていなければ、戦に勝てるはずがありませんから。現に、政敵である、京政さまが、京汎王さまの暗殺を企てているみたいですし……」
「おお! 凄い! そこまでお分かりであるとは! しかし、京汎王さまの暗殺と今言ったな? そんな物騒な話をどこで聞いたのか?」
「私の家の近くで、豪華な邸宅があったでしょう。あそこは、京政さまの別荘なんです。たまたまその話を、聞きましてね」
「しかし、その暗殺の話は誰かに、報告はしたのか?」
「いえ、私はこの京州では、一番身分の低い者です。王宮に入ることも出来ません。街にいる兵士に言っても笑って、取りあってはくれませんでしたよ」
朱信は、そう言って、少しうつむいた。
「なんと! それでは、京汎王さまはこの事実を知らないのだな……。しかし、京汎王さまの策を見抜いた朱信殿が、この京州で一番低い身分だとは、なんと勿体ない!」
「私も、この書物で培った知識を一度は奮ってみたいと思いますが、そんなのは夢物語ですよ。あはは」
朱信は、後頭部に手をやり、照れたように笑った。王毛は、腕を組み、真面目な顔で考え事をしている。そして、かっと目を見開き大声をあげた。
「朱信殿! こうなれば我々二人で、その邸宅に乗り込み、その京政とやらを捕まえましょう! 暗殺を防いだ功績で、仕官が叶うかもしれませんぞ!」
「な、何を言っているんですか! 二人でなんて……。そんなの無理ですよ!」
「男たる者、一度志したならば、行動を起こさねばなりませんぞ! 書物も大事ですが、やはり動かねば! 動いてこそ、成功する道は、開けるのです! 私は、この一飯の恩に報いるために朱信殿に協力しますぞ!」
王毛は、さらに身を乗り出し、真っ直ぐな瞳を朱信に近づける。こんな状況で断れるはずもなく、朱信は、こくりと頷いた。
王毛の暑苦しい熱気が、ひっそりとした書物だけの、部屋の雰囲気を変えていた。
妙なことに、なってしまった。
目の前にいる王毛という男を助けたおかげで、いつもの平凡な日常から変わりつつある。
二人だけで京政さまの邸宅に乗り込み、京政さまを捕えるなんて、無理にも程がある。しかし、王毛は何か自信があるのか、落ち着いた様子で朱信の話を聞いている。
「……ということです。ですので、私の予想では、京政さまは毎日のように、あの邸宅に現れております。明日の夜も同じはずです。先ほど説明した手筈通りにすれば、中に入ることは出来るでしょう……。って、王毛殿、聞いていますか!」
いつの間にか、王毛の頭は、下にだらりと垂れさがっていた。この男、眠っていたのだ。
「あっすまぬ。いや、ちゃんと聞いておりました。つまり明日の夜、事を起こすということですな。貴殿の立てた策なら絶対、成功するはずだ。うん!」
朱信は、溜息をつく。見たところ、武術には自信があるようだが、それは今の朱信には、分からない。ただ一つ言えるのは、真っ直ぐな瞳だけが、この男を信用たる人物に見せているのだが……。
しかし、不安だ……。また、朱信は溜息をついた。
次の日の夜、二人は京政の邸宅に現れた。王毛は、荷台を引いている。その中には、中身が入っていない甕がいくつか置かれていた。
「とまれ。そこの二人、こんな夜に何の用だ?」
邸宅の門番に声を掛けられた。朱信は、一歩前に出る。
「はい。私はここで、厠掃除を担当しているものです。今日の肥溜めには、大量に残っておりまして……。私の家から甕を持ってきて、取り出そうと参りました。一応、許可は頂いておりますので、確認してください」
「そうか。分かった。そこで待っていろ」
門番は、邸宅内入っていく。しばらくして門番は、戻ってきた。
「許可は出ていた。通っていいぞ。相当、肥溜めに溜まっているようだな。しかし、こんな夜に、掃除をするなんて、仕事熱心なものだ」
「いえ、ちょっと小銭が欲しくて、仕方なく……。では」
朱信はお辞儀をして歩き出す。肥溜めにはあらかじめ、朱信が溜めておいたのだ。これで無事に、怪しまれず邸宅内に入り込むことができる。
「ちょっと待て。そっちのでかい男は何者だ? 見たところ初めて見るが……」
朱信は、突然声を掛けられて驚き、門番の方へと向く。
「ああ、こ、こいつは、新しくこっちの担当になった者です。王毛、挨拶をしろ」
「王毛です。宜しくお願いします」
「なんだか、図体だけでかくて、頭の悪そうな男だな。まあいい。もう夜なんだから、あまり大きい音は立てるなよ」
朱信と王毛は再度、門番にお辞儀をすると邸宅の中に入っていった。そして、庭にある肥溜へと向かう。
「なんだ、あの門番。拙者を馬鹿呼ばわりしたぞ!」
「まぁまぁ。落ち着いてください。これで、無事に中に入れたのですから」
「しかし、私はこれでもれっきとした……」
「れっきとした?」
朱信は、王毛の次の言葉を待つ。王毛は慌てて一度、咳払いをした。
「ごほん。いや、なんでもござらん。して、悪の親玉京政の部屋はどこか?」
「あそこの明かりが見える部屋が、京政さまの部屋です」
朱信が指を示す方向は、二階にある部屋だ。ぼんやりと、美しい明かりが見える。
「では、あそこまで行こう」
王毛は、荷台の中から隠していた槍を取り出す。
「正面からでは、怪しまれますから、裏から入りましょう」
二人は裏庭へと向かうと、裏口が見えた。そっと扉を開けて中を覗く。そこは、食堂のようだ。人はいない。
「中には、巡回をしている警備の者がいるはずです。慎重に進みましょう」
朱信と王毛は、邸内の中を進んでいく、途中で幾人かの巡回の警備兵をやり過ごす。警戒は厳しくないようだ。京政さまは、油断をしていると、朱信は思った。
二人は、京政がいるであろう、部屋の前へと辿り着いた。
「朱信殿。ここだな。入り込み一気に一網打尽にしましょう」
「王毛殿、静かに。中から声が聞こえます。結構な人数がいるようですが……」
朱信は扉を少し開き、中を覗く。京政の声が聞こえた。
「京汎王暗殺の決行の時は、近い。皆の者、今日は邦州の混冥隊から、応援の方も来て下さった。あの混冥隊に所属している人だ、これで暗殺は確実だ。今日は前に祝いに大いに飲んでくれ。さあ、先生も」
京政は、先生と呼んだ者に酌をする。京政は、小太りで油の浮いた顔を先生と呼ばれた男に向け、不気味な笑顔を向けた。
「蔡用さまから、京汎王の暗殺を成功するように頼まれたからな。なに、この薬があれば暗殺は、きっと成功する」
先生と呼ばれた男は、混冥隊に所属している男のようだ。黒く丸い丸薬を手に取りだしていた。腰には、長刀を佩いている。顔は青く、眼光は不気味な光を放っていた。
「頼みますぞ。京汎王が暗殺できれば、これで私が晴れて京州の王となる。今の京汎王に人望はないからな。蔡用さまと取引をして良かったよ。ふははは」
不快になる笑い声。朱信はふと横見ると既に、王毛の姿はなかった。
「そこまでだな! 話は全て、聞かせてもらったぞ! まさか、邦州と取引していたとは!」
王毛の声が、部屋の中で響く。朱信も慌てて部屋の中へと入った。数十人の男たちが一斉にこちらを見ている。
「なんだ、貴様たちは!? 一体何者だ!?」
「邦州に恨みを持つ者、だけと伝えておく」
「笑わしてくれる。見たところ、貴様たち、二人だけのようだな。者ども! かかれ!」
一斉に男たちが、朱信と王毛に向かって走り出した。
朱信の足は、恐怖で震えた。しかし、王毛は落ち着いた表情で朱信に笑顔を見せる。
「朱信殿。後ろに隠れていて下され。ここは拙者にお任せを!」
王毛は、槍を前に突き出し構えると、気合を入れるように大声を上げた。その威圧する声に男たちは一瞬怯んだ。そして王毛は、男たちに向かって駆けだした。
朱信は、隠れるのも忘れ、王毛の戦いぶりを眺めていた。
王毛のその戦いぶりは、まさに鬼神のようだ。一度、槍を振り回せば、竜巻にぶつかったように、男たちは吹き飛んでいく。そして、槍を突き出せば、適確に相手の急所へと当てていく。
王毛は、穂先の部分は使わず。槍の柄の部分で男たちを気絶させていく。相手の攻撃を避けては、槍を巧みに繰り出す。
またたくまに、京政の部下たちは、王毛によって倒された。
なぜ、王毛があそこまで、落ち着き、自信に満ちていたのか朱信は理解した。王毛は言語に絶する強さを持っていたのだ。
京政が、驚いたように口を大きく開け、言葉にならない声を出している。
「さぁ、京政! 大人しく捕まってもらおうか!」
「王毛殿! 危ない!!」
朱信の声と同時に、王毛の横から、刃が振り落ちる。咄嗟に、後転をした王毛は、その攻撃を避けることできた。鼻先からは、血が飛んだ――。
「ほう、今の攻撃を避けることが出来るとはな。なかなかの腕だ!」
混冥隊の男が王毛に近づき、長刀を構えている。王毛もすかさず、槍を構える。先ほどの戦いとは違い、穂先を男に向ける。王毛は、手加減をすれば、こちらがやられると瞬時に判断をしたのだろう。
「その額の傷……。そうか、あの張州の……。道理で強いはずだ。では、こちらも本気を出させてもらうぞ!」
男は、腰の巾着から丸薬を取り出すと、一口に飲み込んだ。そして、獣のような雄叫びを発すると男の筋肉が瞬く間に膨張した。これが、噂に聞く、混冥隊の強さの正体か……。王毛はその様子をみて、笑っている。
「嬉しいぞ! この様なところで、祖国の仇である混冥隊の者に出会えるとはなっ! さあ行くぞ!」
王毛は駆け込み、男の懐へと潜り込む、その王毛の動きを、混冥隊の男は、長刀で上から振り落し王毛を止めようとする。王毛の動きを止めると、男は前蹴りを放った。吹き飛ぶ王毛。
そのまま男は、追撃を掛ける。王毛はその追撃を槍で受け止める。男の追撃は、止まらない。長刀を穂先で受け止める度に、火花が舞う。王毛と男の周りには、まるで、竜巻起きているように、周りの椅子や机を撒き散らし、破壊していく。
凄い! あの化け物みたいな男と互角に戦っている! 朱信は魅入られる様に、二人の戦いを見つめている。いや、互角ではない。王毛が次第に、混冥隊の男を押していた。
王毛の攻撃は、だんだん一手、多くなってきている。男の方が、防戦一方となっていた。そして、王毛の繰り出した槍が、男の左肩へと突き刺さる――。
「ぬお!!」
男の痛む声。そして間合いを詰める王毛。
「終わりだな。祖国の仇! 覚悟!!」
「覚悟するのは、貴様だ!」
王毛が槍を繰り出そうとした瞬間の声。振り返るとそこには、京政が朱信の体を後ろから抱え、朱信の首に剣を向けていた。
「貴様! 汚いぞ!」
「うるさい! わしの計画を滅茶苦茶にしおって! 大人しく討取られろ! さもなくば、こいつの命はない!」
「王毛殿! 私のことは気にせず!」
「うるさい! 黙っていろ!」
京政は、さらに朱信への締め付けの力を強くした。それを痛む朱信の声が聞こえる。
「くそぉ!!」
王毛は、手に持った槍を地面に叩きつけた。混冥隊の男は、長刀を上に振りかぶりながら、ゆっくりと間合いを詰めてくる。王毛は、目をつむり、死を覚悟した。
「そこの男。諦めるのは、まだ早いぞ!」
「ぐわあ!!」
京政の叫び声。いつの間にか京政の腕には、矢が刺さっていた。すかさず、朱信は、走り出し、京政から離れる。
王毛が目を開け、窓の方を見ると、黒ずくめの集団が、部屋の中へ入り込んできた。弓を構えている女の姿も見える。
京政は、叫びながら部屋の外へと出ようとしたが、目の前には、黒ずくめの男が立つ。右腕には、包帯を巻いていた。
「往生際が悪いぞ。大人しくしていろ!」
その黒ずくめの男は、京政に向かって上段の蹴りを放つと、京政は気絶をして、倒れ込んだ。
「そこの男! これで心置きなく戦えるぞ! さあ、槍を取れ!」
「なんだか分からないが、かたじけない!」
「そうは、させんぞ!」
混冥隊の男は、槍を拾おうとしている王毛に向かって、長刀を振り落すが、王毛は、すかさず側転をし、長刀をかわす。手には槍を持ち、構え直す。
「ぬん!」
気合と同時に、男の胸に槍を一刺しする。そして、槍を抜いたと同時にその場で、ぐるりと回り、槍に速度をつけさせると、一気に男の首を飛ばした。
呼吸を整える王毛。そこに朱信と黒ずくめの男が近づいた。
「お見事だったな。あんたの戦いぶりを見せてもらったが、遠目で見ていても武者震いがしたよ。あっ、名前を言い忘れたけど、俺は、韓岐って言うんだ。今は、黒衣隊に所属している」
「いや、こちらこそ、危ないところを助けていただいて、かたじけない」
王毛は、お辞儀をした。ふと、あたりを見渡すと、黒ずくめ男たちが京政とその部下たちを縄で縛りつけて、運んでいた。
「しかし、その額の傷と槍の腕前。俺が思いつくのは……。あんた、槍竜児の張毛将軍だろ? なぜ、あんたみたいな貴族が、こんなところにいるんだ?」
朱信は、槍竜児の張毛将軍と聞き、驚いた顔をした。
槍竜児の張毛――。この名前を聞けば、誰もが驚く。
張毛は、邦州よりも北方にある張州の王子だ。王子だけなら、朱信は、この名前を覚えるはずもないのだが、張毛は、神憑り的な槍の腕前を持っていると、天下に知れ渡っている。その戦いぶりは、竜のごとく。それで張毛のことを人々は、槍竜児と呼んでいた。
そして、張毛が率いる歩兵隊は、この大陸でも最強と謡われていた歩兵隊を率いていた。しかし、張州は、邦州によって既に、滅ぼされていた。その際に、張毛も命を落としたと聞いていたが……。
「まぎれもなくなく、拙者は張州の王子、張毛だ。朱信殿すまぬ。決して貴殿をだますつもりはなかったのだが、張州の王子である私が、飢えで倒れていたというのが、恥ずかしくてな……。つい、偽名を使ってしまったのだよ」
王毛、いや、改め張毛は、顔を赤くして照れた表情をしている。
「通りで、強いはずです。いや、私を騙していたことなんて、いいんですよ」
「おいおい、なんだか話が見えないが、張毛、そちらの青年は誰だい?」
「あ、紹介遅れました。この御仁は、朱信殿と言って、私の命の恩人です。朱信殿は、京汎王の乱心が実は、計画されていたと見抜いておりましてな。この御仁の知恵は、目を見張る者があります」
「ほう、あの京汎の乱心を計画していたと、見抜いていたとは……」
韓岐は、朱信としげしげと眺める。朱信は、恥ずかしそうに後ずさりした。
「今回の暗殺の計画も、朱信殿から聞きましてな。私も京州に仕官をしたいと思っておりましたが、朱信殿も能力もある。仕官の手土産に、二人で暗殺を未然に防ごうとしたのです」
「なんだ、お前たち仕官をしたいのか。あの、槍竜児の張毛が加われば、かなりの戦力だ。朱信は……」
「わ、私はこの京州では、一番低い身分です。仕官など大それた望みは……」
「身分なんて関係あるか。いま、京州は喉から手が出るほど、人材が欲しいからな。そうだ、朱信は、武術よりも知恵があると言ったな。よし、お前の家に行こう。朱信の考えを聞かせてくれ」
「えっ!?」
朱信は、韓岐の言葉に戸惑った表情をする。張毛は、その二人のやり取りを見て微笑んでいた。
数日後、朱信と張毛の二人は、京汎王に謁見をした。
暗殺を未然に二人で防いだ功績を称えるため、京汎王自ら、二人を表彰したのだ。
「二人ともありがとう。こんな俺のために勇気を出してくれたことに。京州は、勇者を尊ぶ。して、二人の望みは仕官であるとか。張毛殿はなぜ、京州に仕官したいのだ?」
「はい。拙者の祖国、張州は邦州によって滅ぼされました。それも民までも虐殺される惨いやり方で……。私は、何とか生き延びましたが、祖国の仇を誓いました。そこで、邦州討伐の勅命を受けた京州の噂を聞きつけ、拙者の力を使ってくれればと思い、この京州に参ったのであります」
「あの天下で名を馳せている張毛殿が加わってくれれば、百人力だ。ぜひ、こちらからもお願いしたい。張毛殿には、京州の歩兵隊を任す。お主の力で、歩兵隊の力を強くしてくれ」
「ありがとうございます!」
張毛は、深々と京汎王に向かってお辞儀をした。
「次は、朱信だな」
「こいつは、凄いぜ。朱信の考えを聞かせてもらったが、卓越した知恵を持っている。三日三晩、語り合うのは苦労したがな」
謁見の間の横に立っていた韓岐が、京汎王に近づいていた。
「うん。そのようだな。朱信が自ら編纂した兵法書や、内政書を読ませてもらった」
朱信は恥ずかしそうに顔を、下に下げる。
「俺も読ませてもらったが、驚かされたよ。こんな才能を持っている者が、京州で一番低い身分でいるなんて、勿体ないぜ」
「しかし、俺は読ませてもらったが、全く内容について分からなった……」
「おまえ!」
韓岐が京汎王を睨み返す。朱信が顔を上げて、不安な顔をした。
「仕方ないだろう! 俺は字を読むのが苦手なんだ! そんな顔をするなって。だから朱信……」
京汎王は、朱信に近づき両手を取った。
「俺はこの通り、馬鹿で字も読むのも苦手だ。学もない。しかし、俺たちはあの巨大な邦州に勝たねばならん。俺の側で従えて、俺に朱信の持っている知略を教えてくれ」
「それは……」
朱信は、まだ京汎王の言葉を理解していなようだ。
「俺の側で従えろ、朱信。お前は俺の相談役だ。早速、明日から頼むぞ」
「ありがとうございます!」
朱信は、頭を何度も下げた。その光景を韓岐と張毛は暖かく見守った。
数か月が過ぎた。
京政は、捕えられて国外へと追放された。京汎王への反対勢力を排除した京州の家中は一つにまとまり、官民一体となって富国強兵へと目指していた。
中でも朱信の活躍は目覚ましく、次々と改革案を出しては、実行をして、成功を収めていた。
朱信は、まるで水を得た魚のように、目まぐるしく仕事に没頭をしているらしい。思いついたことは、京汎に相談しているらしいが、京汎はそんな朱信の難しい言葉に、青くなっているようだ。だが、二人の関係は上手くいっている。
張毛は、新しく編成された歩兵隊の調練を行っている。
散り散りとなった張州時代の歩兵隊の兵士たちも張毛の噂を聞きつけて、この京州に集まって来ている。最強と謡われた歩兵隊の兵士たちは、京州の歩兵隊に加わり、その戦闘能力を上げていた。
黒衣隊は、羊尚の後を羊鮮が引き継ぎ、韓岐と衛もそれに加わった。
混冥隊との戦いを意識して、毎日のように調練を繰り返している。韓岐も黒衣隊の兵士たちに武術の手ほどきをしていた。
京州は、正に富国の道を突き進んでいた。邦州への停戦期間は一年を切っている。邦州との戦は、刻々と迫っていた。
「ようやく、治ったみたいだな」
韓岐は包帯の取れた右腕を、何度も回している。
「良かったですね、韓岐さま。だけどまだ、無理は禁物ですよ」
「衛。腕の骨折も治ったことだし、そろそろ、成安都に戻るぞ」
「えっ? 今になってですか?」
衛は、韓岐の巻いていた包帯を片付けている。
「そうだ。兄さんのところに戻る。俺は今のままじゃ、あの孫興に勝つことは出来ない……。だから、兄さんに相談しようと思ってな」
韓岐は右手を握りしめ、力を入れた。あの戦いを思い出すと、今でも悔しさが込み上げてくる。兄さんなら、何か知恵を授けてくれるかもしれない……。
「わかりました。それでしたら、羊鮮殿にも伝えなければ行けませんね。きっと、韓岐さまが居なくなると知って、淋しがると思いますから」
「なんで、羊鮮が淋しがるんだよ?」
「韓岐さまは、女心が分かっておりませんね。羊鮮殿は、韓岐さまがいると、いつもウキウキしていますよ」
「そうかぁ? あいつは、俺にやたら突っかかってくるからな。衛の勘違いだろ。ああ、思い出すだけでイライラする。それよりも、兄さんに手紙を出しておいてくれよ」
「分かりました」
衛は、クスクスと笑い、韓岐から離れていった。
韓岐と衛は、一通り挨拶を済ますと、京州を後にした。
羊鮮は、韓岐に向かって、小言を繰り返していたが、それは、衛が言っていた淋しさの表れかもしれないと、ふと韓岐は思った。
次に京州に来るときは、邦州との戦が始まっているかもしれない。それまでに俺は、強くならなければ――。
夏が始まった空は、入道雲を映していた。