六 Guardian deity~護り姫
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氏神様の境内を、大勢の人達が埋めている。
島の人達だけじゃなくて、数十年に一度の行事を見物に来た観光客らしき人達の姿もちらほら見える。
今までここにこんな数の人が来る事なんてなかったんじゃないか、ってくらいの、人だかりだ。
何でもテレビ局から取材の申し込みがあったらしいけれど、さすがにそれは断ったとか。
大掛かりな行事に見えるけれど、基本的にはあくまでも宮江本家の私的な儀式だもんね。
そんな事を考えながら、拝殿の隅に置かれた几帳っていう布掛けのついたての陰からあちこちきょろきょろ眺めていたら、横から凪子叔母さんに袖を引かれた。
「ちょっとは落ち着きなさい、もう!さっきみたいに化粧崩しまくる程表情を動かしちゃ駄目よ」
全く何をしたらあそこまで崩れるのよ、と小言を言われて、はぁいごめんなさい、とわたしは肩をすくめた。
美矢のポニーテールで死ぬほど笑い転げました、なんて言ったら……更に怒られそう。
「あ、ほら、始まった!よっちゃん出てきたわよ」
叔母さんに言われて、わたしは檜扇をきゅっと握りしめながら、拝殿の真ん中に目をやった。
……いよいよ、始まる。
元服式。
話に聞いていただけのそれは、準備段階から色々と大掛かりで、面倒な決まり事が多くて。
一体、どのくらい荘厳な儀式になるんだろうと、ずっと想像を膨らませていたんだけれど。
美矢が奥から出て来て、決められた席について。
居並ぶ人達の一番上座に座っていた、一族の長老にあたる、ひいおじいちゃんの弟――本家のおじいちゃんの、五つだけ年上の叔父さん――が美矢の前に進み出て。
烏帽子っていう昔の武士の帽子のような物を美矢のポニーテール……じゃなかった、総髪って言えってさっき美矢に怒られたんだった。とにかくその上に載せて。
顎の所で長い紐を結んで、余った部分をはさみで切って――終了。
意外と、呆気なかった。こんなもの?
まあでも、厳粛な儀式には違いないわね。
式に臨んでいる最中の美矢は、普段のおちゃらけっぷりが想像出来ない位きりっと引き締まった表情をしていた。
それが着ている直垂とか、周りの雰囲気にとても映えていて。
思わず歌舞伎の掛け声ばりに『よっちゃん、格好いい!イケてる!』って叫びたくなって。
……几帳の陰で、唇をちいさく結んで、堪えた。
紅が剥げるからと、唇を噛みしめるのと強く引き結ぶのは凪子叔母さんから禁止されている。
これがわたしには結構辛い。まだ潔斎の色々な制約の方がマシだったってくらい。
そしてあっさり終わってしまった元服式に、妙な物足りなさを覚えていたら
「ゆんちゃん、出番よ」
凪子叔母さんに後ろから声を掛けられた。
そうだ。
物足りないなんて言っている場合じゃない。
元服式の終わりが、わたしにとっての始まりなんだ。
長袴の裾を気にしながら、静かに立ち上がって。
檜扇を横にして、目線の高さに捧げて。
雅楽が始まった。
一瞬だけ、目を閉じて、ちいさな声で
「……出ます」
瞼を開けて。
顔を上げて。
几帳の陰から、静かに前へ足を、踏み出した――。
§
この一週間。
ひとりでずっと、考えていた。
わたしが知っていた美矢の事、わたしの知らない美矢の事。
そして。
わたしにとって美矢が、何なのか。
美矢にとってわたしが、何なのか。
御神前に進み出て。
檜扇を捧げたまま、一礼して。
扇の紐を解いて、開く。
頭の上にかざして、ゆっくりと二度、揺らす。
わたしにとって美矢は――総領。
美矢がひとりっ子である限り、わたしは次代の……美矢の代の宮江の『一の姫』。
美矢が総領である限り、わたしは美矢にとっての『斎姫』だ。
でも多分、そのことを美矢は知らない。
『弓佳がよっちゃん護ってあげるんだから』
きっともう……四年も前のそんなこと、忘れている。
美矢の認識の中で。
美矢にとってわたしは――従妹。
それ以下でも、それ以上でもない。きっと。
だけど、それでもいい。
胸の前で扇を構えて袴の裾を捌き、身体の向きを変える。
背中でふわっと領巾の端が宙に躍る。
ほんの一瞬だけ、正面に座っている美矢の顔が視界に入った。
……ひどく真面目な表情で、わたしを見ていた。
覚えていてくれなくても、いい。
それでもわたしが美矢の『斎姫』であることに、変わりはないから。
どこに居ても。
どんな時も。
ずっと。
わたしが、よっちゃんを、護ってあげる――。
優しい言霊が、美矢を包んで。
どうかずっと、その行く末を護りますように……と。
祈りながら、手を天に向けてかざす。扇をひらめかせる。領巾を宙に、舞わせる。
そして。
楽の音が、止んだ。
御神前に向かって、静かに一礼して。
檜扇を元の通りに閉じて、紐を巻く。
入って来た時と同じように、横にして目線の高さに捧げて。
拝殿中央の階段に向かってゆっくりと、歩を進める。
少し後ろに美矢がついたのが、気配でわかった。
わたしを先頭にして、美矢、神主様、そして居並んでいた親戚の皆が並ぶ。
階段上の中央に立って、捧げた扇越しに境内を一望した時。
几帳の陰からは見えなかった人だかりのすごさに、思わず息を呑んだ。
ずっとひとりでここで練習してきた成果を披露するには、最高のお膳立てだ。
ここは、わたしにとっての、一生に一度の大舞台。
目線を下げずに、足を踏み出す。
一歩出して、階段の幅を確認してから身体の重みをかけて、後ろの足を前に出す。
足の裏が感覚で幅をしっかり覚えているから、怖くはない。
あんなシーンを見ながらでも動じずに降り切ったわたしだもの、大丈夫。
いつの間にか。
思い出しても動揺しなくなっていた、あの時の光景。
御神木の根元のところで、仲良く並んでいたふたつの頭。
……菜香ちんと、美矢。
御神木の所に視線が向いた時。
ほんの一瞬、あの時と同じ頭がひとつ、見えた。
けれど次の瞬間には、見えなくなっていた。
その時、足が一番下の土台を踏みしめたのが、わかった。
一瞬だけ、菜香ちんが見えたような気がしたけれど。
まさか、ね。
あの時見た光景と、だぶっただけ……きっと。
§
……全く。
何でこう、酔っ払いって下品なんだろう。
台所から料理を運びながら、わたしはふう、と、ため息をついた。
お昼に元服式の一連の儀式が全て終わって。
午後からは本家で、潔斎を解いて通常の生活に戻るための、直会という宴会が催された。
主役はここでも美矢。いつもならばおじいちゃんが座る上座中央に、おじいちゃんと太郎伯父さんに挟まれるように座っている。
わたしの席も上座の横に設けてあった。
でも、わたしは早々に席を立って、料理や飲み物のお運びの方に回った。
だって座っていると、ろくな事を言われないんだもの。
それでも最初はまだ良かった。
親戚のおじさんやおばさん達、近所の人達が
「弓佳ちゃんとてもきれいだったね!」
「本当に神様が降りているみたいだった」
座っている所へ、わざわざそう言いに来てくれて
「有難うございます。そう言ってもらえると嬉しいな」
にこにこしながら応対していたんだけれど、ね。
そのうち、早くもお酒が回ったおじさん達が来ては
「お、ゆんちゃ~ん!巫女さんなかなか色っぽかったぞ!」
「もう中二か?そりゃ色気も出る頃だよなあ」
「おじさんドキドキしちゃったよぉ」
とか何とか言って。
ひどいのになるとどさくさ紛れに触ろうとしてくるし。ふざけるなっての。
あんまりむかついたからさっさと抜け出して帰りたくなったけれど、お父さんもお母さんも美道もいるしさすがにまずいかなと思って、無難な所でお運びの手伝いをする事にした。
台所で立ち働いているお母さんやおばさん達には、大変な役をこなしたんだし座ってゆっくり料理を食べていていいから、って言われたんだけれど
「昼まで絶食だったからいきなりは食べられなくって。身体を動かしていたらお腹が空くかもしれないから、お手伝いさせて下さい」
で、納得してもらった。
美矢の所にジュースを運んだ時に、美矢にも
「ゆんちゃんも夜中から大変だったんだし、座ってゆっくりしたらいいのに」
珍しく気を遣われた。
「だって座っていたら酔っ払ったおじさん達が色々うるさい事言ってくるんだもの」
「ああ……まあ、確かにな」
「きれいだった、ならまだいいけど、色気出てたとか、セクハラじゃない?」
むすっとしてそう言うと、美矢はひどく驚いて。
「そんな事言われたのか?誰に?」
「いやまあ、酔っ払いのたわごとだしいいんだけどね……大体、巫女さんに色気なんて罰当たりよね?そう思わない?」
同意を求めると、美矢はそうだよなぁ、神罰が下るぞ、と苦笑いを浮かべて頷いてくれた。
「そもそも、本当に直会が必要なのって、結局のところ俺とおまえだけじゃないのか?」
「そうだよね。潔斎頑張ったのわたし達だけだし」
「大人が酒飲んでどんちゃんやるのに、俺達ダシにしてるだけだよな、全く」
顔を見合わせて、ぷぷっと笑い合う。
「じゃ、ふたりで乾杯する?これがホントの直会ってことで」
わたしが言うと、美矢がおう、と頷いた。
持ってきたばかりのジュースをコップに注ぎ合って。
「元服おめでとう、よっちゃん」
「巫女さんお疲れ、ゆんちゃん」
「乾杯!」
チン、と、小気味よい音が響いた。
宴半ば。
おじさん達はほとんど皆すっかり出来上がり、おばさん達は皆台所で、料理を作るかたわらつまみ食いをしながら世間話に花を咲かせていて。
わたしは入口の近くに立って、お酒や料理が足りなければすぐに台所へ行くつもりで、様子を見ていた。
と。
廊下で何かがなる音がした。電話?
一瞬目があった、上座の美矢に
「あ、わたし出るわ!」
手を軽く上げて合図を送って、わたしは廊下に出た。
玄関先にある電話のディスプレイに市外局番が表示されているのを確認して、受話器を取る。
「はい、宮江です」
……この挨拶、島内だとあんまり意味がない。半分以上の家が宮江さんだから。
島内の局番だったらウチの場合『宮前です』というように、通称で使われている住所の地名で応える。
まあ本家はどっちにしても『宮江です』でOKなんだけれど。さすがに『本家です』だと変だし。
受話器の向こうからは、何も聞こえない。
「もしもし?」
声をかけると。
『あ、あのっ……あけましておめでとうございます。わたし、上村と……』
「菜香ちん!」
全部聞く前に、わたしはちいさく叫んでいた。
十日ぶりに聞く声。忘れようもない声。
『あ、やっぱりゆんちゃんだったんだ!』
ほっとしたような響き。
「ああごめん、びっくりさせちゃった?今皆本家に集まっていて……あ、そうそうあけましておめでとう!」
取りあえず新年の挨拶を返して。
色々と話したい事があり過ぎて、何から話そうと思って。
はた、と気付いた。
ここは本家。
菜香ちんが電話をかけた相手は……わたしじゃなくて。
「よっちゃんだよね?ちょっと待ってて、呼んでくるから」
彼女の反応を待たずに、わたしは受話器を置いて広間へ向かった。
上座にはもう、美矢しかいなかった。
おじいちゃんも太郎伯父さんも席を移動して、親戚のおじさん達とお酒を片手に盛り上がっている。
広間に入ろうとした所で目が合ったので、そこで人差し指を唇に当てて、手招きした。
意図を察したらしく、美矢は酔いつぶれているおじさん達の間を静かに通り抜けて、こちらへ出てきた。
「何、俺に?」
怪訝そうな顔をするのに
「菜香ちん、か、ら」
軽く片目をつぶってみせて、わたしは入れ違いに広間に入った。
太郎伯父さんが、お酒が切れた、と言っているのが聞こえて。
「あ、わたし取ってきます!」
「おう!すまんなゆんちゃん!」
廊下に出る時、一瞬だけ玄関の方に目をやった。美矢が電話で話しているのが見えた。
酔っ払っているおじさん達も、台所にいるおばさん達も、多分気に留めないと思うけれど。
もし怪しまれたら、どうフォローしようかな……。
そんな事を考えながら、お酒を持って台所から広間へと廊下を辿る。
と。
前方の……電話の前で、美矢がぼんやりと立っていた。
受話器は電話の上に戻っている……あれ?
電話を代わってから、まだ五分もたってないよ?五分どころか三分そこそこくらい?
「よっちゃん?」
近付いて行って声を掛けると、美矢ははっとした表情でこっちを見た。
「電話、もう終わったの?」
「あ、ああ」
「菜香ちん何だって?」
何の気なしに聞くと、美矢は一瞬、口を噤んで。
「……元服おめでとう、だって」
ぼそっと言って、わたしの横をすり抜けるようにして、広間へ戻って行った。
……それだけ?
ちょっと、気になったけれど。
取りあえず太郎伯父さんの所にお酒を運ばなくちゃ。
と、持っていったら今度はおつまみが足りないそうで、またわたしは台所と広間を往復して。
運びながらふと思った。
やっぱり昼間、菜香ちんを見たと思ったのは、錯覚だったんだ。
もしあれが本人だったら、今の電話で美矢に何か言うはず。そして美矢がわたしに話してくれるはず。
いや、それ以前に氏神様で声を掛けて来るなり何なり、してくれるはずだもの。
そんな事を考えて。
いつの間にかわたしは、美矢の様子に一瞬覚えた違和感を、きれいさっぱり忘れていた。