四 So long~いつかまたね
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終業式の日。
先生から通知表が渡され、冬休みの課題の配布や、注意事項の説明があった後。
短い時間でだけど、菜香ちんのお別れ会をやった。
皆で歌を歌って、ひとりひと言ずつお別れの言葉を言って。
昨日買ったポインセチアの鉢がひとつだけ入っているカゴの、空いている所にクラス全員からの手紙の束を入れて、菜香ちんに渡すと……とうとう堪え切れなくなったのか、菜香ちんはカゴを抱えたまま泣き出した。
それを見て女子が皆、泣いた。
わたしは、泣きじゃくる菜香ちんの肩を抱いて
「皆にお別れの挨拶、しよう。最後だから、ね、がんば……っ」
頑張って、って言ったつもりが、語尾が溢れる涙で途切れた。
「みんな、ありが、と。手紙、書きます。これ……大事に、します……本当に……」
最後の、有難うという言葉は、嗚咽に紛れてしまって聞き取れなかったけれど。
でも、わたしには確かに伝わったよ、菜香ちん。
きっと皆にも――美矢にも。
菜香ちんが、転校の手続きと先生方への御挨拶にいらっしゃったお父さんと一緒に下校した後。
帰りの会が終わって、皆が三々五々帰っていく中、わたしは職員室に行った。
クラス委員の仕事で、学期末には出席簿の締めをしなくちゃならないんだ。
先生と話しながらその作業を終わらせたわたしは、誰もいない廊下を辿って、カバンを取りに教室へ戻った。
後ろのドアから、教室へ入ろうとして。
「……」
菜香ちんの席に座って机に突っ伏している、学ランの背中が、目に入った。
一瞬、どうしようか迷った後。
抜き足差し足で、一番後ろの自分の席に近づいて。
音がしないように少しずつ、静かにカバンを机の横のフックから外して取って。
そうっと、教室を出た。
お別れの会では、当たり障りのない別れの挨拶を短く言っていただけの、美矢。
静かに菜香ちんの机にうつ伏せて。
泣いている風には思えなかった、けれど。
背中が心なしか小刻みに震えているように見えたのは……教室が寒いせい、だったんだろうか。
§
冬休み初日の祝日。
本社の巫女さんが氏神様に来て下さって、朝から巫女舞の猛特訓を受けた。
本番用のものではないけれど、白い小袖と緋色の長袴を着けて、いつも使う扇子よりも重くて大きい檜扇を持ち、領巾に見立てた二枚の長いジョーゼットの布を肩に掛ける。
限りなく本番に近い恰好で、本番と同じように拝殿で舞い、足の位置決めから扇を上げる高さから目線の高さまで、事細かく指示が出された。
凪子叔母さんは『ゆんちゃんなら大丈夫よ!』って言ったけれど……やっぱり厳しい。ダメ出しも半端じゃない。
それでも
「弓佳さん、小さい頃から頑張っただけあって、とても上手に舞えるようになりましたね。これなら本番も大丈夫ですよ」
と最後に仰って頂けた時は、それまでの疲れを忘れる位、嬉しくなった。
折角本番に近いスタイルだから、と、特に頼み込んで、拝殿の階段を降りる練習も特別にさせてもらった。
ひとりで降りているいつもの自主練習とは違って、神主様や本社の巫女さん、叔母さん達と、数人が見守る中での足運びはものすごく緊張した。
「長袴を履いていて、足下を見ないでよく真っ直ぐ降りられるわね!」
と……これまた本社の巫女さんがひどく感心した風に仰って下さり、他の人達も手放しで褒めて下さったので、こっそり頑張った甲斐があった、と内心ほくそ笑んだ。
ヅカのトップスターになり切って降りてまぁす、とは……さすがに言えなかったけれど。
夕方。
へとへとになりながら、境内から下に続く階段を降りていくと、家の門の前に立っている人影が目に入った。
……菜香ちんだ、と認識した途端
「ゆんちゃん!」
向こうもわたしを認めてか、大きく手を振ってくれた。
「菜香ちん!」
走って行きたい所なんだけれど……駄目だ、膝が大笑いしていて無理。
人を待たせておきながら、と、自分でももどかしくなる位にゆっくり階段を降りていると、彼女の方からこちらに走って来てくれた。
「ごめん、今ちょっと走れなくて……」
「大丈夫?」
「大丈夫……じゃないな、今日は朝からずっと巫女舞のお稽古だったから」
「え!朝から今までずっとやってたの!」
菜香ちんが目を丸くする。
「うん、今日はここの神社の本社から、巫女舞を教えてくれる巫女さんが来て下さってね。本番直前の最後のチェックだったから、もう厳しいなんてもんじゃなかったわ。ダメ出しされまくりで凹んだ凹んだ」
おどけて言ってみたつもりが……自分の声にいつもの張りがないと、自分でもよく判った。
と、菜香ちんがぺこりと頭を下げて。
「……ごめんね、ゆんちゃん」
「え?何で謝るの?」
突然の謝罪の意味が解らず、わたしは首を傾げた。
「今だから言うけど。ずっと前に、ゆんちゃんはタロー君の元服式で巫女さんになれていいなって……ヤキモチ焼いたの、わたし。あさはかだよね。巫女さんってこんなに大変な事だって知らなくて」
本当にごめんね、と、重ねて謝られて、わたしはすっかり慌ててしまった。
「やだそんなの!謝らないでよ。カレシの正念場に関わりたいって思うの、カノジョだったら当然の事じゃない!」
言いながら、ふと菜香ちんの口許に目が行ってしまい……。
あああ~!こんな時に思い出さないで!わたしの馬鹿ぁ~!
内心であたふたしているわたしに、幸い菜香ちんは気付かなかった、らしい。
「これ、持ってきたの。明日会えるか分からないから」
差し出されたのは、二通の厚い封筒。花柄のと、無地の深い緑色のと。
花柄の方には表書きに『Dear Yunchan.』と書いてある。
もう一通は何も書いていない。でも……誰宛てかは聞かなくても判った。
「今日渡した方がいい?」
返事の欲しい手紙なら今日渡した方がいいだろうと思って聞くと、菜香ちんは首を横に振った。
「ううん、明日でいいよ。本当は明日渡したかったものだから」
「わかった、明日まで預かっとく」
そう言いながら封筒を受け取る時、一瞬だけ触れた菜香ちんの手が冷たいのに気付いた。
「もしかしてずっとここで待っていてくれたの?寒かったでしょう?中に入ってくれたら良かったのに」
「あ、うん、さっきまで中で待たせてもらっていたの。さすがに遅いからおいとまさせてもらったんだけれど……これはどうしても、直接ゆんちゃんに渡したかったから」
……そうだよね。
わたし宛ての方はともかく、もう一通は絶対に、他の人に言伝るわけにはいかないもの。
「そうそう、さっきお母さんから聞いたよ。ゆんちゃん、四年生の頃から巫女さんの練習、してたって?」
「え?」
「普通は一年前位から始めるのに、どうしてもってせがまれたから仕方なく始めさせたって」
……お母さんてば、何で余計なこと話すのよ……。
他の人には絶対に言わないでって口止めしてたのに。
まあ、菜香ちんが私の親友だって事は知っているから、彼女にならいいと思ったのかな。
「そんなに……楽しみにしてたの?四年も前から?」
すごく不思議そうな顔で、菜香ちんが問うてくる。
わたしにヤキモチを焼く程『巫女さん』に憧れていた菜香ちんに、巫女さんになるのを楽しみにしていた、なんてあんまり言いたくはないんだけれど。
「……うん」
ここで嘘を言っても始まらないので、素直に頷く。
すると。
「……もしかしたら、その髪、巫女さんやるために、伸ばしたの?」
今まで誰にも言われた事がない、図星を彼女は突いてきた。
さすが菜香ちん、鋭いなあ。
四年前から楽しみにしていた、って言葉で、多分ピンときたんだろう。
頭のてっぺんで結わえても、腰まで届く程の長い髪。
ここまで伸ばすのに一体どれだけかかるのか、って、逆算して。
「……うん」
ちいさく頷いて
「たった数分踊るだけの事にここまでやるなんて、さすがに馬鹿だよねえ。やり過ぎかしらって今更だけど思うわ」
笑いながらすかさずそう言う、と。
「ううん、違うでしょ」
夕闇の中、それでもはっきりと判る、ひどく生真面目な表情で菜香ちんは首を横に振って。
「それって、それだけゆんちゃんにとっては特別な、大切なことだったから、でしょう?」
問いかけるようなその言葉に
「――うん」
わたしも、真面目な顔で、強く頷いていた。
……ふっと、彼女の表情がゆるんだ。
「明日、さすがに来るの無理?」
「お昼過ぎのフェリーで出るんだよね?その時間だけわたし、何とか都合をつけて行くから」
そう返した後、視線を少し落として。
「でも、よっちゃんは……無理かも」
今日もだったけど、美矢は多分明日も一日中、元服式までの段取りやら当日の打ち合わせやらで拘束されるだろう。
「わかってる。だから手紙、今日持ってきたの」
わたしの言葉に、菜香ちんはからりとした調子でそう返してきた。
「ゆんちゃんも、無理かもしれないけど……出来たら明日、来てね?」
「わかった」
じゃあね、と、手を振って。
菜香ちんはわたしに背を向けて、歩き出した。
「明日!十分だけでも、五分でも絶対行くから、待ってて!」
夕闇に溶けていく背中に向かって、わたしは思わず、叫んでいた。
身体もアタマもこれ以上ないって位、疲れ果てていたけれど。
どうしても今日読まなくちゃ、と、寝る前に菜香ちんの手紙を開いた。
昨日の事のお礼と、皆の手紙を昨日全部読んで嬉しくて泣いた事と、ポインセチアは皆の気持ちだと思って大事に育てる、という事が書かれていて。
出来たら明日、もう一度会いたいという言葉の後に
『p.s.おとといの夕方もしかして、神社にいた?』
読んだ瞬間、胸がどきり、と大きな音をたてた。
……逃げる後ろ姿を見られたんだろうか。
どうしよう。でも。
少し迷った後、便箋を出して、わたしはペンを取った。
『Dear Nakachin.
今日は会いに来てくれて嬉しかった。
菜香ちんも引っ越しの準備で忙しいのにごめんね』
そんな書き出しで始めて。
今日の巫女舞の練習のすごさとか、ダメ出しへの愚痴とか、でも最後に褒めてもらえて嬉しかったとか、他愛もない事をいつものようにつらつらと並べた後に
『今日、菜香ちんと話せて良かった。
菜香ちんはわたしの親友だって、改めて思った。
どれだけ言葉を並べても感謝の気持ちが伝えきれないよ。
だからひとことだけね』
有難う、と。
本当にひとことだけ、感謝の言葉を記して。
『ケータイ許可が出たら、絶対メルアド交換してメールしようね!』
と書いて。
結びの言葉の後に、追伸で
『p.s. ポインセチア、お揃いだよ。
向こうにはクリスマスプレゼントに贈るつ・も・り』
最後をハートマークで結んで。
『So long!』
文末のお決まりの単語の代わりに、そう記した。
これでさよならじゃない、『またね!』って位のつもりで。
一昨日神社にいたかどうかの問いに対する答えは、敢えて書かなかった。
§
次の日。
十一時半に前倒しのお昼休憩を兼ねてお稽古を中断してもらい、わたしは港へ急いだ。
途中、ダメ元のつもりで本家に寄ったら、美矢は今日は堀之内の家で打ち合わせがあってそっちに行っているとの事だった。
港に行くのは無理でも何か言伝があれば、と思ったんだけれど、さすがに堀之内まで行っていたらフェリーの時間に間に合わない。
諦めて、筋肉痛の両足をギリギリまで酷使して自転車を飛ばし、港に着いたのは十一時四十五分。
フェリーの船影が既に、港湾口のはるか向こうに見えていた。
「菜香ちん!」
車に乗らずに待っていてくれた菜香ちんを見つけて、自転車を置いて、走り寄る。
「ゆんちゃん!間に合わないかと思ってた!」
「間に合わせるに決まってるじゃない!はいこれ!」
はあはあ息を切らせながら、昨夜書いた手紙を渡して。
「ごめん、本家寄ったけどよっちゃん留守だった」
「いいの。忙しいのわかってたから手紙書いたんだし」
ちょっと、淋し気に笑った菜香ちんは
「ゆんちゃんが来てくれただけでも嬉しい、本当に有難う」
わたしの手を取って、薄く涙ぐんだ。
思わず泣きそうになるのを堪えて。
「クラスの皆は?」
「うん、家の方に来てくれたからそこでいいにしてもらった。ここで皆に見送られたら……」
辛すぎる、と。
ちいさく呟いた彼女の目から、とうとう大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
わたしは思わず、菜香ちんをぎゅっと抱きしめた。
涙で曇った目に、港湾口を入って来るフェリーがぼやけて映る。
「……わたしじゃ全然代わりにならないけど」
誰の、とは言わなかったけれど、彼女はすぐに察したらしい。
「……やっぱり、いた、んだ?」
涙声で、耳元でこそっと呟くのに
「巫女舞の練習で……」
こそっと返す。
「あのね、かさって音がしたから見たら、拝殿の陰に一瞬だけ、長い三つ編みが見えたの」
ちいさな笑いに、思わずつられてわたしもくすっと笑う。
「この髪じゃ、悪い事出来ないね」
「かなり目立つもんね」
そっと、身体を離して、腕で涙を拭って。
「……誰にも言わないから」
そう言うと、菜香ちんはうん、と頷いた。
「気付いたの、菜香ちんだけ?」
念の為に聞くと、また頷く。
その背後で、フェリーが接岸している。
「菜香!」
動き出した車から、お父さんが呼んでいる。
「じゃあ、行くから、わたし」
「元気でね。よいお年を」
「ゆんちゃんも、よいお年を」
そう言って、くるりと背を向けて。
菜香ちんは乗船が始まっているフェリーに向かって歩き出した。
もっと何か言おうと思ったけれど……言葉にならない。
菜香ちんの背中も、フェリーの輪郭も、歪んで見える。
「……っく……!」
大好きな親友の事だから。ちゃんと見送りたいから。
溢れる涙を必死で拭って、フェリーに吸い込まれるように消えていく菜香ちんの背中が見えなくなるまで、見届けた。
ついに一度も振り向かなかった彼女は……わたしと同じように、腕でしきりに顔を拭っていた。
お昼から夕方までぶっ通しのお稽古が終わった後、ふらふらになりながら家に帰って。
今座ったらもう立てないと、立ったまま机の上にひと鉢残っていたポインセチアをラッピングした。
手近にあったメモに
『お揃いの鉢です』
とひと言書いて畳んで、昨日預かった菜香ちんの手紙と一緒に、鉢の中に挟む。
「本家行って来ます」
台所にいるお母さんに言うと、お夕飯は?と聞かれたので
「すぐ帰るから」
と返事して、わたしは家を出た。
多分まだ帰っていないだろう、と読んだ通り、美矢は不在だった。
絹子伯母さんに
「これ、よっちゃんが寝てから枕元に置いて欲しいんだけどいい?クリスマスプレゼントなんだけれど」
びっくりさせたいから内緒でね、と頼むと
「まあ!枕元にプレゼントなんていつ以来かしら?流石にもうサンタからなんて言っても信じないでしょうけど……びっくりするわよねきっと」
伯母さんはうふふ、と笑いながら、鉢を預かってくれた。
夕飯を食べて行けば、と誘われたけれど、すぐ帰るって言って出てきたからと断って、わたしは来た道を引き返した。
……今はちょっと、美矢の顔をまともに見られない。
三日前、遠目に見た、わたしの知らないオトコの横顔。
一昨日、偶然見てしまった、震えていたうつ伏せの背中。
そういうのと、今日の菜香ちんとの別れとがごちゃ混ぜになって。
今、美矢に会ったらきっと、何を話したらいいのかわからなくて黙りこくってしまいそう。
そういう所をわたしが見たって、美矢は知らないから、絶対変に思われる。
だから今は、会いたくない。
何となく持て余している、わけのわからないこの気持ちが落ち着くまで、会わない方がいい。
今日会わなければ、元服式までは絶対に会うことはないから。
元服式までには、ちゃんといつものわたしに戻れると思うから。
だから……。
§
家に帰ったら、ちょっとした騒動になっていた。
今日の打ち合わせで、お父さんと美道が元服式までの一週間、本家に泊めてもらってはという話になったらしくて。
「俺やだよぉ!冬休みの宿題とかあるのに一週間も他所に泊まるなんて!」
美道が泣きそうな顔でごね、お父さんが本家のおじいちゃんの指示を仰いで来ると言って出掛けていった。
……わたしのせい、なんだよね。
元服式前の巫女さんの潔斎というのが、しきたり上、かなり厳しいものらしくて。
本来は十日前から、注連縄を張り巡らした自室に籠って、トイレとか風呂以外は一切そこから出ず、特に男の人には家族でも一切近づいてはいけないんだそうな。
凪子叔母さんの時はそうだったらしいんだけれど、今時そんな理由で学校を休むのもおかしいし、そこまでしなくてもいいだろう、って事で。
話し合いの結果、潔斎は二十五日から一週間、その間ウチには男の人は一切出入り禁止で、わたしも外出禁止、の三点が決まった。
来る方はそれでいいとして、問題は住んでいる男ふたり。
男子禁制を徹底させるなら、家を出てもらうしかないんだけれど、さすがに一週間も他所で寝泊まりするなんてきつすぎる。
何だかなあ……わたしが悪いわけじゃないんだけれど、何となくお父さんにも美道にも申し訳なくて。
しばらくして帰って来たお父さんが、おじいちゃんがそこまでしなくてもいいだろうって言ってた、と話してくれて、わたしも美道もほっとした。
そして翌朝から、潔斎は始まった。
朝起きてから、ぬるま湯をかぶって身を清める。
朝食はお粥と漬物。昼食と夕食は普通のご飯だけど、一汁一菜と言って味噌汁とおかず一品だけ。
魚とか肉は一切アウト。お茶やコーヒーなどの嗜好品も駄目。飲めるのは水かお白湯。
食事は別火と言って、家族が食べるものとは全部別の火で作るんだそうだ。お母さんの手間がものすごい事になるけれど、わたしが手伝うのは駄目なんだって。
昼間は主に巫女舞の練習。午後から凪子叔母さんが来て、お稽古を見てくれた。
夕方もぬるま湯をかぶる。
潔斎というのはもともと『禊』の事で、朝夕に水か湯で身体を清める事だけを指すんだとか。外出しないとか、別火とかを含めた全ての慎みの事を、本来は斎戒と言うらしい。
本社の巫女さんがそう教えてくれた。
宮江ではそういうの全部をひっくるめて潔斎って言っているんだけれど、本当は間違いなんだと。
『斎姫』が何時の間にか『巫女さん』って呼び方になったのと同じように、斎戒の内容がだんだん簡略化されていくのに従って、一番のメインである潔斎の名前で呼ばれるようになっちゃったのかな?
夕飯を自分の部屋で食べた後、食後のお白湯を飲んでいたら、コツン、とドアを叩く音がした。
「姉ちゃん、いい?」
「いいよ」
ドアが半分程開いて、外から美道がにゅっと顔を覗かせた。
「もうちょっと中、入れば?」
って言ったんだけど、美道はここでいい、と遠慮して。
「さっき外でよっちゃんに会ったんだけど」
「うん」
「姉ちゃんに伝えてくれって。『サンタサンクス』って」
思わず、飲んでいたお白湯を噴きそうになって、慌てて口許を押さえた。
「よっちゃんはそれで解ると思うって言ってたけど……姉ちゃん解る?」
入口に佇んだまま首を傾げている美道に
「うん。もしよっちゃんに会う事があったら、どういたしましてって言っといて」
わたしは笑いを堪えながら頷いてみせた。
美道は目を丸くして、そして。
「……何かさあ、弟の俺よりもよっちゃんの方が、よっぽど姉ちゃんと近い感じだよな」
ぼそりと、そう言った。
「何よそれ?」
「いやだって、短い言葉でも以心伝心、っていうか。俺、今みたいなやり取りさっぱりわかんないけど、姉ちゃんとよっちゃんってすぐピンと来るみたいだし」
すごいよな、と感心しているのか呆れているのかよくわからない口調で呟いて。
「よっちゃんに会う事あったら、伝えとくから」
そう言って、美道はドアを閉めて廊下の向こうに消えた。
以心伝心、か。
……本当にそうなのかな。
美矢の事、何でも知っているつもりでいた、けれど。
美矢はここ数日だけで、わたしが今まで見た事がない美矢を、いくつか見せてくれた。
多分そんなのはほんの一部で、もっともっと、わたしの知らない顔を美矢は持っているんだろう。
もしかしたらわたし、美矢の事、実はなんにも解っていなかったのかもしれない。
元服式まで、今日を入れて、あと七日。
将来の総領の無事を祈る巫女として、美矢の前で舞うまで、七日間。
身を清めて心を正しながら……ゆっくり見つめ直してみよう、美矢の事。
わたしにとって美矢が何なのか。
美矢にとってわたしが何なのか。
ちゃんと考えて、静かな気持ちで……七日後に美矢の前に、立とう。
美矢を護る『斎姫』として――。