9.
「……場所、変えようか」
冬也にうながされるまま、近所の公園へと、足を踏みいれる。
真っ昼間から、男子高校生が連れだって訪れるような場所ではないのだけど、誰も気にしたそぶりはない。
遊びまわる、小さな子どもたちと、それを見つめる保護者。すぐ目の前にあるのに、そんな、あたりまえの光景が、遠い世界のもののようだ。
空いているベンチに二人で腰を下ろしてから、しばらく、無言が続いた。
「灰李」
ぼんやりと、ジャングルジムを登る少年たちを眺めていた冬也が、呟いた。
「俺たちにもあんなころ、あったっけ」
「まあ。結構、むちゃな遊び方してたけどな。で、夏生が追いかけてきて、真似しようとして、怒られて……だっけ。馬鹿してたよな」
「ははっ、違いない」
無邪気に笑う冬也に、他意は感じられない。ただ、純粋に、昔を懐かしんで、そして、焦がれているような、瞳だった。
「なあ、冬也」
子どものような笑みを消して、冬也が目を伏せた。なかなか本音を表に出さないにしては、珍しく影のある表情だった。
そのことにすこし怯みながら、本題を切りだす。
「お前、……本気で、世界を変えようなんて思ってるのか?」
「夏生から聞いたのか……最初はね、本気でそう思ってたよ。くだらないけどさ、こう、万能感みたいなの、あるだろ?」
冬也が、昔のイタズラを蒸しかえされたときのような、苦い笑みを浮かべた。
「今の俺は、ただ、この試合を終わらせたいだけなんだ。夏生を見てられない。助けてやりたいけど、俺にはもう、どうしてやりようもないから。だから、せめて、早く解放してやりたい」
袖に覆われた左手首を、何度もなぞりながら、冬也は続ける。そこには、鎖のようにぐるりと取り巻く、真白い茨があるはずだった。
「夏生には気をつけた方がいい。あいつはもう、半分壊れてる」
「壊れてる?」
「言葉がね、届かないんだ。そりゃ、まともなときもあるんだけど、それ以上におかしい。『黒』であることに引っ張られて、どんどん狂っていく。ときどき、我にかえって、また追いつめられる。無限ループだ。今の夏生がなにをしたって、俺は驚かないよ」
また、すこしの間、無言が続く。なにを言っていいのか、わからなかった。言葉に迷って、ぐっと、組んだ手に力がこもる。
「俺は俺なりのやり方で戦う。それで夏生が苦しむとしても、俺にできることは、それだけだから」
毅然と言いのこして、冬也は立ちあがった。
「冬也……」
そこには、固い決意があった。絶対に譲れないという覚悟が、痛いほどに伝わってくる。
試合が続く限り、プレイヤーは走りつづけなければならない。どれだけ苦しくとも、立ちどまることは許されないのだから。
――俺には、なにができるだろう。今も、互いに傷つき合う兄妹のために、なにをしてやれる? たとえば俺が、冬也に協力すれば、この試合は終わるのだろうか。
でも、それじゃ、夏生は。
「悪い、冬也。俺は、やっぱり賛成できない。それじゃ、あまりにも夏生が救われなさすぎる」
「わかってる。強制はしない。でも、もう、時間がないんだ。……またな、灰李。隙があれば、俺はお前を染めるよ」
遠ざかる背中に、ひとつ、聞きそびれたことを思いだした。
「冬也! お前は、なにを望んだんだ」
「――変化を。全部、変えてやりたかった。でも、今は、どうでもいいよ」
*****
気づけば、陽が落ちていた。家族連れの姿はずいぶん前に消えてしまって、住宅街の中心に位置する公園には、ただ木の葉の擦れる音が響くのみ。
冬也が立ち去ったときと、まるで同じ体勢のまま、俺は錆びついたベンチにとらわれていた。
いろんなことが一気に起こりすぎていて、とても理解が追いつかない。
袖をまくり、なにもない手首に爪を立てる。とっくに勝敗のついたゲームを遊ばされているような不快感を、ごまかす。
なにを、信じればいい。
あれはだめだ、これはだめだ。浮かびあがるのは否定ばかりで、すこしも解決には近づかない。これじゃ、まるで手詰まりだ。
「諦めてたまるかよ」
こぼれ落ちる言葉は、紙のように軽い。冬也や夏生がみせた覚悟の重さには、到底およばない。――それでも、あがきたい。
重苦しいため息を吐きだして、空を仰いだ。ベンチの背もたれに全体重を投げかけて、持ちあげた両腕で顔を覆った。
きっと、ひどく情けない顔をしている。
――考えろ。
グレイは言った。『灰』の担当なのだと。『白のやつ』がどうこう言ってたし、代理人とやらは三人いるとみていいんだろうか。
『白』『黒』『灰』――どう考えたって、最後が余分だろう。灰の役まわりってなんだ。
そもそも、勝敗条件からして不合理じゃないか? 戦況は常に移りかわるのに、グレイゾーンを抑えれば、勝敗は決したも同然らしい。
「試合を終わらせるためには、グレイゾーンが必要、か……」
思いだせ。冬也は、夏生は、グレイゾーンについてどう言っていた?
――染めるか、取りこむか、あるいは……
あるいは。
歯を食いしばったタイミングと同時に、しゃがれた鳴き声をあげて、カラスが一羽、飛び去っていった。
*****
翌朝、迷いながらも、俺の足は学校の校門をくぐっていた。
鞄は学校に置いたままだし、一応制服は着てきたけど、両手は空いている。教科書、ノート、部活の用意。すれ違う生徒は大概、なにかしら大きな荷物を抱えていて、手ぶらの俺だけがどこか浮いていた。
……冬也は、来ていないだろうな。
それでも念のため、教室に顔を出して、そのまま駅へ向かうつもりだった。それからどこへ行くかは、決めていない。ただ、じっとしていられなかった。
さっさと済ませてしまおうと、おざなりに下駄箱へ靴をつっこんだ。その腕が、不意に捕まえられる。細く、小さな手だった。
制服に包まれた腕をたどって、振り向く。おそらく驚愕を丸出しにしたまま、俺は、その犯人を見つめた。
「妹尾、さん?」
クラスメイトの少女が、呆然とつぶやいた俺へ、静かなまなざしを投げ返す。
間違いなく、俺の顔を正面から直視して、彼女は口を開いた。
「渡部くん、なにかあったね」
ほとんど断定のような形で言いきられて、なにも言えずに息をのむ。
「ずっと、言うべきか迷ってたけど、――九条くんのことでしょう」
ますます混乱して、表情を取り繕う余裕なんて、もうどこにもなくなった。
「な、え? 冬也のこと、知って……?」
待てよ、おい、どういうことだ、これ。接触しなければ、知覚されないんじゃなかったのか? だって夏生は、たしかにそう言って――いや、違う。
夏生は、『プレイヤーは知覚されない』と言ったんだ。だから、冬也は見つからなくて。でも、俺は知覚されないとは限らない……のか?
引っかかる。聞いたときにはなにも思わなかったけど、いまさら違和感が胸をざわめかせた。