8.
「だけど、夏生が試合に勝てば、冬也が犠牲になる、か」
「それも、あるけど……私は、冬也を勝たせたくないだけ。『黒』を勝たせたくなんか、ないんだ」
「どういうこと? 夏生は、『黒』なんだろう?」
「だって、冬也を止めるためには、『黒』じゃなきゃいけなかったんだもん! だから、私は」
夏生が、ふっと顔を背ける。身体の横で、拳が作られていた。爪が食い込みそうな勢いで、固く、握りしめられる。
嫌な予感に、どくり、と心臓が跳ねた。……おい、待てよ。
プレイヤーは、扇動する。自らの理想に沿った世界を実現するために、民衆を誘導する。だけどそれなら、『理想を阻む』ことを目的にした夏生はどうなる? 彼女に許された、戦い方は。
「あのね、灰李。冬也が『正しく』傾けた分だけ、私は、人を、騙して、陥れて、『正し過ぎない』ように戻してるの……それが、『黒』の戦い方だから」
夏生の言うことを信じるなよ――そいつは『黒』だ――。いつになく厳しい態度で吐きすてた、冬也の声がよみがえる。
低くうなるように告げられた、あの一言にこめられた本当の意味を、知った気がした。
「何度も、何度も、夢に見るんだ。誰も知らない昨日、ありふれた幸せの中にいた人が、今日も続くはずだった道を踏みはずして、まっさかさまに落ちていく。罠を張りめぐらせて、私が、落とした。勝ち過ぎないように、でも負けないように、それだけのために、次々に落としていくの」
泣いては、いなかった。声を震わせ、手を震わせ、それでも夏生は、微笑んでいた。だからこそ一層、その姿は痛々しい。
言葉をかけることもできずに、ただ、無力さをかみしめる。なにもできやしない。結局、俺は、――救えない。
「やめたいよ……でも、やめられない。勝ちたくないのに、負けられない。ねえ、灰李……どうすれば、よかったんだろう。どうしたら、いいんだろう。もう――もう、私、どうしようも、ないよね」
*****
悲壮な微笑みを、モノクロの霧が覆い隠した。
かすれてよじれる住宅街、その中に、夏生のシルエットだけが浮かびあがって――次の瞬間、こつぜんとかき消えた。
入れかわるように、いつかと同じ古ぼけた洋館の風景が広がる。
「夏生!?」
「おやおや、抜けられては困るんですよ」
くせの強い、軽薄さをにじませた男の声だ。ぞくり、と肌が粟立つ。
心当たりはない。だけど、俺は、……この声を知っている。
湧きあがる生理的な嫌悪感を抑えて、声のした方向を振りむく。
とりたてた特徴のない、若い男だった。顔よりもまず、その服装に目がいく。眼の覚めるような真紅のジャケットに、同色のスラックス。退色した洋館を背景に、奇抜なビビットカラーのスーツが、不自然に浮いている。
男の手もとでは、灰色の能面が異様な存在感を放っていた。
「お前……。『蒼氓の天秤』、か?」
「いいえ、私は代理人。とるにたらない存在です。あなたはご存知だと思われますが――まあ、いいでしょう」
男は、優雅に腰を折った。
「お帰りなさいませ。渡部灰李サマ」
慇懃に告げながら、にやり、と口の端を持ちあげる男を、憎しみをこめて睨みつける。
声を聞いた瞬間からずっと、この男のすべてが、神経を逆なでする。存在そのものが許せない、とまで感じた。
「おや、気分を害されたようだ」
「……二週間前、俺に声をかけたのは、お前か?」
「違いますね。まあ、たぶん『白』のやつでしょう。プレイヤーが決まった時期と同じですので」
ひょい、とおどけた仕草で両手を挙げて、男は続ける。
「いや、担当制なんですよ、我々も。それにしても私は運がいい。いままで、『灰』の担当だなんて退屈でやってられませんでしたけどね、今回はとっておきです」
「なんだって?」
「あなたですよ、灰李サマ。いかがですか? 『天秤の遊戯』は」
終始にこやかに語る男の声には、隠そうとさえしない愉悦がにじんでいる。
夏生や冬也が必死であがいている試合なんて、こいつらにとっては、ただの遊戯なのか。ああ、くそ、いらだたしい。
「はっ……ふざけるなよ。勝者の望みを叶える? ただ、追いつめられて、疲弊して、苦しむだけじゃないか。めちゃくちゃだ、こんな試合」
「はて? ゲームは望みなくして成り立ちません。両者の理想が対立して初めて、プレイヤーはプレイヤーたるのです。そして、その実現のために『天秤』を揺らす……筋は通っているように思われますが」
「だけど、夏生は!」
冬也には、あてはまるのかもしれない。でも、夏生の理想は、『黒』と重ならなかった。だから、苦しんで、悩んで……。
どちらが勝ってもだめだなんて、あんな不毛な試合、最初から成立していやしない。していいはずが、ない。
「九条夏生は、不変を望み、九条冬也は、変化を望んだ――やや特異なケースではありますが、両者の望みは対を成しました。ゆえに、ゲームは成立する。それだけのことですよ、灰李サマ」
表面だけ慈愛でコーティングしたような口ぶりだった。優しく諭すように騙り、その実、ほんの少し削れば下衆な本性がむき出しになるような。
――殺してやりたい。
かみしめた奥歯が、ぎり、と鳴った。その音に、我にかえる。
「さあ、どうされます? 九条夏生はそろそろ限界ですよ。このまま彼女が潰れれば、『黒』は『白』に侵食され――ゲーム・オーヴァー! でも、それじゃつまらない。そうですよね? 灰李サマ。あなたには資格がある……『天秤』が御自らお与えになったのだから。そう、あなたは、このゲームを変えられる」
「――黙れ!」
腹の底から叫んでも、この空間は音を響かせない。
「俺は、望まない。お前なんかの口車に載せられてたまるか」
嫌悪感むき出しに吐きすてる。沸きあがる怒りの行き場は、目の前の男しかない。……いくらぶつけても、足りない。
男は器用に片眉を上げて、それから腹を抱えて笑いだした。
「ええ、そうでしょうとも。申し遅れましたが、私、『グレイ』と申します。まあ、気が変わりましたらお呼びください。どんな状況でも、またたく間にはせ参じてみせましょう」
廃れたモノクロの洋室が、崩壊を始める。
「あなたは戻って来ますよ、灰李サマ。……必ずね」
*****
太陽の昇りきった昼過ぎの三叉路で、一人たたずむ。夏生の姿は、どこにもない。
「夏生は、どこに……?」
胸が騒いで仕方がない。このままじゃだめだ。警鐘が鳴りやまない。恐れたエンディングは、もうすぐそこに迫っている、と。
でも、どう動けばいい? 『グレイゾーン』の立ち位置が、掴みきれない。俺からプレイヤーに接触できるのか? そもそも、……それで、なにが変わるっていうんだ。
握りこんだ手のひらに、食いこむ爪の痛み。試合を終わらせたい。冬也の勝利でも、夏生の勝利でもない、別の形で。
あの男は、俺にはその資格があると言っていた。……だけど。
「灰李! やっと、見つけた」
「冬、也」
近づいてくる親友の姿に、腰が引ける。今の冬也は、正直、なにを考えているのかわからない。
あんな別れ方をした後だから、余計に気まずい。
警戒心をあらわにして身構える俺に、冬也は困ったように眉を下げた。
「信用してとは言わないから、頼む。せめて、話を聞いてくれないか? こんな試合を始めてしまった、俺が、悪いんだ」
苦虫をかみ潰したような冬也の表情に、腹をくくった。
「俺も、話がある」
プレイヤーをとめない限り、なにも始まらない。交渉の余地なんて、ないのかもしれない。それでも、俺は、冬也をとめたい。