7.
闇雲に走ってたどり着いたのは、結局いつもの三叉路だった。先日、ようやく取りかえられた蛍光灯は、まだ浅い眠りについている。
荒い息を整えて、夏生の様子をうかがう。両目を手でこする仕草に、どきり、と胸が跳ねた。
「……悪い、怖かった?」
「ううん。ただ、……あれ、なんでだろう……びっくりした、はずなのに。なんで、こんなに、懐かしいって、思っちゃうのかな」
言いながら、夏生はとうとう両手で顔を覆って、しゃくりあげる。指の間からこぼれた雫が、白い肌を伝って流れおちる。
「ごめん、灰李……ごめん……!」
「なにを謝ってんの」
「わかんない……けど、でも、ごめん」
「馬鹿」
泣きながら謝りつづける夏生を抱きよせて、ためらいながら頭をなでる。癖のない黒髪は指どおりが良くて、癖になりそうだな、と思った。スタイルの良い夏生との身長差はほとんどないから、格好はつかないけど。
負けん気が強くて意地っ張りな夏生は、滅多に泣かない。人懐っこいくせに、変なところで甘え下手だ。だから、なんでも限界まで抱えこむ。冬也の過保護さだって、そのあたりに起因していたんだろう。
「なんで相談しないの」
「だって、……灰李、逃げた、から」
「あー……、それは」
「灰李はいつも、冬也を優先する……絶対、私より、冬也を信じるって、思ってた……」
そうだ。妙な空間に引きこまれたあの日、俺は、逃げた。普段と違う夏生の様子が、ただ、怖くて。どうしてあそこまでの拒否反応を示してしまったのか、わからないけど。
あれが、この不器用な幼馴染の、精一杯のSOSだったのだろう。それは、きっと、見逃してしまった、分岐点のひとつだった。
「ごめん。俺、どっちが上とか、考えたこともないっていうか。夏生も冬也も、俺にとっては家族みたいなもんだし……ああ、これじゃただの言い訳だ。……ごめん。ただ、今回に限っては、冬也のこと、信じられそうにないんだ」
「……うん。えへへ、私、……馬鹿だね」
泣きながら、器用に笑った夏生は、はっとするほどに綺麗だった。思わず顔に熱が上って、慌てて距離をとる。家族って言った傍から、ちょっとそれは無いだろう、俺。
深く息を吸って、心拍数を抑える。
「冬也、ずっとあんな感じなのか?」
「試合が始まってからは、そう」
「それ、いつから?」
「だいたい二週間前」
夏生の言葉に、最後に冬也にあった日のことを思いだす。
遅れて学校にやってきた、親友。思えば、あの時、俺以外にそれを追求した人間がいたか? 品行方正とまでは言わないけど、無遅刻無欠席が当たり前だった冬也が、一限をほぼ丸々サボったにも関わらず。
『始マリを宣言サセテ頂きマス』――能面が告げたのは、その前日のことだ。あのときから試合は始まっていた?
「そんなに、前から……。なんで、冬也は」
勝っても負けてもだめ、と夏生は言った。そして冬也は、どちらかが勝たなければならない、と言っていた。
どちらも本当だとしたら、どうして、冬也は勝ちたがっていて、夏生はそれを妨げようとするんだ。
「私が、勝つと、――冬也は、この試合に閉じこめられる」
静かな夏生の声が、思考に割って入る。
「終わらないの。接触した人以外は誰にも気づかれない。そういう状態から、抜けだせなくしてしまう」
「それは、夏生の『望み』のせい? 冬也は知ってるの?」
「うん。たぶん、知ってる。だけど、冬也が許せないのは、そのことじゃなくて、――『黒』が勝つ状況、そのものなんだと思う」
肯定しながら、夏生は右手で制服の袖をまくった。
細い手首に、ぐるりと一周、鎖のような幾何学的な模様が浮かびあがっている。見ようによっては茨のようにも見える、刺々しい模様だ。
「タトゥ? それ、な、――動いた!?」
黒い茨が、手首の上でカゲロウのようにゆらゆらとうごめく。
「これは、プレイヤーの証。『蒼氓の天秤』との『契約痕』なんだって。冬也にも、白い模様があるはずだよ」
「それは、『白』のプレイヤー、だから?」
こくり、と夏生は間をあけずに頷いた。
「やっぱり、単なる色の違いじゃないんだな。『白』と『黒』――王道的に言うなら、『正義』と『悪』って感じ?」
「まさか。そんな、すごいものじゃないよ。冬也は、今を変えたがった。私は、今のままが良かった。それだけだった」
夏生の、黒曜石のようなまなざしが、まっすぐに俺へ向けられる。固い意志を感じさせる瞳が、赤みを帯びた目元を霞ませるほどの強さで、さん然と輝いている。
「灰李。私は、冬也を止めるために『黒』になったの」
夏生の声に、熱がこもる。
「冬也を勝たせちゃいけない。綺麗すぎる水に魚は住めない。この世界は、薄汚れてなくちゃだめなんだよ。だけど、冬也は、それがわかってない」
*****
ごくり、と喉がなった。唾を飲みくだした口を開いても、形にする言葉が見つからない。乾燥した口内が、気色悪い。
冗談だろう。冬也は、本気で変えようとしているのか? ……世界を?
「まさか、そんなの……できるわけがない」
やっとのことで、それだけを口にした俺に、夏生は悲しげに眉尻を下げた。
「できるよ。この試合で、プレイヤーの役割は、『選択を強制する』ものだから」
岐路に立つ人間に選択を迫って、誘導する。それをくり返すことで、『天秤』を傾けていくのだと、夏生は言う。
「一つ一つは、ささいな変化……だけど、積み重ねれば、それは一つの流れになる。流れにできてしまう。だって、この試合には、それを助長する基盤が用意されてる」
きっぱりと言いきった夏生に、先ほどの説明を思いだした。
「グレイゾーン、フィールド……嘘だろ、まさか本気で、『世界を染めかえる』っていうのか?」
一部を変えれば、全体に影響がおよぶシステム。思えばそれは、やりようによっては民意を操れるような、とんでもない制度だ。
プレイヤーは、理想を掲げて試合に参加し、影の扇動者になる。だったら、『どちらでもない』グレイゾーンが持つ意味は――。
夏生は、ゆっくりと頷いた。真っ黒な瞳に浮かぶ固い意志に、吸いこまれそうになった。
「きっと、間違ってるわけじゃ、ないんだ。冬也がやろうとしてること、正しいんだと思う。誰も自覚しないうちに、少しずつ社会は綺麗に整えられていって、完全な秩序が生まれるかもしれない。……でも、それじゃだめなんだよ。そんな選択を積み重ねても、いつか絶対に綻びる」
そういうの、なんて言うんだっけ。『動的不整合性』? ――全員が正しい選択をすることで、結果として全体に不利益が生じる矛盾だ。
すべてが上手くいくように采配を振るうなんて、そんなのできるのは、カミサマくらいのもので。それは、俺たちみたいなちっぽけな人間に、与えられていい権利じゃない。