5.
流されるまま足を踏みだした俺を、可憐な容姿に似合わない強引さで、華奢な背中がけん引していく。
ゆっくりとしたペースで、町並みが流れる。人通りが少ない、けれど見慣れた朝の景色。
「夏生」
制服のスカートを揺らして歩く少女の右手は、俺の手首を握ったまま離れない。
「夏生、待って」
急に立ちどまった俺につられて、夏生の足がとまる。けげんそうに振りかえった彼女が、口を開くより早く、俺は尋ねた。
「どこ行くの」
「どこって、言ったじゃん。ゲームセンター」
ほら、そこ。と言いながら、夏生は、空いた左手で道の先を示す。
じゃあ。夏生の指した方向になにがあるか確認もしないまま、続けて間をあけず、問う。
「鞄も持たずに、こんな時間に、どこに行ってたの」
朝の冷たい風が、頬をなでて吹きぬけた。
そうだ。俺だって人のことは言えないけど、夏生が、今、この時間にいるはずがない。
一度崩れ去った日常は、やっぱりもう日常たり得はしなくて、いびつに再現された現在は、やっぱりこんなにも脆い。
もう遅いんだ。空の手をどれだけ強く握りしめたところで、取りもどすどころか、なに一つ掴めやしない。
「灰季……?」
かりそめの『日常』。一体、なにがかりそめだったんだろう。それは、まるで胡蝶の夢。……こんなことまで考えるなんて、俺も大概どうかしてきてる。
「ねえ、夏生」
だめだ。頭は回らないし、とても遠まわしな鎌掛けなんて思い浮かびそうもない。
腹をくくって、直球を投げかけることに決めた。声の震えを、必死に隠す。
「冬也は、どこ」
すぅ――と表情の消えていく彼女の顔を、冷めたまなざしで見つめていた。
*****
桜色の唇をわななかせて、夏生は立ちつくしていた。もともと白い肌から血の気が引いて、艶やかな黒髪とのコントラストが、まるで良くできた日本人形のようだ。
「なんで……?」
「知ってるよね、夏生。……教えて。冬也は今、なにをしてるの? 夏生は、なにをしてたの? ――試合は、どうなったの?」
一つ一つ、重ねて問うたび、夏生は固く表情を強張らせていく。
「夏生」
「だっ、て、……嘘だ。灰李が、知るはず、ないのに……。どうして、冬也――私たちのこと、――」
「知るはずないって、どういうこと?」
厳しい口調で問いつめると、夏生は、唇をかんで黙りこんでしまった。絶対に口を割る気がないときの、彼女の癖だ。このまま意地の張りあいになれば、分が悪い。
「俺は、能面に会ったよ。能面は、俺にゲームに参加しろと言った」
夏生の動揺が収まらないうちに、たたみかけるように告げた。
脳裏に焼きついて離れない、まだらに染まった面。薄笑んだまま固まった表情が、機械質な声音が、まだ俺を嘲笑いつづけている。
「……違うよ、灰李」
ぽつり、とつぶやいた夏生が、顔を伏せる。アスファルトを見下ろす彼女の表情を、影が隠した。
「これは、陣取りゲームなの。一対一。白対黒。プレイヤーはもう揃ってる。灰李に、試合に『参加』する余地なんて、あるわけない」
「陣取り、ゲーム?」
飲みこみきれない単語を反復する。『参加』の余地がない? なら、あいつは俺に、なにを求めたんだ。大量の疑問符が、脳内を舞う。能面の目的は、いまだわからずじまいのままだ。
「灰李が、……なんだね」
一人、納得したような言葉をもらした夏生は、ゆっくりと俯いた顔を持ちあげた。視線が交錯する。妙にスローモーションに感じられるまたたきが、一度、二度。
「私たちは、世界を変える。きっかけは、どんな些細なことでもいい。ちいさな波紋は、いつか、大きな揺らぎになる」
単一な口調で、夏生は言った。
「は? なにそれ、世界を変える……?」
予想だにしないぶっとんだスケールに、あごが落ちる。
「少しの行動じゃ大局は動かせない。私たちは、走りつづけなければならない。『蒼氓の天秤』を傾けるために」
ソウボウの天秤? どういう意味だよ。
難解な固有名詞に、抽象的な表現。つらつらと、夏生の並べたてていく言葉は、まるでゲームの前口上のようだ。……頭が痛くなってきた。
「だけど、たった一人でそんなの、どうしたってできっこない。だから、『世界』は区切られる――ある一定の範囲を染めれば、呼応する土地全体の『色』を変えられるように」
「染める? 待って夏生、ソウボウの天秤って一体」
「――聞いて!」
俺の言葉を遮るように、夏生は声を張りあげた。
がらりと変化した、鬼気迫る表情に、先ほどまでの淡々とした語りが、激情を抑えたものであったことを知る。
「ここが盤上なの。この街に垂らした一滴は、世界規模の膜になる」
「フィールド……」
「リバーシに『角』があるように、このゲームにも、抑えれば有利になるポイントがある。その一点さえ落とせば、『蒼氓の天秤』は一気に傾いて、簡単にはくつがえらない」
それきり、崩れおちるようにうずくまった夏生は、両手で顔を覆った。しゃくりあげるような音が聞こえる。
「夏生!?」
慌てて差しのべたまま、どうしていいか迷って固まった俺の右手を、夏生が掴む。柔らかな感触に反して、その手は酷く冷たい。
黒曜石のような瞳を不安定に揺らして、夏生は言った。
「たすけて……灰李。もう、私たち、どうしたらいいのかわからないの。勝っちゃだめ。負けてもだめ。願いは変えられない。試合もやめられない。どうしよう。……どうしよう!」
小刻みに震える細い双肩を、俺は呆然と見下ろしていた。
*****
「夏生」
落ちついた頃を見計らって、静かに呼びかける。
「場所、移動しよう?」
恐る恐る提案すると、夏生はうずくまったまま首を振った。ぼそり、と静かな声が落ちる。
「自分から接触しなければ、プレイヤーの存在は気づかれない。試合が終わるまで……誰も、気づかない。……だから、大丈夫」
ちらり、と少しずつ増えはじめた往来に目をやっても、誰一人目があわない。
「それ、俺も……?」
「わからない。でも、多分」
「……そう」
一度、ゆっくりと息を吸って、呼吸を整える。
さっきから、鼓動の音がうるさい。ハイペースで刻まれる脈動を、鎮めようと必死に言いきかせる。
――落ち着け、はやるな。やっと、手がかりが掴めるんだ。まだ、手はあるさ。絶対に。
「夏生……質問しても、いい?」
顔を伏せたまま、夏生が、こくり、と頷いたのを確認して、一つずつ確かめるように問いかける。
「夏生は、プレイヤー?」
「うん」
「もう一人は、冬也?」
「……うん」
一拍おいて、夏生はハッキリと肯定した。