4.
誘われるがままに、もう一度、ゆっくりと伸ばした手の先が、めまぐるしく入れかわるモノトーンの文様へ迫る。
ぞわり、漂う冷気にひるんだ刹那、ふ、と思いとどまった。――なぜ?
「俺、なんで……?」
違う、駄目だ。ソレジャダメナンダ。
いつかのゲームセンターと同じ、理屈ではないなにかが腕を縫いぬめる。
「おヤ……残念デス」
少しも残念になんて思っていないだろう口調で、能面は告げた。
さびれた洋室を背景に、淡い燐光をまといながら浮きあがっていた能面が、霞がかるように徐々に闇に溶けはじめる。
「ソレデハ気ガ変ワラれマシタ頃、今一度オウカガいシマショウ」
靄の向こうで、能面はやはり笑っていた。
結局、なにがしたかったんだ。盛大に顔をしかめた俺を、見透かしたように声が届く。
「試合ノお誘イデスヨ――貴方は知っているはずだ」
妙に滑らかな発声を最後に残して、能面も、奇妙なモノクロの洋室も、すべてが視界から失せた。
*****
背中にあたる、冷えたコンクリートの感触。熱の失せたアスファルトが、尻に食いこんで痛い。
まぶたを上げれば、細い弧を描く月の下、なんの変哲もない三叉路が、なにごともなかったかのようなすまし顔でたたずんでいる。
二度目の白昼夢を、もう俺は、冗談だと笑い飛ばせなかった。カラカラに乾いた喉に、引きつった笑い声が絡まって、いびつな声音が漏れだす。
「ゲーム、だって?」
さっきの会話のどこに、そんな要素があった。俺が『知っている』? まさか。超能力者でもなんでもない、平凡な男子高校生に、何を期待しているのか。
――勝者の願いを叶えましょう。ルールは単純、相手を呑め。あなたの色に世界を染めよ。
唐突に頭の片隅をかすめたフレーズを、意図的に遠ざける。
気のせいだ、気のせい。こんなタイミング、できすぎていて気持ち悪い。きっと夏生から聞いた新作ゲームのあおり文句だろう。
「夏生……ゲーム……?」
ふと、嫌な予感が、胸を占める。あの能面は、なんと言っていた?
アレホド ニ チカイ コクビャク ハ メズラシイ
こくびゃく。黒白。あなたの色に世界を染めよ。まるでボードゲームのリバーシだ。狭い盤上を自らで埋めようと、むさぼり合うように競う二色が脳裏に浮かぶ。
ソノ スグソバ ニハ ハイ
灰? それがなんだ。白と黒の試合には不必要な中間色に、一体なんの用があるんだ。中途半端にくすんだグレイは、どうしたって対戦相手にはなり得ない。
なり、得ない? ……ああ、そうか。
「プレイヤーは……俺じゃ、なくて」
じくり、と鈍い痛みが頭を襲う。くり返し脳内に浮かんでは消える、無数の言葉。覚えのない、けれど知っている、そんな気色の悪い感触をこらえて、今度は一つ一つに耳を澄ます。
――二度の説明はいたしません――プレイヤーは足りておりますよ、灰李サマ。ゆえに私は貴方に声をかけたのです――その面をご覧ください。今は『白』がやや優勢のようですね。
『プレイヤーは足りております』。灰の、俺のすぐ傍にいる、近い黒白。残念なことに、複数思い浮かぶほど、俺の交友関係は広くない。
「まじ、かよ」
姿の見えない冬也と、様子のおかしい夏生。たった二人の、俺の幼馴染。
そうだ。夏生が、ゲームと名のつくものに燃えないはずがないこと、わかっていたのに。
どちらが白で、どちらが黒か。そんなことはどうでもいい。戦況は五分五分。きっと今もあのまだらな能面の上で、白と黒はせめぎ合い、不可思議な文様を描きつづけている。
止めなくては。
あれは駄目だ。あの能面は、いけない。
握りしめた拳の中で、深く爪が突きささる。理屈じゃない。もう何度目かわからない、そんな焦燥に駆られる。
そもそも、かき回すためだけに第三者に参戦を望むようなやつ、うさん臭くて仕方ない。ましてや魅力的な取引の代償は、高くつくと相場が決まっているものなのに。
そして、――何よりも、本能が警鐘を鳴らした。あのとき、逆らいがたい誘惑を前に、俺は、たしかな恐怖と嫌悪を抱いていたのだから。
*****
「冬也、今日も来てないの?」
「あ、うん……、みたい、だね」
歯切れの悪い言葉を返すクラスメイトに、そう、と短い返答を零して、席を立つ。
「わ、渡部くん?」
「……なに」
教室の入り口で、肩ごしに振りむいて短く問えば、彼女の細い肩が、びく、と一瞬跳ねあがり、笑顔が強張った。思いあたる節がなくて首をひねる。が、最近は一々気にしないことに決めた。そんな余裕も無い。
黙りこんでしまった女の子――そういえば名前が思い出せない――に、視線で返答を急かす。
「えっ、と……」
「用が無いなら、俺、行くけど」
「ご、ごめんね、引きとめて!」
やっぱいいや、と慌てて頭を振った彼女が、情報通だという評判の妹尾さんだったということを、昇降口で靴を履きかえながらようやく思いだした。……前は、それなりに会話もしてたような気がするんだけど。まあいいか。
自分の靴箱に上履きを戻せば、否応なしに視界に入る、その隣。『2のA九条冬也』――顔に似合わず悪筆なネームプレートを、そっとなぞった。
「なにやってんの、お前」
家にもいない、学校にも来ない、携帯に連絡もつかないらしい幼馴染。消息が完全に絶たれてから、もう、一週間以上が過ぎた。街中探しまわったって見つからなくて、なのに俺以外の誰も、そのことに焦燥感を抱いていない。
まるで自分だけがおかしくなってしまったかのようで、油断すると時々わからなくなる。
――冬也は本当に、プレイヤーなのだろうか。
疑いだしたらキリがない。そんなはずはない、とうち消しながら、ふとした瞬間に、冬也がそこにいないことが当たり前のように感じて、寒気がした。
奥歯をかみしめて、校舎を後にする。
諦めたくない。まだ、なにか、あがけるはずだ。どうすればいい? 昨日は、隣町を闇雲に探した。次は? 一体どこを探したらいい。なにをしたらいい。
「灰李」
考えに没頭したまま、足早に通り過ぎようとした校門で、ぴたり、と立ちどまる。
耳に馴染んだ、柔らかなソプラノボイス。弾かれたように振りかえった先で、女子高の制服に身を包んだ夏生が、いつかのように門柱にもたれていた。
「な、つき……?」
「なあに、どうかした? 灰李。変な顔しちゃって」
「だって、そりゃあ……、え?」
きょとん、と無邪気な表情を浮かべて微笑む夏生を前に、わけがわからずに混乱する。
当たり前のように現れた、当たり前じゃなくなった日常。なんだよ、それ。意味わかんねえ。――ああ、違う。そうじゃなくて、ええっと。考えなければ。――なにを?
「ね、灰李。ゲーセン行こうよ」
立ちすくんだままの俺の腕を、夏生が引っぱる。