3.
夏生が、ふっと表情を緩めて、小首をかしげる。長い黒髪がさらりと流れた。
「灰李。ゲーセン、行こっか」
「え、いまから?」
「うん、いまから」
言い終わるなり、俺の手を取って、夏生は校門へと歩きだす。
「待って、俺、教室に鞄が……」
「後でいいでしょ?」
強引に反論を封じられ、抵抗を忘れたまま校内から連れだされていった。
どうして、夏生がここにいるのか。ここでなにをしていたのか。冬也がいるときならいざ知らず、校庭で一体、なにを。
その上、どうしてゲームセンターに向かうことになるのか、本気で意味がわからない。
「夏生、なんでうちに来たの? 冬也は? なにか知ってるの? ねえ」
腕を引く力に少しだけ逆らって、矢継ぎ早に質問を浴びせた。
制服姿の美少女と手をつないで立ちどまれば、当然、往来の人目を引くだろう。しかし、構っている余裕もない。
「灰李を待ってたの」
足をとめた夏生が、ポツリとつぶやく。振りかえらない少女の背中が、微かに震えているように思えて、ますます困惑する。
「俺を? ねえ夏生、冬也は――」
「……灰李は、いつもそうだね。口を開けば、冬也、冬也、って。私だって幼馴染なのに。私だってずっと隣にいたのに」
「夏生? なに言って」
「冬也なんて、知らない」
振りかえった夏生の、強いまなざしに、ひるむ。天真爛漫な『妹』だとばかり思ってきた少女の、予想外の剣幕に戸惑っていた。
「……ごめん」
何に謝っているのかもわからないまま、しぼり出した言葉に、夏生は、泣きそうに顔を歪めた。腕を掴む手に、力がこもる。
庇護欲をそそられるような、ひどく頼りない表情だった。
けれどなぜか――それを眼にした途端、俺の身のうちに掻きたてられたのは、恐怖だった。
とっさに腕を振りほどいて、踵を返す。何かを考える暇さえ惜しい。ただ、逃げなくては、と思った。
「灰李!」
遠ざかる夏生の声に、足が震えた。
*****
「はあ、はっ、……なんで」
たどり着いた三叉路で、崩れ落ちるように、全体重をブロック塀に預けた。身体の震えが、収まらない。
どうして、どうして、どうして。頭の中がぐちゃぐちゃだ。何かがおかしくなってしまった? でも、何が。一体、いつから。
堂々巡りを続ける思考を抱えて、ずるずるとアスファルトへ沈みこむ。
身体が言うことを聞かない。怖くて怖くて、どうしようもない。何が? ――夏生が?
「まさか」
吐きすてた声は、情けないほど弱々しかった。
夕焼けが、見慣れた通学路を、紅く染めている。陽が落ちればこの道は、また夜の闇に支配されるのだろう。
頭上の蛍光灯に、取りかえられた様子はない。携帯は教室の鞄の中だ。早く歩きださないと、……とは思うものの、まだ全身に力がはいらない。
陽がくれる前に住宅街を抜けなければ。そんな焦燥が、不意に湧きあがる。――脳裏に浮かぶのは、いつかの能面。
「馬鹿らしい……あんな、白昼夢」
ぐったりと壁に背中を預けたまま、空をあおいで目をつむる。夜の帳が、降りようとしていた。
自ら視界を絶った俺の頬を、ゾクリとするほど冷たい感触が滑りおちた。
人肌とはとても思えない温度。けれど、まるで、人の指のような。
緊張に身を凍らせて、息をのむ。……冗談だろう。
気のせいだ。そう思いこもうとした俺を嘲笑うように、凍てつく指先が、もう一度頬を伝った。たまらず、まぶたを跳ねあげる。
「離、――!?」
精一杯張りあげた声は、尻つぼみに喉に絡まって消える。
あたりを包む一面の闇、そして目と鼻の先に浮かぶ、不気味な能面に、俺は、ただ眼を見開いて凍りつくことしかできなかった。
動くはずのない能面の口元が、ニィ、とつり上がった――ような錯覚を起こして、思わず腰が引ける。少しでも距離を稼ぐため、手探りに後退しようと腕に力をこめて、――気づいた。
背後には、何もない。
ほんの少し前までは、確かに感じられたはずの、身体を預けていたブロック塀の硬質な感触は、もうどこにも感じられなかった。
「嘘だ……」
目の前に広がるは、闇。そして申し訳程度の白い輪郭線。
夜の帳が、だとか、そんなレベルの変化ではない。
閑静な住宅街は、こつぜんと消え失せた。今、俺の目には、古いモノクロの写真のような、薄くかすれた、いびつな風景が映っている。うち捨てられた洋館の一室、その写真の中にでも閉じこめられたかのようだ。
およそ常識の範囲では考えられない。手探りでなでた床は、一面、天鵞絨の絨毯のような柔らかな質感をしていた。
呆然と、埃を被った内装を見つめる。窓辺で揺れる重厚なカーテンに、再度、言葉を失った。
「御帰りナサイまセ、渡部サマ」
目線の先で、ふわふわと能面が漂う。以前と違うのは、その色が輝かんばかりの白ではなく、全体の半分ほどを、波打つ黒に侵食されていることくらいか。
機械質の声音はとても気のせいとは思えず、しかし、まだら模様の能面の口もとが動くことはない。
パクパクと口を開け閉めしながら、必死で思考を回す。
「ようこそ。渡部――乖離サマ? 廃棄サマ?」
「っ灰李だよ!」
勝手なことを言いだした能面に、半ば反射で声を上げた。反響することもなく闇に溶けていった音に、この部屋の異質さを再認識する。
一体どこから声が響いてくるのか見当もつかないまま、中空を漂う妖しげな仮面を睨みつけた。
「ハイリ? ……ハイリ、……背理! ナルほド大層な御名前だ」
無機質なくせに、大げさに芝居がかった口調が、なんとも神経を逆なでする。
思わず眉をひそめた俺に、能面は、ますます不気味に相好を崩した。……崩した? いや、まさか。
何度見返しても、能面は変わらずあいまいに笑んだままだ。
「なん、なんだよ……。つーかここ、なに? あんた、俺をどうする気だ」
「宜シイのですカ? 仮面、剥がレテおりますが」
「はあ? 仮面はあんただろう」
なに言ってるんだ、とさらに眉を寄せれば、クスクスクスクスクス――と幾重にも重なった笑い声が響く。まるで生気が感じられない不気味な声に、ますます肝が冷える。
「なるほド、罪を忘レてモ贖罪は消エまセンカ。余程大切ナ御友人ノようダ」
「友人……? 冬也のこと、何か知ってるのか!? まさか、あんたが」
ぐっと身を乗りだして、仮面を掴もうと伸ばした両手は、感触も無いままにすり抜けた。
唾とともに言葉を飲みこみ、まだらの能面に吸いこまれるように消えた指先を、すぐさま引きもどすと、何度も確認するようになぞる。
「あれ程に近イ黒白ハ珍しイ。ソノすグ側には灰。アア面白い。どうシて手を出サズにイラレヨウカ」
クスクス、クスクス、クスクス。能面が笑う。
得体のしれないなにかが、能面を通して突きつける。不条理な取引、不条理な試合、不条理な、……なんだ? 意識の片隅で、警鐘がけたたましく鳴り響いている。
「さァ、渡部灰李サマ――手ヲ、ソシテ望ミヲ」
俺は知っている。この切迫感を、知っている。そして同時に、胸底から湧きあがってくる、苛烈なまでの衝動を。