2.
「じゃ、俺らはここまでだな」
「また遊ぼうね、灰李!」
夏生が大きく右腕を振る。
「ああ。またね、夏生。冬也はまた明日」
蛍光灯に照らされた三叉路で、遠ざかっていく二人の背中を見送った。
昔はお隣さんだった兄妹も、二年前に引っ越してしまってからは、すっかりご無沙汰だった。家から離れた高校に入学した、最初の日、教室で冬也と顔を合わせたときには、まさかと思ったものだけど。
「なんて言うか、腐れ縁、だよなあ」
兄妹の一員のように育って、こうして再会もして。美人になった夏生にどぎまぎすることもあるけど、結局は可愛い『妹』で。どんなに振りまわされても、憎めやしない。
急に重く感じた鞄を抱えなおして、家の方向へと踵を返した。住宅街をあと五分ほど歩けば、借りているアパートに着く。
三叉路から、九条兄妹とは逆の方向へ足を踏みだした途端、フッと音もなく明かりが消えた。慌てて後ろを振りかえれば、弱々しく明滅をくり返す蛍光灯が目にはいる。
「うわ、タイミング悪い」
毒吐いた俺を嘲笑うように、まもなく、最後の抵抗を試みていた蛍光灯も力尽き、あたりに暗闇が広がる。見上げれば月の無い夜空。今日が新月であることに気づいて、ため息をついた。
かといって、どうすることもできない。せめて灯りを、とポケットから携帯を取りだす、……が、電源が入らない。どうやら充電が切れてしまったようだ。
普段から、あまり携帯を使わない俺は、充電も数日おきにしかしない。それが仇になった。よりにもよって今日そのサイクルを迎えたらしい携帯を、恨みがましく睨みつけ、渋々、ポケットにしまい直した。
やれやれ、と改めてアパートへ向かおうと視線を上げた俺は、正面に浮かぶ、異様な白い塊にギョッと目をみはった。
細い目。妖しく、絶妙な角度につり上がった口。
暗闇に浮きあがる真白い能面――それを身につけたスーツ姿の人影を前に、呆然と立ちすくむ。
「は……?」
『住宅街の路上に不審者現る』、なんて新聞の大見出しが頭をよぎった。おいおい。よりにもよって、今ここに出没とか、ちょっとごめんこうむりたい。そもそもなんで、能面なんだ。
逡巡のすえ、見なかったフリをして、足早に過ぎさる決心を固めた。わざわざ、まわり道をするのも面倒くさい。視線を合わせないようにして、早く、早く、早く。
能面男は、動かない。見る角度によって、いくらでも表情を変える不可思議な面が、ただ真っ直ぐにこちらを見すえている。背筋に冷たいものがよぎった。
「渡部さま」
すれ違いざま、不意打ちのように、機械じみた声音が落とされた。思わず、びくり、と身がすくむ。足がその場に縫いとめられて、凍りついたように動かない。
なんで、こいつ、俺の名前を。
「……人違いです」
「あらためまして、渡部さま」
「生憎あなたのような知人は記憶にありません」
「はじまりを宣言させて頂きます」
「だから俺はあんたなんて――!」
勢いよく振りかえった先には、誰もいなかった。
際限なく広がる夜の闇が、視界を埋めつくす。
ハッと息をのんだ、直後。カラン、となにか硬質な落下音が、閑静な住宅街に響いた。星明かりを頼りに見下ろした足元に、能面が一つ転がる。
ニィ――とつり上がった唇が、俺の目には、まるで嘲笑のように映った。
*****
重い身体を引きずるようにして、やっとのことでたどり着いた教室。ガラリと引き戸を開けると同時に、チャイムが鳴りわたる。
一瞬、遅刻かと身構える。が、まだクラスメイトの大多数は席についていないようだ。――なんだ、予鈴か。
大げさなため息をついてから、どさり、と椅子に身を投げて、ふと、気づく。いつもなら、真っ先に飛んでくるはずのからかいの声がない。
「冬也、来てないの?」
誰にともなくつぶやくと、近くにいた女の子が、「まだ見てないよ」と教えてくれた。容姿が容姿だから、冬也は目立つ。たしか、情報通らしい彼女の網に引っかからないのなら、本当に校内にいないのだろう。
そう結論づけて、机に突っ伏する。
……眠い。気味の悪い能面が、くり返し頭に浮かんで、昨夜なかなか寝つけなかったせいだ。
睡魔はすぐに、俺の意識を奪っていった。
結局、冬也が校門をくぐったのは、一限目の終了間際だった。
教室の後ろのドアから、涼しい顔をしてもぐり込んだふてぶてしい幼馴染に、教師は何も言わなかった。成績がいい優等生ってのは、こういうとき、得だ。
昼放課、弁当をつつきながら、ふと思いかえして口にする。
「初めて見た、冬也が一限サボるの」
「サボってない。遅れただけだ」
「よく言うよ、あんなギリギリに来といて」
俺の言に、諦めたように肩をすくめた冬也は、それきり何も言わずに箸をすすめた。お互い食事中に喋るたちでもなく、そのまま黙々と食事を終えた。
帰り際、誰もいない校門が目にはいる。もちろん、別に毎日夏生がいるわけではないのだけれど、なんとなく、気にかかった。
「夏生、どうかしたの?」
「なんだよ、急に」
「だって、冬也が遅刻までする理由、それくらいしか思いつかない」
シスコンだし、とつけ加えれば、鞄でベシリと背中を叩かれた。……地味に痛い。
結局、遅刻の理由を聞きそびれたことに気づいたのは、アパートの玄関をくぐったときであった。まだ明るい外を振りかえって、首をひねる。
「まあ、いっか」
冬也には冬也の事情があるのだろう。なんて、達観したフリを気取って、俺は深く考えることを放棄した。
――そうして、あったかもしれない分岐点は、一つ、また一つと、過ぎていった。
*****
今日も主が訪れなかった右隣の机に背を向けるようにして、頬杖をつきながら、グラウンドを見下ろす。運動部が思い思いに腕を磨く、活気にあふれた放課後。その中に、親友の姿は無い。
「……三日目、か」
音に乗せた事実が、急に重みを増したように思えて、俺は、肺の中の空気を一気に吐きだした。クラスメイトの出払った教室に、二酸化炭素が虚しく溶けて消えていく。もう何度目かわからない。
冬也の様子が、おかしい。薄々感じてはいたけれど、三日も続けて学校を休むなんて。皆勤賞常連の、真面目な幼馴染のことだ。連絡も入れずにサボるなんて、信じがたい。
確認をとろうと思っても、携帯は繋がらず。夏生がうちの正門に現れることもない。打つ手なし。
冬也の携帯以外の連絡先を知らない俺の、お粗末な調査は、そうそうに行きづまっていた。
なんともなしに見下ろしていた校庭の風景に、ふと異色の制服が混じる。すこし目を凝らして、それが隣の女子高のものであることに気づいた。
俺は、がたりと席を立って、一目散に階段を駆けおりた。
「夏生!」
長い黒髪を風に遊ばせた少女が、立ちどまる。
「夏生、どうしたの? 冬也は?」
返事は、ない。澄み切った黒真珠のような瞳が、じっ――とこちらを見上げている。規則的にくり返されるまばたきに、なぜか、ぞくりと背筋が震えた。
「……なつ、き?」
異変を感じとって、思わず声が揺れる。一歩、左足が後ろに下がった。そのまま逃げだしそうになる身体に鞭を打って、その場に留まる。
何を怖がっているんだ。ただの幼馴染じゃないか。可愛い、大切な『妹』だろう。