12.
翌朝、陰鬱な気持ちをひきずって玄関の戸をあけた俺は、ふと、見下ろした外の景色に、眼をみはった。
アパートの向かいの民家の外壁へもたれかかるように、待ち構えている人影があった。影になった表情は読めず、黒髪であること以外はろくに視認もできない。
男か女かすらわからない距離、だけど。
――直感が、告げていた。
古びた階段を駆けおりる。堅苦しく緊張をはらんだ金属音が、不規則に響く。足が震えて、段を踏み外しそうになりながら、必死で走った。
門柱に寄りかかり、荒い息をなだめながら、正面でうつむく青年に呼びかける。
「冬也」
濡れたような黒い瞳が、ゆっくりと持ちあがって、俺を捉える。強いまなざしに射すくめられて、数歩あけた地点から、前に進めなくなった。
ああ、こいつ、もう知っているんだなと、思った。
「夏生、は」
言葉が、続かない。
なにを話していたっけ。どう話していたっけ。
幼馴染の整った顔に表情はなく、ただ、その瞳からは痛烈な悲しみが伝わってくる。いっそ切ないほど、ひとつの感情だけが満たされていた。
――どうして、こんなにも、俺たちの距離は空いているのだろう。
冬也が目を伏せた。長いまつげが、顔に影を落とす。一挙一動が妙な色気をまとっていて、否応なく目がひきつけられる。
「三日ぶり、か……灰李」
暗い声音が、艶やかに響く。まるで、知らない相手と向きあっているようだった。
カツン、とブーツの底がアスファルトを打って、私服姿の冬也が近づいてきた。
「シロから聞いた。……手を出せ」
「しろ、って」
「お前も会ったんだろう。『白』を担当する男だ」
はじまりの夜。死んだように眠る蛍光灯の下で出くわした、真白い能面を思い出す。……あれが、冬也の担当者か。
つい、このあいだのできごとなのに、何十年も昔のことのようにさえ思える。
「手を、出せ」
もう一度、有無を言わせない口調で、冬也はくり返した。……なにがしたいのかは、わかっていた。
俺は、自ら袖をまくり上げて、左手首を露出させた。黄味がかった肌の上で、灰色の茨が、不気味にうごめく。
冬也の表情が、苦く歪んだ。
「俺を、染めにきたのか?」
「いや……」
言い淀んだ冬也は、「もう、意味がない」と、声を落とした。
……意味がない?
「どういうことだよ。だって、お前、俺を染めるって――」
飛びだした問いを、途中で飲みこむ。違う。そんなことより先に、尋ねるべきことはあるだろう。
そもそも、染めるって、なんだ。あの時と変わっていない。プレイヤーになっても、俺はまだ、なにも知らない部外者のままだ。
「『灰』が参戦する意味を、わからないままプレイヤーになったのか。ああ……まったく、お前らしいね」
声にあきれを滲ませた冬也が、苦笑する。
「『蒼氓の天秤』は既に傾いた。もう戻ることはないだろう。勝敗は決してるんだよ、灰李。ゲームそのものが変質してしまった。残りはただの消化試合だ」
そこまで聞いて、ようやく気づいた。冬也の声に滲む感情が、あきれではなく、諦観であることに。
「消化試合、って……」
「染めることも取りこむこともできないなら、グレイゾーンそのものを消すしかない。誰の入れ知恵だか知らないけど、――ずいぶんと舐めた真似をしてくれたもんだね」
「は?」
「夏生のことだよ」
吐き捨てられた声の冷たさに、ぞっとした。感情というものが一切欠落したかのような、機械的な響きだった。
……俺は、冬也がどれだけ夏生を大切にしてきたか、知っている。
シスコンなんて一言じゃ、片付けられない。語弊を恐れずに言うのなら、溺愛というより、いっそ執着に近いほどの想いだった。
龍の玉を奪った愚か者。そんな単語が頭をよぎる。夏生は、冬也にとって間違いなく宝だった。彼女を追いこんだ存在を、きっと冬也は許さない。
――二度と会いたくはありませんがね。
グレイのセリフが、蘇った。……まさか。
俺だって、殺してやりたいと思った。あれほどに誰かを憎く感じたことなどなかった。
けれど、冬也を突き動かす衝動は、俺の憤りを遥かに凌駕するものであるように思えてならなかった。なぜだろう。今の冬也は、――危うい。
黒曜石に似た瞳の中で、猛々しい炎が暗く揺れている。
自立しているとばかり思ってきた幼馴染にとって、妹の存在が、たったひとつの支えだった。そのことに、ようやく、気づく。
「冬也……お前……」
「ずっと、夏生だけが俺のすべてだと思ってきた。あいつを失ったら、なにもなくなるもんだと。なんだって差し出せる……そう、本気で思ってたんだ」
硬く握った拳を、冬也は、勢いよくブロック塀へ叩きつけた。鈍い打撲音。力の抜けた腕が、ゆっくりと降ろされていく。
「でも、無理だ。お前もいなきゃ意味がない。守りたいものが一つじゃなくなった時点で、俺はもう、動けない」
見ている方が痛いような光景から、顔ごと視線をそらしてしまいたくなった。だけど冬也は、それを許さない。
「あいつは俺が抑えておく。だから、……終わらせろ。もう、お前にしかできないんだよ、灰李」
皮肉に歪められた口もとと、対照的に苛烈な輝きを秘めたまなざし。見たことのない親友の表情に、ゴクリと唾を飲み下す。
もう、戻れないのだと……立ち止まることさえ許されないのだと、その瞬間、悟った。
*****
痛いほどの沈黙を破って、いつか夏生が口にしたセリフを、呟く。
「プレイヤーになったなら、走りつづけるしかない……」
「それが『灰』なら、尚更ね」
冬也の肯定を受けて、胸に溜まった息を吐き出した。前髪をかき上げるようにして掴む。じゃあ、どうすればいい。俺に残された選択肢って、なんだ。
「教えてくれ、冬也。どうしたら試合は終わる? どうしたら、夏生を解放できる?」
「……本当なら、グレイゾーンを手にした段階で、試合は終わるはずだった。『灰』ってのはもともと、そのために用意された規定だった」
「それを、俺が壊した?」
「そうなるね。もう、『天秤の遊戯』は試合の体をなしてさえいないんだ」
ため息を吐いた冬也が、ふたたび塀に背中を預ける。腕を組みながら、眼を閉じると、なんでもないことのように言い放った。
「だから、染めろ。すべてを灰一色に。完全試合さえ達成してしまえば、どんな糞ゲーだって、無条件に試合終了だ」
「パーフェクトゲーム!?」
冗談だろう、と眼を剥いた俺に、しかし冬也は真剣そのもののまなざしを返した。おいおい、本気かよ。
「無理だろ。夏生はゲームに関しちゃ天才だ。どんなハンデがあったって勝てるわけがない。ましてや、完勝? お前の分も夏生の分も、ぜんぶ染めかえろってか……無茶だ」
「なんの話をしてるんだ。これは遊戯じゃない」
「だけど夏生は、陣取りゲームだって――」
「そういう体裁だった。かつてはね」
冬也が、不遜に笑う。とても同い年だとは思えない、覇気をまとって。……その迫力に、怯む。
もともと、なにをやらせたって人並み以上にできてしまう天才肌で、欠点という欠点の見当たらない男だった。そのスペックの高さは、誰よりも俺が知っている。けれど。
どこか吹っきれたように、凄みのある表情を浮かべる冬也の姿に、戸惑いが隠せなかった。




