10.
なにかを言いかけては口を閉じて、という動作をくり返していた俺に、妹尾さんは一冊のノートを突き出した。
「これ」
ありふれたA4の大学ノート。シンプルな装丁には、タイトルはおろか持ち主の氏名すら記載されていない。
受け取ったそれを、パラパラと流し見て、すぐに理解した。これは、――記録だ。やばいネタから日常のできごとまで、雑多に詰め込まれた情報の束。
その中でも、とりわけ多く登場する名前が、『九条冬也』だ。
さすがは校内きってのイケメン。あつかいが違う。好きな食べ物から癖まで、詳細なプロフィールは、ちょっと引くレベルまで揃っていた。
圧倒的な項目数の多さに、軽く頬を引きつらせていた俺を、続く妹尾さんの言葉は現実へと呼び戻した。
「読めば、たしかに思い出せるのに、なぜかしばらくすると忘れてるの。そのネームプレートも、教室の席も、あってないもののようにしか感じなくなる。なくなるわけじゃないのに、わからなくなる。……どういうことだろうね」
妹尾さんの瞳は真剣そのもので、からかわれているわけではないようだと知る。
「それ、は」
いつしか喉はカラカラに乾いていて、奇妙な緊張が俺を襲った。『天秤の遊戯』、能面、プレイヤー。頭の中を無数の単語が舞った。
「ごめん。問い詰めるつもりは、ないんだ」
「え?」
「聞いたって、どうせ忘れちゃうんだろうなって、思うし。わかってるよ……私、部外者だもんね」
「妹尾さん」
閉じたノートを、無言の要求に従って主の手もとへ返す。情報通なクラスメイト。彼女の声も、腕も、ほんの少しだけ、揺れていた。
「だから覚えて。今から伝えること……私の代わりに、渡部くんが、覚えて」
泣きそうな顔で、妹尾さんが笑う。活発で明るい彼女には、似合わない笑い方だった。その様子に、いつかの夏生の姿が、ぶれて重なる。
「お願い。九条くんを止められなかった私を、どうか忘れないで……許さないで」
*****
駅前の雑踏を眺めながら、妹尾さんから聞いた言葉の意味を、ずっと考えていた。
家に戻るのも面倒で、逃げるように学校をあとにした俺は、制服姿のまま街をさまよっていた。そうして行き着いた当初の目的地で、噴水の淵に腰をおろし、頭を抱えた。
昼時の街並み。大通りに立ち並ぶ店はどれも賑わいを見せ、今こそかき入れ時だと売り子が声を張り上げる。
声をかけられることはないけど、気づかれていないわけでもないらしいと悟ったのは、十分ほど前のことだ。
プレイヤーではないが、試合の関係者。思っていたよりもずっと、微妙な立ち位置に俺はいるらしい。つまり影が薄いとか、その程度ってことなんだろうか。ああ、でも、それは元々だ。
くだらないことを考えて、苦笑する。そうでもしなきゃ、頭がパンクしてしまいそうだった。
「はは、もう、わけわかんね……」
妹尾さん。冬也。夏生。三人の顔が、順に浮かんで消えていく。
かみ合わない。そうだ、なにもかもが正しいと考えたら、どうしたって矛盾が出る。きっと、どこかに嘘がある。
「試合は、いつから始まったんだ」
二週間前、と夏生は言う。だけどあの日、冬也は学校にきた。教室で授業を受け、昼食をとり、一緒に下校した。
問題は誰かに話しかけられたか、だ。……だけど、思い返してみたってよくわからない。
冬也の顔は広くて、たしかに人望はあるけど、特定の誰かと親しくしているところはあまり見ない。放課後の予定は必ず空いていた。夏生のためだろうと勝手に思っていたけど、違うんだろうか。
なら、今わかってることは、なんだ?
俺からは、夏生が見つけられた。夏生や冬也といるときには、周りに気づかれない。プレイヤーは、関係者以外から知覚されないのか? でも、グレイゾーンは知覚できる。
……だったら、なぜ、冬也は見つからなかった?
――ここで、試合をしていたさ。
本当に? 一度湧きあがった疑念は、簡単には消えてくれない。
冬也が試合を始めた。夏生はそれを止めようとした。本当にそうか? 確実なことはなんだ。少なくとも、妹尾さんは、プレイヤーになる前の冬也に会っているらしい。
「一週間前の今日、宝女の生徒と揉める冬也を見た……ね。夏生のこと、だよなあ。間違いなく」
変化を望んだ冬也と、不変を望んだ夏生。そのベクトルが対をなすためには、どちらかがどちらかの願いを否定しなくちゃならない。
先に望んだのは、どちらだ。
――夏生の言うことを信じるなよ。
――冬也を止めるために『黒』になったの。
根拠はない。理由もわからない。ただ、予感がある。たったひとつの仮定さえ成り立てば、すべての辻褄が合うような。
――俺が、悪いんだ。
これ以上ないほど、苦く歪められた冬也の顔。あいつが、俺をあざむいてまで庇うとしたら、それは。
*****
夕焼けに赤く照らされたアスファルトを、ひとり黙々と踏みつける。
ほんのすこし前まで、この道を毎日のように通っていた。三人ならんで、くだらないことを話して。
今日あったこと、テレビの話、学校の文句、それから。……ああ、夏生はゲームのことばっかりだったっけ。
思い返して、苦笑する。
三度の飯よりゲーム。いつの間にやら、風変わりな少女に育っていた。破天荒で、だけど憎めない。冬也も俺も、昔から夏生には弱かった。
だけど、本当に、俺は夏生のことを知っていただろうか。冬也のことは?
「知らないんだよなあ、……なにも」
いざ思い返してみれば不思議なほどに、九条家の事情を俺は知らない。
小学生の頃にみた母親は、綺麗な人だった。いまでも思いだせるくらいだから、相当な美人だったんだろう。なんといっても、二人の親だ。
シングルマザーでは、なかった。だけど父親に会った記憶はない。いまになって、それが奇妙なことのように思う。
――私だって、ずっと隣にいたのに。
暗く沈んだ、夏生の瞳が蘇る。
小学生の一団が、わきを駆け抜けていった。こちらには見向きもせずに、まっすぐ前だけを見て、遠ざかっていく背中。黒がふたつに赤ひとつ。揺れるランドセルが、どこか眩しい。
……俺は、俺たちは、どこかで間違えたんだろうか。
絡まってしまった糸を、ひとつひとつ解きほぐしたとして、その先に答えは見つかるのか。くり返す自問自答に、終わりが見えない。
――あなたは、この試合を変えられる。
嗤う代理人。頭を振って、その残像を打ち消した。
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