1.
白い、細い指が、迫ってくる。
丸く大きい、こぼれ落ちそうな黒い瞳は、不自然なほど凪いで陰りを帯びていた。
「ごめんね……」
聞きなれたはずの声が、知らない誰かのもののようにしか感じられない。
長い黒髪が、顔の上に滑りおちてきた。
身動き一つできずに横たわる俺の首に、氷のような指が回される。――それでも身体は、動かない。
「ばいばい、灰李」
視界一面を覆う血の気の引いた少女の顔が、くしゃり、と歪んだ。
――ヤメロ。
震えた喉にかかる、圧迫。
容赦なく食いこむ、鋭利な爪の感触。
じわりと滲んだ血が、流れおちた。
-Gray scale Refrain-
*****
「やめろ、夏生――!」
振りはらおうと伸ばした腕は、空をきる。
ガン、と派手な音を立てた右手に、鈍痛が走った。
「っ――!」
声にならない叫びを上げて身悶える俺に、四方から冷めたまなざしが突きささった。
「おはよう、灰李。寝起きそうそうなにしてんの」
「な、え……? 冬也?」
右隣の席に座る、無駄にイケメンな幼馴染から、一際あきれたまなざしが投げてよこされた。
ぱちぱち、とまばたきをくり返し、目の前に広がる、見慣れた教室の風景に、ぽかん、とあごが落ちる。黒板の横にかかった時計が、昼休み終了五分前を示している。
やがて、教室に戻ってきているクラスメイト全員に醜態を見られたらしいことを悟って、頬がひきつった。
「うわあ……」
まじかよ。
冬也が、ポン、と俺の右肩を叩くと同時に、午後始業の鐘がなった。
*****
「で、うちの妹がどうしたって?」
昇降口で靴を履きかえながら、隣のイケメンもとい九条冬也が尋ねる。
しょせん、イケメンは何をしていても絵になる生き物か。なんて、陳腐な感慨を抱いていた俺は、不意打ちの質問に目を白黒させることになった。
「あ、いや、えっと」
「なんだよ。変な夢でも見たんじゃないのか」
「あー、うん……多分?」
あいまいな答えをする俺に、冬也は眉をひそめた。
意味がわからないだろう。だって、俺にもわからない。
――夢。夢なんだろうか。
「よく覚えてないんだ」
靄がかったように不明瞭で、どうにも内容を思い出せそうにない。そういうものなんだろうけど、なんか釈然としないものがある。……ような、気がする。
「ふーん。――首、どうかしたのか?」
問われて初めて、左手で喉もとを隠すように覆っていることに気がついた。
「なんでもない、はずだけど」
それでも、たしかめるように首筋をなぞってしまう俺を、冬也が不思議そうに眺めていた。
そんな会話をしているうちにたどり着いた正門には、長い黒髪を風に揺らした華奢な少女が一人、もたれかかっていた。
隣の女子高の制服を着ていることもあって、かなり人目を引いている。
「話をすればなんとやら。――なんか用事? 夏生」
「授業早く終わったから、たまには冬也と帰ろうかなあーと思って」
答えながら近づいてくる少女に、無意識に一歩引いてしまう。周囲から突きささる、興味本位の視線が痛い。
九条夏生。冬也と年子の妹なだけあって、かなりの美人。すらりと伸びた手足や、白い肌に映える真っ黒な髪と瞳は、この兄妹に共通した特徴だ。
「ね、ゲーセン寄ってかない?」
「はいはい、最初からそれが目的だろ」
清楚な雰囲気に似合わず、夏生はかなりのゲーマーで、よくこうして冬也を誘いにくる。なんだかんだ言って、つき合ってやる冬也は大概、夏生に甘い。
「俺、先帰るね」
「え? 灰李、一緒に行かないの?」
「いい。兄妹水入らずで行ってきなよ」
この兄妹と一緒に行動するだって? 昔ならいざ知らず、今じゃ、はたから見れば美形カップルとお邪魔虫一匹だ。たまったもんじゃない。
「えー、行こうよー」
引きとめる夏生を振りきって、足早に過ぎさろうとした、その直後。
「はい、捕獲」
ぐい、と首元にかかった後方への引力に、グェ、と潰れた声が漏れる。
――圧迫された喉が、苦しい。
「ゲホッゴホッグッ……」
解放されるなり、派手に咳きこんだ俺に、犯人――冬也は目をみはった。
「わ、悪い、大丈夫か?」
「たぶん、……平気……」
「ちょっと冬也、力いれ過ぎ」
「そんなに強く引いてないって」
慌てて弁明した冬也を、うろんげな夏生の視線が射ぬく。
首が締まったのなんて、たしかに、ほんの一瞬で、それも軽く押されたくらいだった。でも、その瞬間。突然、肺から酸素が消えたような錯覚を起こした。……錯覚。そう、錯覚だ、ただの。
「夏生。いいよ、もう」
「ほんと!?」
夏生が、ぱあっと瞳を輝かせた。妙に嬉しげな反応に首をひねって、はたと思いいたる。あ、ひょっとして、まずった?
「じゃあ、久しぶりに三人一緒だね!」
満面の笑みを浮かべる美少女を前に、今更、訂正を挟むこともできず。兄妹プラスαのゲームセンター行きが確定したのだった。
*****
ゲームセンターを後にした俺は、はた目にもわかるくらいげっそりとしていた。もし、精神力にバーのようなものが表示されるとしたら、きっと赤色で激しく明滅していることだろう。
隣では、片腕に大きな戦利品を抱えた夏生が、鼻歌でも歌いだしそうなホクホク顔で、冬也の左手を振りまわしている。
つくづく思うけど、高校生にもなって、この兄妹はどうも仲が良すぎる。人懐こい夏生に冬也がつき合わされているだけのようにも思えるが、妹に甘い兄が、嫌がる素振りをみせたことはない。……このシスコンめ。
「楽しかったー」
「元気だね、夏生……。はは」
乾いた笑いをこぼす俺へ、冬也が、夏生の頭ごしに気の毒そうなまなざしを向けてきた。そう思うなら早く止めてくれと、ますます肩を落とす。
散々、夏生のペースで振りまわされて、あたりはすっかり暗くなっている。何が『寄ってかない?』だ。いつものパターンとは言え、こんな寄り道があってたまるか。
「でも、凄かったね、灰李! 予想当たりまくり」
きらきらとしたまなざしを向けられて、なんとなく居心地が悪くなる。
「べつに……なんとなく、思っただけだし」
夏生の好きなゲームの一つで、十回ほど連続で予想を的中させたことを言っているのだろう。難解なヒントを元に、いくつもの選択肢から一つを選んでいくそれは、詳しくもない俺からすれば、運頼みの鬼畜ゲー。
やけっぱちで選んでは正解を引きあて続け、その都度、夏生がすごいすごいとはしゃぎ回っていた。
「あのゲーム難しいんだよ? 始めてであの点数は出ないって」
「俺がやらされたときは散々だったからな」
「冬也はああいうの全部駄目じゃない」
「向いてないんだよ」
やいのやいのと好き勝手に話しはじめる兄妹に、へえー、と気のない相づちを打ちながら、俺は微笑みが強張るのを感じた。
本当は、気味が悪くなって、わざと間違えた。――十一回目も、思った通りの番号が、正解だった。
*****