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2-5:湖の貴婦人

 物乞いの女は黄色い歯をのぞかせ、ぞっとする笑みを浮かべた。


「“何かをした”のはあなたの方でしょうに。自らの行いが跳ね返っただけのこと。自業自得ですよ」


「跳ね返っただと?」


 オレクはおうむ返しにつぶやいたかと思うと、いきなり叫び出した。


「お前、さては魔女だな? 俺が気に食わないから、呪いをかけたんだろう!」


「落ち着け、オレク。まずはその怪我を何とかしないと」


 クロトールが手当てのために伸ばしかけた手を、オレクは乱暴に振り払った。彼は水筒を逆さまにして顔を洗ったが、苦痛は減るどころか増したようで、長いうめきが聞こえた。


「俺のことはいいから、その女を捕らえろ、審問官。そいつは魔女だ!」


 はねのけられた手をさすりながら、クロトールはオレクと女を交互に見た。オレクの皮膚が突然焼けただれたのは、彼の言うように呪いのせいなのだろうか。しかし、女にはおかしな挙動も、呪文を唱える様子も見られなかった。それらしい動きがあったら事前に気づいたはずだ。オレクの要求通りに女を縛るか、それとも疑わしきは罰せず、といくか。


「彼女が呪いをかけた証拠はない」


 自分に注がれる視線を痛いほど感じながら、クロトールは述べた。


「彼女は表面上、お前に一切手出ししていない。皮膚が焼けただれたのは呪いのせいだとお前は言うが、現時点では断定できない。彼女はお前を軽んじただけで、呪文を唱えたわけではないからだ」


 するとオレクの態度からそれまでの友好さが消え、代わりに敵意が現れた。彼は立ち上がるなり水筒をクロトールに投げつけ、腰に提げていた剣を抜いた。抜かれた剣はやはりというべきか、他の装備と同様ぼろぼろで、あちこちが刃こぼれしていた。


「この役立たずが!」


 オレクは剣を無秩序に振り回し、喚いた。


「ろくでなしめ。お前も女もくたばっちまえ。俺がここでお前たちの息を止め——」


 脅しの言葉はそこで途切れた。オレクは剣を地面に落とすと、喉元を抑えて声のない悲鳴を上げた。何が起きているのか見当もつかないうちに、彼はその場に倒れ込み、そのまま動かなくなった。


 クロトールがおそるおそる近づき、うつぶせの体をひっくり返してみると、傭兵は目を開いたまま息絶えていた。ただれた彼の皮膚に張りついた泥は、それ自体がデスマスクのように見えた。


 動揺するクロトールとは対照的に、物乞いの女は平然と、何事もなかったかのようにたたずんでいた。この女はオレクが死ぬのを知っていたのだ——女の涼しい顔色を見た瞬間、クロトールは悟った。彼女は魔女か、それ以上の力を持った存在だ。あの時、オレクの指示に従っていたら、死んだのは彼一人ではなかったかもしれない。


 女は悪臭のする灰色の衣をはためかせながら、顔をクロトールの方に向けた。


「さて、これでゆっくり話ができますね」


「話? ああ、確か金の話だったか」


 半ば放心状態で答えたクロトールは財布を取り出し、オレクに支払うはずだった残りの百ソレルを女に手渡した。女は軽く一礼すると、もらったばかりのソレルを素早く懐にしまった。垢だらけの顔がほんの少し緩んだように見えた。


「立ち去る前に、教えてくれ。あなたは何者だ? 本当に魔女なのか?」


 クロトールが顔色をうかがって質問すると、女の表情はみるみる曇り、硬くなった。その変化の理由については、間もなく本人の口から語られた。


「かつて私は、皆から”湖の貴婦人”と呼ばれていました」


 女はうつむいて答えた。


「かつての私は清く澄んでいた。この身に青空を映し、内側には魚や水草を住まわせて。それが今では何も寄りつかず、映るものといえばこの世の悪意のみです」


「ということは、あなたの正体は湖なのか? 湖そのものか?」


 そんなことがあり得るだろうかと、疑問に思いながらクロトールが尋ねると、女はためらいがちにうなずいた。


「少しだけ、秘密を教えましょうか。私は湖であると同時に、“鏡”でもありました。陽光が水面に反射するように、あらゆるものが私を介して跳ね返る。だから私と話す時は気をつけなさい。私を水ではなく空だと思い込み、身を投げた鳥のなんと多いことか」


 クロトールはそこまで聞いてようやく気づいた。オレクを殺したのは彼女ではなく、言葉であると。オレクの罵倒(ばとう)が“鏡”の力によって跳ね返り、恐ろしい形で実現したのだ。とすれば、女が忠告したように、発言には細心の注意を払わなければならない。たった一つの失言が破滅につながることも十分あり得る。


「あなたには特別な力があるということか。あなたに向けられたものを、相手に跳ね返す力が」


 クロトールは言葉を選びながら、慎重に会話を続けた。それは想像以上に神経が磨り減る行為だったが、それでも好奇心から(しゃべ)らずにはいられなかった。


「それなら聞くが、仮に私が“(さち)あれ”と口にすれば、あなたを通じて私に幸運がもたらされるのか?」


 すると、女は何を思ったか、かすれた声で笑い出した。


「面白いことをおっしゃいますね。ですが、あなたは言葉の内容そのものより、何かを命じることの重みを考えるべきです。例えば“死ね”という言葉には、死が持つ意味に加えて多くの悪意が込められています。誰かに“幸あれ”と命じることは、果たして真の幸福を相手にもたらすでしょうか?」


「もたらすだろう」


 クロトールは信念をもって、そう断言した。


「なぜなら、そこには“祈り”が込められているから。そうあって欲しいという人間の願いが。それは言葉以上の、悪意さえしのぐ力を持つと私は信じる」


 すると物乞いの女は目を細め、柔らかく微笑んだ。垢だらけの顔にほんの一瞬、高貴で美しい女性の影が映り込んだ。


「気高い騎士には、ふさわしい武器が要るでしょう」


 そうつぶやくと、女は衣の袖に手を差し込んで、何かを引き出した。


 それは一本の剣だった。繊細な透かし彫りが施された両刃の長剣。(つば)には古の銘文が刻印され、柄には黒トカゲの革が、柄頭には涙型のサファイアが使用されている。ただならぬ品であることは一目見ただけで分かった。


 女は長剣を垂直に掲げると、片膝をついてクロトールに差し出した。


「受け取りなさい。この剣はあなたにこそふさわしい」


「私は審問官であって、騎士ではないのだが」


 と断りを入れつつも、クロトールはおそるおそる剣の(つか)に手を伸ばした。その剣には思わずそうしたくなるほどの、抗いがたい魅力があったからだ。試しにいくつかの型を演じてみると、それは最初から体の一部であったかのように、なめらかに動いた。身の毛のよだつ興奮が全身を巡り、体が熱くなるのを感じた。


「これに名前はあるのか?」


 少し息を切らしてクロトールが尋ねると、女はうなずき、


「<誇り>です」


 と答えた。


「良い名ではありますが、使う際は気をつけることです。”誇り”はさじ加減を間違えれば”(おご)り”にもなりうる。それらは光と影のように、切っても切れない関係にありますから」


 言い終えると女は背を向け、百ソレルの音を響かせながら歩き出した。クロトールは立ち去ろうとする彼女を慌てて呼び止め、尋ねた。


「待ってくれ。かつてのあなたが”湖の貴婦人”なら、今は何なのだ? 湖であるあなたが、なぜ<黒鉛の森林>をさまよい歩いている?」


「進み続けなさい。そうすれば自ずと答えを得るでしょう」


 女が振り向き答えると、そよ風が不意にクー・ファディルの方向から流れてきた。


「道すがら見える丘に登り、景色を眺めてみなさい。私はこの森で一番大きな湖ですから、すぐに探し出せますよ」


 物乞いの女は再び背を向け、歩き出した。それきり彼女が振り返ることはなかった。

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