1-3:プロローグ・仲間の死
それから一時間も経たないうちに雨が降り出した。水滴が頬に触れたかと思うと、それは次第に強まり、ついには土砂降りへ変化した。人間の体はずぶ濡れとなる一方で、森の植物は水を得ていきいきと輝き始めた。
我々は雨宿りすべきではないか――クロトールは雨に打たれる中で思案した。村に着く前に馬の蹄が駄目になっては、移動どころの話ではなくなってしまう。
幸い、リーダーのファリオンも同じように考えていたようで、
「一度止まって、休む場所を探そう」
と皆に提案した。間もなく雨宿りに適した巨木を見つけると、三人は真下に馬を移動させ、天気が落ち着くのを待った。このまま雨がやまなければ、ここで野宿する羽目になるかもしれない。乾いた焚き木を集めることさえ困難な現状では、できれば避けたいところではあるが。
だが、そんなクロトールの願いとは裏腹に、雨はその後も降り続けた。辺りから聞こえるのは水の音と、馬が蹄を鳴らす音だけだ。それからロナスの鬱陶しいぼやきも。だが、彼が用を足すために茂みに消えると、それすらもやんだ。
「出だしから憂鬱な気分だろうが、慣れることだ」
それまで太陽の位置を確かめていたファリオンが、不意に話しかけてきた。一行が歩いていたフェン・エノックへの道は、今は木立の陰に隠れて見えなくなっている。彼はチームが森で迷うことのないよう、細心の注意を払っていた。
「<黒鉛の森林>は大抵こんな感じだ。子供の機嫌みたいに状況がころころ変わって、予測するのが難しい。私が初めてここを訪れてから二か月が経つが、未だ生まれたての赤ん坊のような気分で毎日を過ごしている。なかなか厄介だぞ、この場所は」
「肝に銘じておきます」
クロトールはうなずき答えた。入る前から気づいていたが、やはり<黒鉛の森林>は普通の森ではない。進むたびに自分たちを拒絶し、追い出そうとする意思のようなものを感じる。なぜなのかは分からないが。
「他に知るべきことはありますか?」
「森は危険に満ちているが、それでも落ち着ける場所はある」
ファリオンは髭のない顎をなでつつ答えた。
「この辺りの集落は比較的安全だ。村には兵士がいるし、村人も帝国人に慣れている。だが、森が深くなればなるほど、助けは期待できなくなる。帝国に反感を持つ人々の割合が多くなるからな」
そこでいったん言葉を切ると、ファリオンは頭上の雨を気にしつつ、懐から一枚の紙を取り出した。その使い古された四つ折りの紙を、彼は広げることなくクロトールに押しつけた。
「濡れる前にしまった方がいい。それは辺り一帯の情勢を地図にしたものだ。青い印は安全を、赤い印は危険を表している。村に着いたらゆっくり見てみるといい」
「いただいて良いのですか? あなたの分は?」
クロトールが尋ねるとファリオンは、
「私の心配は不要だ」
と微笑を浮かべて答えた。
「内容は覚えているし、地図を書き換える機会もそうないだろうからな。神の奇跡でも起きない限り、この森の勢力図が大きく変わることはない。分かるんだ」
なぜそこまで言い切れるのだろう。不思議に思ったクロトールは、ファリオンに質問しようと口を開きかけたが、ちょうどその時、ロナスが木々の奥から飛び出してきた。転がるようにこちらに駆け寄ってきた彼は、目を見開き、浅く息をしていた。それだけで、何か良からぬことが起きたのだと分かった。
「大変だ。補給隊が、補給隊が——」
「どうした、ロナス。補給隊がどうした?」
ファリオンが立ち上がり、厳めしい表情で尋ねた。彼に少し遅れてクロトールも立ち上がった。よくよく見ると、ロナスの履いているズボンには、跳ね返りの泥が高い位置までついている。彼はそれくらい大急ぎで走ってきたのだ。
動揺したロナスは、息を切らしつつも乾いた声で、
「死んでいた」
と答えた。
「皆倒れてた。呼んでも返事がなくて、辺りは滅茶苦茶で。きっと誰かに殺られたんだ」
クロトールはファリオンの様子をうかがった。年長者で一団のリーダーを務める審問官は、決断を下すためにさらなる情報を求めた。
「他には?」
「分からない。俺は連中を遠くから見ただけだから。怖くて近寄ろうとは思わなかった」
ロナスは話の終わりの合図のように、深く息を吐いた。
「どうします?」
ファリオンはうつむき、顎に手をやりながら悩んでいた。彼ならきっと現場へ行こうとするだろう、とクロトールは思った。ファリオンは<黒鉛の森林>に自分の意志で来た人間だ。そのような人が知らないふりで済ませるとは思えない。
やがて顔を上げたファリオンは、両目に鋭い光を宿していた。その目を見たクロトールは、自分の予想が当たったと確信した。
「そこまで案内してくれ、ロナス。まだ息のある者がいるかもしれない」
***
現場は一行が先ほどまで歩いていた道のすぐ脇にあった。横転した荷台からあふれた物資の中で、大勢の人々がそれぞれ違う方向に倒れている。三人は慎重な足取りで近づくと、倒れた者たちの状態を一人一人確認して回った。しかし残念なことに、全員が事切れていた。
「生き残りはいない。全滅だ」
全ての亡骸を確かめた後、ファリオンが総括するように言った。
「ひどいものだな。クロトール、兵士たちの体についた傷を見たか?」
そう尋ねられた時、クロトールは馬たちをなだめている最中だった。死体が近くにあるせいか、どの馬も神経質になっていた。
「ええ。全体をざっと眺めてみただけですが」
「君の考えを聞きたいのだが、この現場で何が起きたと思う?」
ファリオンの言葉を聞いたクロトールは、自分が今試されているのだと感じた。審問官として、今後ともに働く同志として秤にかけられている。
「おそらく、彼らは獣によって殺されたのでしょう」
とクロトールは答えた。武器による殺傷でないことは明らかだ。平行に延びた三本線や半円を描く刺し傷は、動物の爪と牙が原因だろう。そして顔面損傷や骨折が見られないということは、相手は熊以外の別の生き物だ。
「私の故郷では、このような傷を見かけるのは日常茶飯事でした。これは狼の仕業です。傷の大きさを考えると、かなりの大型のようだ」
「狼だって?」
こちらに背を向けて立つロナスが、肩越しに口を挟んできた。彼は補給隊を襲った犯人が戻ってくるのを警戒して、見張りの番についていた。
「お前の話はどうも胡散臭いぞ、新入り。狼なんて、しょせん犬みたいなもんだろう? それが何人もの兵士を殺す? あり得ないな」
「私の故郷は<黒鉛の森林>同様、帝国の辺境にあった」
クロトールは重々しい口調で述べた。
「そのような場所では、あり得ないことが普通に起こり得るんだ。この舌を賭けてもいい」
これは決してはったりではなかった。クロトールは、きょとんとした顔でこちらを見つめるロナスに、自分の生まれ故郷で起きた事件をひと通り聞かせてやりたいと思った。そうすれば、彼の古びた常識を少しは改めることができるだろう、と。
だが、そのような機会が訪れることはなかった。<黒鉛の森林>がその本性を現し、突如牙をむいたからだ。




