1-1:ヤンクログ
その森は濃い影に覆われていた。
帝国領ラントスの北東、白き山々に囲まれた<黒鉛の森林>は、樹木が敷く影のせいでいっそう気味悪く見えた。奥へと続く唯一の道は、下草によって半ば隠され、それ自体が来訪者を待ち受ける罠のようだ。
きっと罠があるに違いない——森の入り口に立ったクロトールは、心の中でそう思った。ここから先は馬の速度を落として進まなけれはならないし、向こうには文明と決別した野蛮人が大勢いる。そいつらが藪の中からいきなり飛び出してきても、驚かない自信がある。
不意打ちだろうと罠だろうと、今さら慌てはしない。そもそもここに来る羽目になったのも何者かの陰謀、すなわち敵の罠にかかった結果ではないか。
「どうした、新入り? 小便をこらえるような顔をして」
同僚のロナスが、横から茶化す風に聞いてきた。低俗さとユーモアをはき違えて覚えているこの男は、いかにも性根に問題ありそうな陰気な笑みを浮かべていた。
「何でもない。森を見ていただけだ」
クロトールは短く答えて会話を切り上げようとしたが、ロナスは足をはい上がるヒルの如くしつこかった。
「嘘をつくな。怒らないから正直に話してみろ。今、怖いと思ってるんだろう?」
「止めろ、ロナス。お前の所業を神は見ているぞ」
一団の中で比較的話の通じる老人、ファリオンが間に割って入った。組織と自身の信仰に忠実な彼は、誰も好まぬ辺境での任務に自ら志願したのだ。異教の影響が色濃く残る山陰に、神の光を届けるために。その敬虔さは尊敬に値するものだったが、反面、彼には頑固で融通の利かない部分があった。
「彼に嫌がらせをするのはよせ。我々は異端者を捕らえるために団結せねばならない。他の同志たちのように森で姿を消したくないなら、なおさらだ」
帝国から審問官として派遣されたクロトール、ロナス、ファリオンの三人は、消息不明になった前任者の後任として、異端者追跡の任務を与えられていた。職務中に<黒鉛の森林>で姿を消す審問官は増加傾向にあり、最近ではわずか三か月の間に二人が消えている。最年長でリーダーでもあるファリオンは、自分たちが同じ目に遭いはしないかと警戒しているのだ。
「この先は気を引き締めて進もう。同志たちの悲劇を繰り返してはならない」
「”同志”、ね」
ファリオンの言葉を受けたロナスが、胡散臭そうに首をひねった。
「そのいなくなった連中は、果たして今も同志なのかどうか。今頃は犯罪者の側にすっかり寝返って、俺たちを襲う計画でも立てているかもしれませんよ。殺される側でいるより、殺す側に回った方が楽ですからね」
「ロナスよ。これから仕事だという時に、わざわざ士気を下げるようなことを言うのはなぜだ?」
ファリオンは不愉快に顔をこわばらせたが、ロナスは気づいていないかのように続けた。
「だって、おかしいじゃないですか? 消えた審問官は何人もいるのに、未だに一人の遺体も見つかっていないんですよ。森の獣が全員の死体をきれいさっぱり、骨まで食べ尽くしたとは思えない。中には寝返った奴もいるはずですよ。元々割に合わない仕事ですから」
ロナスの主張は筋の通った部分もあったが、それでもファリオンの任務への情熱を削ぐには至らなかった。ファリオンは馬に乗ったまま背筋を伸ばすと、<黒鉛の森林>を見据えて次のように言った。
「ならば我々がこの地に派遣される、最後の審問官であることを祈ろう。我々が首尾よく異端者を捕らえたなら、同じような悲劇は二度と起きないはずだ。さあ、行くぞ。神の光とともに!」
ファリオンは神話の英雄のように勇ましく先陣を切った。それを見たロナスは肩をすくめると、クロトールに意味深な視線を投げかけた後、自らも森へ入っていった。異端者と無数の危険が潜む、<黒鉛の森林>の中へ。
最後に残ったクロトールは、今後見納めになるかもしれない広い空を見上げた。頭上に広がる青空は、出発当初に比べて雲が厚くなり、太陽も隠れてしまっている。この後雨にならないと良いのだが。
***




