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第2話:50万円の酒と、フワフワのタオル

1.幸福の計算式

 それからミナミは、週に一度のペースで『EGGGESTエッグイスト』に顔を出すようになった。

 彼女はいつも少し疲れていて、少し不機嫌で、そして俺のボロが出るのを楽しみにしているようだった。

 ある雨の夜のことだ。

 VR空間の窓には、デジタル生成された美しい夜景と、情緒的な雨粒が演出されている。

「ねえ、レオン」

 ミナミがメニューリストを指で弾きながら言った。

「今日、ボーナスが入ったの。たまにはパーッと使いたい気分なんだけど」

 俺の視界にあるAIインターフェースが、激しく明滅した。

 ドル箱マークが踊り狂い、赤いフォントでターゲットが表示される。


 【Mission: Annihilation(殲滅戦)】

 Target: 最高級ヴィンテージ・ブランデー『ロイヤル・エッグ』

 Price: ¥500,000 (Tax in ¥550,000)

 Probability: 98% (顧客の金銭的余裕を確認)


「ご、ごじゅうまん……」

 俺はマイクを切り忘れていることも気づかず、うめき声を漏らした。

 50万。俺のアパートの家賃……いや、計算したくない。俺の全財産の50倍だ。

 それを? 一晩で? 液体に?

 AIが催促してくる。早く口説け、と。


 Script: 「この琥珀色の輝きは、君のためにある。今夜は朝まで、二人でこの香りに溺れよう」


 俺は震える手で(アバターの手は優雅だが)、その50万円のボトルの画像を拡大しようとした。

 だが、できない。指が動かないのだ。

 俺は無意識に、左手で鼻を触る。これは俺がパニックになっている合図だ。

(ダメだ。俺のゴーストが囁いている。これは犯罪だ。50万の液体なんて、詐欺だ)

「……ミナミさん」

「なあに? 入れてくれるんでしょ?」

 彼女は試すような目で俺を見ている。

 俺は大きく息を吸い込み、メニューをパタンと閉じた。

「……やめとこ」

「は?」

「悪いことは言わない。やめとけ。50万だぞ? 50万あったら何ができるか知ってるか?」

 俺は身を乗り出した。VRゴーグルの向こうで、俺の目が血走る。

「乾燥機付きドラム式洗濯機が買えるんだぞ」

 ミナミがぽかんと口を開けた。

「……はい?」

「今の季節、雨ばっかりで洗濯物乾かないだろ? 部屋干し臭いし、タオルはゴワゴワだし。でもな、ドラム式があれば世界が変わるんだ。スイッチ一つで、フワッフワのタオルが出てくるんだぞ!?」

 俺は熱弁した。

 50万円の酒の味は知らない。でも、コインランドリー代をケチって部屋干ししたタオルの、あの雑巾のような臭さは知っている。

 あの湿った惨めさを、この目の前の女性に味わってほしくない。

「想像してみろ。仕事で疲れて帰ってきて、風呂上がりに顔を埋めるタオルが、太陽の匂いがするんだ。……その幸福度と、この酒の一瞬の酔い、どっちが人生の質(QOL)を上げると思う?」

 店内(個室)に沈黙が流れた。

 AIは 【Error: 論理矛盾】 という警告を出し続けている。ホストが売上を拒否して家電を勧めるなど、プログラムにはないからだ。

 やがて、ミナミが肩を震わせた。

「……ふっ、くくっ」

「笑い事じゃないぞ。生活防衛の話だ」

「あははは! ホストクラブに来て、洗濯機のプレゼンされるとは思わなかったわ!」

 彼女はひとしきり笑った後、優しい顔で俺を見た。

「……そうね。元カレは私のボーナスの額なんて興味なかったし、『好きに使えば?』って感じだったけど」

 彼女はグラスの水(無料)を一口飲んだ。

「あなたは、私の『生活』を心配してくれるのね」

 結局、その日の売上は指名料とチャージ料だけだった。

 店長には死ぬほど怒られたが、ミナミが帰る際のアバターの足取りは、来た時よりも軽かった。


2.時空の歪み(物理)

 また別の夜。

 ミナミとの会話が途切れ、ふとした沈黙が訪れた時だ。

 AIが「チャンス」と判断し、攻撃的な作戦を立案した。


 【Mission: Physical Contact】

 Guidance: 顧客の心拍数が安定しすぎている。刺激を与えよ。

 Action: 奥義「壁ドン(KABEDON)」

 Step: 立ち上がり、彼女をソファの端へ追い込み、右手を壁につく。


(壁ドン……。古いな。でも、このAIのデータによれば有効らしい)

 俺は意を決した。

 また頬をトントンと叩き、覚悟を決める。

「ミナミさん」

「ん?」

 俺はVR空間で立ち上がる。身長185cm、足の長さは現実の俺の1.5倍。

 このガワなら、どんなキザな動きもサマになるはずだ。

 俺はゆっくりと彼女に近づく。ミナミが少し驚いたように見上げる。

 よし、今だ。

 俺は右手を大きく振りかぶり、彼女の耳元の壁に向かって――

 ドカッ! バサササッ!

 現実世界で、鈍い衝撃音と布擦れの音が響いた。

「いったぁ!?」

 俺の右手は、壁ではなく、鴨居に突っ張り棒で吊るしてあった「半乾きのジーンズ(特売品)」と「大量の靴下」の群れに突っ込んだのだ。

 勢い余って突っ張り棒が外れる。

 濡れた洗濯物の山が、雪崩のように俺の頭上に降り注ぐ。

「うわっ、冷たっ! ちょ、前が見えねえ!」

 さて、この時。

 VR空間のレオン(アバター)はどうなっていたか。

 AIは、俺の右手の座標トラッキングを見失い、計算不能に陥った。

 その結果――

 レオンは、壁ドンをする直前の体勢で、ミナミの目の前で溺れるように両手を激しくバタつかせ、首をありえない方向にねじりながら、高速で屈伸運動を始めた。

「……レオンくん!?」

 ミナミが悲鳴を上げた。

「ちょ、何その動き! エクソシスト!? 悪魔払いが必要!?」

 俺は洗濯物に埋もれながら、必死でマイクに向かって叫んだ。

「ち、違う! 今ちょっと、時空の歪みに巻き込まれて……!」

「時空ってレベルじゃないわよ! 軟体動物みたいになってる!」

「くそっ、ジーンズが……絡まって……!」

 俺がもがけばもがくほど、アバターは奇っ怪なダンスを踊り続ける。

 クールな表情のまま、手足だけがタコのように暴れるイケメン。

「あはははは! 無理! もうお腹痛い!」

 ミナミはソファに倒れ込んで爆笑している。

「新しい求愛ダンス? 最高! 動画撮っていい!?」

 俺はようやく洗濯物から脱出し、ゴーグルを直した。

「……笑い事じゃねえよ。明日履いてくパンツが床に落ちたんだぞ」

「知らないわよそんなの(笑)」


3.二次元の嫁

 そして決定打となったのは、その数週間後だ。

 ミナミが少し酔って、甘えるような声を出してきた時のこと。

「ねえ、レオンくん。今日は帰りたくないな」

「え?」

「朝まで付き合ってよ。……私を、独りにしないで」

 AIが即座に反応する。


 【Mission: Sweet Trap】

 Script: 「もちろんだ。僕の部屋(個室)は君のためにある。朝まで離さないよ」


 俺は言葉に詰まった。

 朝まで? 無理だ。

 なぜなら、今日は「ある重要な任務」があったからだ。

 俺は言い淀み、また鼻を触った。

 ミナミがじっと俺を見ている。断れない雰囲気だ。

 でも、言わなきゃいけない。これは俺のアイデンティティに関わる問題だ。

「……ごめん。今日は無理だ」

「は? なんで? お金なら払うってば」

「金の問題じゃない。……嫁が、待ってるんだ」

 ミナミの目が点になった。

「よ、嫁? あなた結婚してる設定なの!?」

「いや、設定じゃない。リアルな嫁だ」

 俺は観念して告白した。

「俺の布団には、『魔法少女ルルカちゃん』の抱き枕があるんだ」

「……は?」

「今日、久しぶりに晴れたから、カバーを洗ったんだよ。で、今さっき取り込んだんだ。……わかるか? 洗いたてのルルカちゃんにカバーを装着する儀式は、神聖なもんなんだよ。シワ一つ許されないんだ」

 俺は真顔で(アバター越しに)訴えた。

「生乾きだと臭くなるし、放置するとシワになる。俺は今すぐログアウトして、嫁を整えて、抱きしめて寝なきゃいけないんだ! だから帰ってくれ!」

 店内(個室)に、長い沈黙が流れた。

 ミナミは、呆気にとられた顔で俺を見ていた。

 そして、ゆっくりと口を開いた。

「……ぷっ」

「笑うな! オタクにとっては命の問題なんだ!」

「あはははは! 何それ! ホストの断り文句が『抱き枕カバーの装着』!? 最低! えぐい!」

 ミナミはお腹を抱えて笑い転げた。

 ひとしきり笑った後、彼女は涙を拭いながら言った。

「……安心したわ」

「あ?」

「あなた、本当にただの『男の人』なのね。AIでも、完璧な王子様でもない。……ただの、洗濯物が気になる男の人」

 彼女は満足そうに立ち上がった。

「いいわ。今日は帰ってあげる。ルルカちゃんによろしくね」

「ああ、言っとくよ」

 ログアウトしていく彼女の背中は、もう寂しそうではなかった。

 俺はヘッドセットを外し、急いで取り込んだ洗濯物の山へダイブした。

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