孤独な王子と前世の記憶を抱いた令嬢は、癒しの魔導書に導かれる
初投稿作品です。
___また、この夢。
柔らかな光に包まれながら、私は最期の瞬間を思い出す。
__白い天井。閉ざされた病室。誰もいない。間に合わなかった家族。
「誰もいない.......のね....」
それが、私の前世での最期の記憶。
「.......っ、はっ」
静まり返った王立学園の図書室、はっと目を覚ました彼女は思わず胸に手を当てた。
夢とは思えないほど鮮明な記憶。けれど、確かに感じたあの空気の冷たさ、孤独の重さ。
心臓が、痛いほどに鳴っている。
私はここでは公爵令嬢のレティシア・クラウゼ。
けれど心の奥底に残るのは、病院で誰にも看取られず最期を迎えた一人の少女の記憶だった。
あのときの孤独が、私の心に影を落としたのだろう。人との距離を、無意識のうちにおいてしまう。今世での家族であっても。
優しさに触れるのが怖い。失った時の痛みが、怖いから。
ふと視線を落とすと、机の上には見覚えのない古びた一冊の本が置かれていた。擦り切れた表紙には紋章のような模様が刻まれており、どこか神聖で同時に不穏な気配を感じさせた。
(....こんな本、いつここに?)
恐る恐る指を伸ばし、突然目の前に現れた本のページをめくる。
見慣れない文様といくつもの円が重なった図形が目に飛び込んできた。
(.....これは、魔法陣?)
目を凝らすと、その周囲には淡く光る古代文字が綴られている。意味はわからないはずなのに、なぜか___読める。
「癒しの魔法.....発動の、構造......?」
ぽつりとこぼれた自分の声に、レティシア自身が驚いた。
そのとき。
「......その本、どこで手に入れたの?」
背後から、静かながらも緊張を含んだ声が響いた。
振り返ると、金色の髪に碧い瞳を湛えた少年__リオン・ヴァルトハイム第二王子が驚いたように、しかしどこか探るような眼差しでこちらを見ていた。
「君は.....クラウゼ公爵家の令嬢だよね?本来王宮で保管されているはずの魔導書が、なぜ君の手元にあるんだろうね?」
声は穏やかだがその奥に隠された焦りや警戒を、レティシアは微かに感じ取った。
「わかりません....。気がついたら目の前にあって....私、何も.....」
レティシアが困惑のまま視線を落とすと、魔導書に刻まれた紋章が淡く光を放っていた。
その光を見てリオンの目が一瞬だけ見開かれる。リオンは魔導書に目を落としながら、隣のレティシアに視線を向けた。
「.....まさか。君、これが......読めるのか?」
彼の声音には驚きと、抑えきれない好奇心が滲んでいた。
それは、長い年月眠り続けていた魔導書に、ようやく応えられる人物が現れたという衝撃と期待が入り混じったものだった。
リオンの声に、レティシアは無意識に頷く。ページに触れた指先が微かに震える。すると、淡く光る文字が浮かび上がり____その意味が、彼女の頭の中に直接流れ込んできた。
「これは.....かつて失われた癒しの魔法の、再発見....?」
そう呟いた瞬間、頭の中で何かが弾けた。血の気が引き、全身に震えが走る。視界の隅に、病室の白い天井___前世の記憶が、一瞬にして蘇った。
「私....この魔法、知ってる........」
声が震えた。懐かしくて、切なくて、でも確かにそこにあった。前世で誰かを救うために使っていた癒しの力が、自分の中に流れていたことを____思い出していた。
そして今、あの魔力の感覚が戻りつつあることも、レティシアは感じ取っていた。
リオンが足早に近づき、レティシアの隣の椅子を引いた。まるで誘われるように、彼は迷いなく腰を下ろす。
「少し.....一緒に読んでもいいかな?」
レティシアは黙って頷き、二人で静かにページをめくる。
癒しの魔法がどうやって使われていたのか___
魔法の発動構造、その魔力の流れや唱える言葉、そして、何よりも大切なの”誰かを救いたい”と願う心。
かつて戦場で多くの命を救い、平和への希望となったその魔法は、ある日を境に使えるものが現れなくなった。
力が失われたわけではない。ただ、継ぐ者がいなかっただけ。やがて癒しの魔法は、記憶の中に静かに埋もれていったのだ。
「......本当に.........君、これが読めるんだね」
声は小さく、それでいて驚きと確信が混ざっていた。
レティシアは、ページから目を離さずに答える。
「”読む”というより......”感じる”の。頭じゃなくて、心で理解している気がするの。」
リオンはその言葉に目を見開き、すぐに優しく微笑んだ。
「.......ありがとう。もしかしたら、君が現れたことが奇跡なのかもしれない」
静かな図書室に、ふたりだけの世界が生まれていた。
レティシアの指が、ふとあるページで止まる。
そこだけ紙の質感が微かに異なり、まるで呼吸するように熱を帯びていた。
「........ここ......なにか、ある」
ぽつりと呟いたレティシアの言葉に、隣にいたリオンが小さく反応した。彼女の声に引かれるようにして、本に視線を落とす。
「何か感じるのか?」
「うん.....なんだろう.....誰かの”思い”? ”意思”? そんなものを、感じるの」
リオンはわずかに目を細め、ページの光を見つめるレティシアに視線を移した。
数秒の沈黙ののち、ふっと息をつくように言葉をこぼす。
「......やっぱり、君には感じ取れるんだな。この魔導書は、兄が遺したものなんだ」
その言葉に、レティシアは思わず顔を上げた。
「兄」とは___まさか、と脳裏をよぎる名前。
「.....え?兄って.......アゼル殿下のこと?」
思わず口にした名が、自分でも信じられないように響く。
かつて、この国の第一王子だった____アゼル殿下。
リオンは小さく頷いた。その瞳に宿るのは懐かしさと、かすかな寂しさ。
「兄が生前、こっそり進めていた魔法研究の中で、遺した唯一の遺物だ。誰にも読めず、ただ保管されていた....ずっと、眠っていたんだ」
レティシアは視線を落とし、再び魔導書のページをそっと撫でた。
文字の合間に淡く揺れる光の粒が、ゆっくりと息をするように揺れている。。
「......じゃあ、この光は......」
囁くように言いながら指先を滑らせると、ページの一箇所に違和感を感じた。ほんのりと温かく、まるで微かに脈打つような感触があった。
ページの中央、他の箇所とは異なる魔力の残滓。淡く揺らめく魔力の流れの奥に、はっきりと”誰か”の気配がある。
「.....ここに...........誰か、いる」
レティシアがそう呟いた瞬間、魔導書が一際強い光を放った。
光の粒が頁の上に舞い上がり、ゆっくりと人の形を取っていく。
やがて現れたのは____淡く透けた姿の少年。
金髪の髪に、澄んだ碧い瞳。リオンによく似た顔立ちでありながら、どこか儚く。大人びた雰囲気を纏っていた。
高貴で落ち着いた気配を漂わせながらも、その眼差しにはどこか寂しさが宿っていた。
「……この時を、どれほど待ちわびたことか」
静かに、けれど確かに響いた声に、レティシアの胸がざわつく。
「あなたは.......アゼル……殿下......?」
信じられないものを見るように目を見開いたレティシアの声に青年はゆっくりと彼女に向き直り、柔らかな微笑を浮かべた。
「そう。私は___アゼル・ヴァルトハイム。君たちを待っていた」
隣で息を呑んだリオンが、震える声でその名を呼ぶ。
「......兄上...........」
リオンの震える声に、アゼルはゆっくりとその方へ顔を向けた。
淡く揺れる光の中で、彼の瞳がやわらかく細められる。
まるで、幼い頃に迷子になった弟を見つけた兄のように___安堵と、懐かしさと、深い慈しみを湛えた眼差しだった。
「久しいな、リオン.......。お前には......随分と、苦労をかけたな」
その言葉に、リオンの方がぴくりと揺れる。名前を呼ばれた瞬間、彼の瞳には。言葉にできない熱が宿った。
感情の波に沈みそうになっているリオンの隣で、レティシアは静かに一歩前へ出た。
胸に手を当て、深く礼をする。
「はじめまして、アゼル殿下。レティシア・クラウゼと申します。突然のことで.....ご無礼があればお許しください。ですが、こうしてお目にかかれたことを、心より光栄に存じます」
言葉を紡ぐ声は静かだが、その瞳には確かな敬意と、胸奥から湧き上がる熱が宿っていた。
レティシアの挨拶を受け、アゼルは一瞬目を細めると、静かに頷いた。
その眼差しは、どこか優しく、そして何かを見透かすように深い。
「......クラウゼ公爵家の令嬢であったな。話には聞いている。だが....今の君はそれ以上の存在だ」
アゼルの言葉に、レティシアは思わず顔を上げた。驚きと戸惑い、そしてどこか怖さの混じった視線を向ける。
アゼルは続ける。
「癒しの魔法___その力は、私が生前、唯一”未来へ託すべき光”と信じたものだ。そして、魔導書が君に反応したこと....偶然だとは思えない」
リオンが息を吞む音がした。レティシア自身も、胸の奥に静かに灯る何かを感じる。
「君がここへ辿り着いたのは、きっと意味がある。リオンと......そして、この国の未来にとってもな」
そう言ってアゼルは深く頷いた。
それは、長く閉ざされていた扉が、ようやく開かれたような確かな一歩だった。
静かに瞬く光の中で、アゼルはゆっくりと目を閉じた。そして語り始めるように、穏やかに言葉を紡いだ。
「....私は、癒しの魔法の研究をしていた。争いの絶えぬこの世界に、少しでも希望をもたらしたくてね」
その言葉に、レティシアの胸が静かに疼いた。
(希望.....)
誰かのために、自らの力を捧げようとするその思いに、彼女はどこかで憧れを抱いていたことを思い出す。
前世___病に伏してからというもの、レティシアは癒しの力を持っていたにも関わらず、自分自身でさえも救えなかった。次第に力は弱まり、誰かを癒すことも叶わなかった。
あの病室で、ただ静かに、最後の瞬間を迎えるのを待つしかなかった自分。
誰にも頼られず、誰にも必要とされず、ただ弱っていく身体と向き合うしかなかった孤独。
それでも___本当は、誰かのために力を使いたかった。
けれど、前世でも今世でも、それほど強くはなれなかった。ただ静かに、自分の痛みや喪失を抱え込むばかりだった。
(......でも、今は)
光の中で語られるアゼルの言葉が、心の奥深くに染み渡っていく。
彼のように、誰かのために未来を信じて力をつくそうとした人の思いが、いま確かに彼女の中に宿ろうとしていた。
「だが、あるとき.....魔力が暴走した。このままでは研究そのものが危険になると思った私は、魔導書に封印を施した。誰にも悪用されないように.....」
アゼルの語る過去に、レティシアは思わず唇を噛んだ。命を懸けて、誰かを守ろうとした覚悟。その重みに胸が締め付けられる。
「けれど___あのとき、魔力は不安定だった。封印の中心にいた私は....そのまま魔導書と共に、この中に囚われてしまったんだ」
静かに、けれど確かに響くその言葉に、レティシアの視界が少し滲んだ。
(そんなにも、孤独だったのに.....どうしてこんなに穏やかなの.....?)
リオンの肩がぴくりと揺れた。アゼルは弟をまっすぐに見つめていた。
「リオン。お前が私の死に責任を感じて、魔導書の研究に人生を捧げていたこと.....ずっと見ていた。」
その言葉に、レティシアははっと息を呑んだ。
リオンが長年抱え続けてきた想い___兄の無念を背負い、ただ一人で歩んできた時間。
それは届かぬ祈りだったはずなのに。
けれどアゼルは、それを知っていた。見ていた。ずっと弟を想い、見守っていたのだ。
「.....ずっと、見てくれていたんだね、兄さん.....」
リオンの声はかすかに震えていた。けれどその瞳にはもう、迷いも後悔もなかった。
「僕は.....ただ、兄上のようになりたかった。兄上が、なんのためにこの魔導書を残したのか.......知りたかった。兄上の願った未来を、いつかこの手で叶えたかった」
握り締めた拳に込めたのは、過去への悔いではなく、これから進む未来への決意。
アゼルの微笑みが、淡い光の中で揺れる。
「......ありがとう、リオン。その言葉を聞けただけで、私はもう十分だ」
兄の静かな声に、リオンはただ黙って頷いた。
目元に滲むものを拭うこともせず、ただ真っ直ぐにその姿を見つめていた。
そして、アゼルの視線がレティシアへと向けられる。
その瞳に射抜かれた瞬間、彼女はまるで心の奥に触れられたような気がした。誰にも見せたことのない、見せたくなかった自分の”弱さ”が、そこに映っている気がして____思わず息を呑む。
「.....君の魔力から、深い痛みと、不安が伝わってくる」
静かな声だった。けれど、その一言はレティシアの胸を真っ直ぐに貫いた。
「まるで、長い時間.....誰にも届かない場所で、自分を責め続けてきたような、そんな.....」
「......どうして、......わかるんですか?」
気づけば、声が震えていた。
自分でさえ、まだ言葉にできていなかった感情だった。誰にも知られたくなかった。けれどそれは、あまりにも的確すぎて、怖くなるほどだった。
アゼルは少しだけ目を細めて微笑む。
「理由は、私にもはっきりとはわからない。ただ.....癒しの素質を持つ君の魔力が、私に語ってくれるんだ。君が、どれだけ傷ついて、それでも歩こうとしてきたのかを」
レティシアは、胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。
それは痛みではなく、赦しに近い何かだった。
(......私は、本当に.....誰にも必要とされていなかったの....?)
心のどこかに残っていた問いが、そっと頭によぎる。
けれどその瞬間___ふと、まぶたの裏に浮かんだのは、病室の記憶だった。
白く照らされた窓辺。
仕事の合間に足早に訪ねてきた母が、扉の向こうでほんの少しだけ見せてくれた、どこか照れたような微笑み。
弟が、手先の不器用さを隠すようにして残していった、花の絵が添えられた拙い手紙。
父が、帰り際に置いていったのは、革の表紙の擦り切れた小さな書物と、「無理はするな」と小さく残された声だった。
ああ、そうだ。
どうして忘れていたんだろう。
_____私、愛されてた。
不器用ながらも、拙きながらも___確かに、あの家族は私を案じ、心を寄せてくれていた。
それを、勝手に「なかったこと」にしていたのは、私の方だったのかもしれない。
ぽつりと、涙がこぼれた。
「.....ありがとうございます、アゼル殿下。私....忘れていたんです。誰かが私を想ってくれていた日々も、それに応えたかった気持ちも。ずっと、胸の奥にあったのに。」
アゼルは静かにうなずく。
「癒しとは、力そのものではない。誰かを想い、想われる心があってこそ、真の力となる。君にはその素質がある。......いや、もうあるのだろう、きっと。」
ふと、アゼルは空を仰ぐように目を細めた。
「.....本当は、もう少し君たちと話をしていたかった。だが....どうやら時間のようだ。」
言葉に呼応するように、彼の体が淡い光に包まれていく。魂が天へと還る支度を始めていた。
レティシアはその光を見つめながら、名残惜しそうに唇を噛んだ。
けれど、アゼルは最後に穏やかに笑い、すぐそばに立つ金髪の少年___リオンへと視線を向ける。
「....リオン。過去ばかりを追わなくていい。お前には、お前にしか歩めない未来がある。どうか、顔を上げて、前を向いて進んでくれ。」
リオンの目がわずかに見開かれる。その言葉は、優しくも確かに彼の胸に届いていた。
「兄上.....」
その言葉を最後に、アゼルの姿は光の粒となり、静かに天へと還って行った。
まるで春の雪が溶けるように、穏やかに、やさしく。
残された空気に、どこかあたたかな余韻が満ちていた。
光の粒が夜空に消え、静寂が戻る。
沈黙の中、レティシアはふと隣に視線をやる。
リオンは微かに目を伏せたまま、空を見つめていた。
「......兄上は、昔からそうだったんだ。優しくて、強くて。気づいたら、背中ばかり追っていて。」
その言葉には、誇りと、寂しさと、微かな悔しさが滲んでいた。
「きっと....その背中を追いかけて来た日々が、今のあなたを作っているんですね。」
そう言ったあと、レティシアはそっと目を伏せる。
(あの記憶がずっと胸の奥に刺さっていた。誰にも看取られずに死んだあの日。心細くて、怖くて.....世界に置き去りにされたような気がして。それから私は、人と深く関わるのが怖くなった。どうせ失うのなら、最初から近づかなければいいって、そうやって自分に言い聞かせてきた。でも___)
「私も.....今までの日々を無駄だとは思いません。逃げていた時期があったとしても、それがあったから、今の私がここにいる。だから.....もう一歩進んでみたいんです。」
(孤独の中で凍っていた心が、少しずつ溶けていく。そのきっかけをくれたのは、今日という時間。アゼル殿下の言葉も、リオン殿下の隣にいたこの瞬間も、きっと私にとって忘れられないものになる)
リオンは彼女の言葉を静かに受け止め、やがて空を見上げた。
「.....そうだね。君の言う通り、これまでのことは決して無駄じゃなかった。だけど、これからは過去ばかり振り返るんじゃなくて.....民のためにも、未来に向かって行動しないとね。」
決意を宿したリオンの言葉に、レティシアはそっと頷く、けれど次の瞬間、リオンは少しだけ表情をゆるめて、少年のような眼差しを彼女に向けた。
「......また、君と話せたら嬉しいな」
その声は、ささやきのように静かで
でも真っ直ぐで____
レティシアの胸に、そっと波紋を広げていく。
(こんなふうに心が揺れるのは、いつぶりだろう)
彼女は微笑みながら、小さく「ええ」と頷いた。
春の陽が、ようやく長い冬を溶かすように差し込む頃。
王立学園の庭には、白い小花がそっと芽吹き始めていた。
レティシアは一人、図書室の片隅に立っていた。
あのとき、アゼルがいた場所___光の中へ還って行った、あの静謐な瞬間を胸に抱きながら。
(癒しの魔法が、誰かを救う力になるなら。私も今度こそ____)
誰かに必要とされたいのではない、自分の意思で誰かの力になりたい。
そう思える今の自分が、少しだけ誇らしかった。
ふと、背後に気配を感じる。
「......また、ここにいたんだね。」
振り向けば、春の光を受けたリオン殿下が立っていた。金の髪が風に揺れ、どこか柔らかな表情を浮かべている。
「ここにいると、なぜか心が落ち着くんです。......リオン殿下も、来てくださったのですね。」
そう口にした自分の声が、少しだけ柔らかくなっていたことに、レティシアは気づく。
前世では、ずっと孤独だと思っていた。誰かに頼ることも甘えることも、もう諦めていたはずなのに。
けれど今は、こうしてそばにいてくれる人がいる。
胸の奥で、何かがふわりとほどけていくのを感じながら、レティシアはそっと目を細めた。
こんな風に、誰かと穏やかな時間を分かち合える日が来るなんて、思ってもみなかった。
「君がここにいる気がしてね。」
「......それって、私のことを見つけにきてくれたってことですか?」
自分でも思いがけないほど、素直な言葉だった。
こんなことを聞くつもりじゃなかったはずなのに。でも、どこかで確かめたかった。誰かに、そう言ってもらいたかった。
リオンは少しだけ目を見開いた後、柔らかく微笑んだ。
「うん。君がここにいる気がしたから。.......でも、それだけじゃないよ。」
金の髪が風に揺れ、春の光を受けてきらめく。
「言葉で説明するのは難しいんだけど......多分、それは.....会いたかったってことなんだと思う。......君に。」
その声はとても穏やかで、どこまでも真っ直ぐだった。
レティシアの胸が、静かにきゅっと締め付けられる。
リオン殿下は、誰にでも優しい人だ。けれど____この言葉だけは、今、この瞬間だけは自分だけのもののように思えた。
風が止み、ふと静寂が降りた。
リオンはゆっくりと手を伸ばす。レティシアの髪の先に触れるのは、春の光よりも柔らかくて、けれど迷いのない仕草だった。
「......風に揺れて、綺麗だったから。」
そっと髪を指ですくいながら、彼は優しく微笑む。
「でも.....本当は....君に、触れたかったのかもしれない。」
その言葉に、レティシアの胸の奥が、きゅっと締めつけられる。戸惑いと、嬉しさと、こぼれそうなほどの温もりが溢れてくる。
「リオン殿下.......」
声が震えそうになって、彼の名前を呼ぶだけで、精一杯だった。
すると、リオンはそっと彼女の手を取り、指先を重ねる。
「ねぇ、レティシア。.....もし、君がもう一歩踏み出したいと思ってくれるなら。僕は、何度でも隣に来るよ。」
その言葉は、まるで告白のように甘く、けれど強く胸に響いた。
____この手を.....離したくない。
レティシアは小さく頷いた。今はまだ、はっきりとした言葉はない。けれど確かに、少しずつ、彼女の心は、歩き出していた。