それでも針は刺さる
恍は窓の外を眺めて、少年の視線が自分とは違う所を見たことに気がついた。方角的に庖厨がある方を見上げている。恍は一瞬その意味がわからなかったが、自室を出て廊下を曲がってみた時にわかった。廊下の先にある室の扉が開いたままにされていた。そこは繰珠が勝手に住み始めた室だった。
裏手口を出ればちょうど少年が眺めていた方角の庭に出られる。室に入って茶の準備を始めれば、戸が開け閉めされた音が邸に響いて来る。繰珠についで仁の声も聞こえてくる。昨日は遅くまで寝ていたから、聴いていなかったのか、声が興奮気味だ。
「おい、恍。あれ弟弟子だろ?」
室に入ってきた繰珠の第一声はそれだった。後ろから出てきた仁は、庖厨へ向かって行った。茶の準備はそっちに任せた方がよさそうだ。恍は室へ引き返して、笛の特徴をしゃべり始めた繰珠を無視して、椅子に腰かけた。
「この前来て、吹くようになった。名前は……」
恍はふと、少年の名前を思い出そうとした。そういえば、ガキとしか思っていなかった。名前がいまいち思い出せない。
「名前、忘れたのか?」
繰珠が言葉を遮って、尋ねてきた。ぽかんと、不思議そうに口を開いている。恍はそれに向き直って、じっと名前を思い出そうとした。
「あー……なんだったか。あ、文、文に書いてあるだろ」
考えてみたが、思い出せそうになく、先に少年から貰った文のことを思い出した。言って立ち上がり、戸棚を漁り、あの細い字を目でなぞる。
「……『黄林』」
「ほんとに忘れてたのかよ。ひでぇやつだな」
文を繰珠が横から覗き見してきた。別に読まれて困るようなことは書かれていないので、かまわないが、耳元で大声を出すのはやめて欲しかった。
「うるさい。それに……よくある名すぎる。本名か? 芸名でもつけたほうがいいんじゃないか?」
よくいる苗字に名前、字面が簡素過ぎて逆に覚えづらい。あの少年の名前が、黄林。なんだか頭の中で、それが結びつかなかった。あの印象的な少年と、簡素で個性を感じない名前が、つながらない。
「芸名……酷い言いようだよ、ほんと。女装までして下働きしてるってのに、報われないねぇ」
恍は隣に立っていた繰珠を見つめた。言葉の意味が、すぐには理解できなかった。繰珠はこちらの視線に気づいて、意地悪く笑って見せた。恍はその笑みに嫌なものを感じながら、繰珠の顔を見つめ直すしかなかった。
鈴歌は肩を落として、酒家へ帰った。邸へ駆けあがり、戸を叩くと葉師は渋い顔で出て来た。選曲のことを切り出したら、「考えておく」と小さく言い、戸を閉められてしまった。
返事がもらえなかった。感想が気になる。仕事に集中できるか、鈴歌は不安に思いながら、速足で町を歩いた。朝の風と、すれ違う人々の足の速さが冷たかった。
鈴歌は葉師へ返事を催促できなかった。あまりにも、彼が困ったような顔をしていたから、聞いてはいけないことのように思えて、迷っている間に戸は閉められた。
簡単に切り離されてしまう、そんな関係なのだろうか、未だに。まだ、葉師は鈴歌を認めてはくれていないのは知っていた、けど少しくらいは、ほんの少しくらいは認めてもらえているんじゃないか、という期待が頭の隅にあった。
その感情が薄らいでいく。期待するだけ無駄なのかもしれないと思えてくる。そもそも期待するよりも、現実にする方法を考えたほうがいいのは、よくわかっている。それだけに辛かった。それがうまくいかないから、期待して、夢を見ようとしてしまう。
返事を先延ばしにされたのは、あの選曲に納得していないからなのだろうか。少なくとも満足しているわけではなさそうだった。また新しい選曲を組まなければいけないと、鈴歌は拳を握りしめた。
――その前に、仕事!
酒家の給仕にも慣れてきて、大きな失敗をすることはなくなった。酒家の仕事に慣れれば慣れるだけ、笛に集中できる。逆に笛の方、葉師の方で気がかりがあると、酒家の仕事で小さな失敗をする。
初めの内は、新年の宴までの生活費を稼ぐために、親切にしてくれる女将さんのために、と思っていたが、今ではその仕事自体が楽しく、行き詰ったり、気を張ったりすることを忘れさせてくれる存在になっていた。
今日の悩みにも、癒しの手を差し伸べてくれるだろうか。
――何があったんだろう?
葉師の様子が気にかかる。自分の笛はどう葉師に聞こえているのだろう。あんなに困った顔を、難しいことを考えなくてはいけないような笛を吹いてしまったのだろうか。いくら考えても、酒家へ着くまでには答えは出てこなかった。
恍は悪友の言葉を、まず信じるべきかどうか、そこで迷った。自分をうまく転がすためならば、人を巻き込む嘘を簡単につく奴だ。そういう前科がいくつもある。
『女装までして下働きしてるってのに、報われないねぇ』
はっきりと言葉で聞くには、頭がついて行かず、顔を見続ける。しばらくすると、繰珠が口を開く。釣り糸をたらす側が、変わったらしい。食らいついたら、二度と離してもらえない餌だろう。
口をつけた茶杯に、菊の花が浮かんでいる。茶壺からこぼれ出たものだろう。小さな菊の、黄色い花弁が揺れている。恍は窓の外を再び眺め、溜息をついた。
――なにをやってるんだか
もう今日何度目の行動だかわからなくなってきた。何もないのに窓の外を眺めてしまう。窓の外には誰もいない。川が変わらずに、静かに流れているだけだ。あとは繰珠の気まぐれに見せかけた確信を持った行動で、綺麗に草が刈り取られた庭があるだけ。
そこに答えも手がかりもない。見たって仕方がないのに、見てしまう。見慣れつつある、あの朝の光景が眼前に浮かぶ。その影を追うように、窓の外を見てしまう。それを自覚しては、自分自身に呆れて溜息が出る。
仕方がないことの連鎖だ。考えていても仕方がないが、考えてしまうのは、過去の行いと、それへのお返しにつぶやかれた言葉。
『野蛮人』
『良いのは外見だけね』
『所詮、楽師だな』
自分の生まれが低くないために、楽師という立場へ身を堕としたと、考える人も少なくなかった。それを匂わせる言葉を聞いたことも、数えきれないほどだった。自分の性格や態度を貶されるのは何とも思わなかったが、生まれのことや笛のことを言われると、自分の面倒を見てくれた老師に申し訳なくて、それだけは気に障った。
今はその時と似ていた。好きなようにやりたいと思うくせに、老師や周りの人に面倒をかけることを思うと、心身が鈍る。優しさや気遣いなどではなくて、後ろめたさや、自分の不甲斐なさのせい。自分がうまく立ち回れれば、それだけで自由に動けるのに、それが出来ないと思い込んでいる。
今だって、考えていても仕方がないことをずっと、今朝からずっと考えている。
――俺の弟弟子
『あの葉恍の弟弟子』
きっと言われるんだろうな、と頭に言葉がよぎる。黄林、覚えられそうにない、ありきたりな名前の弟弟子が、これから体験しそうなことが気にかかった。自分と似たような体験をさせてしまいそうな若い少年のことが可哀想なのかと、自分でも不思議に思う。
「そんなこと、言えた立場か?」
一人、愚痴る。自分の過去の行いの所為なのに、客観的に可哀想だと思っている。あまりにも他人事じみていて、なおざりで、自分勝手だ。苦しめるとわかっているのに、少年を慰めようと考えてすらいない。
少年の願いを叶えることは、同時に彼へ自分が積み重ねてきた悪名を、自身の実力とは関係なく背負わせることだった。ただの兄弟子と、弟弟子なら、何を言われても平気なふりをしていられるだろう。けれど、あの少年は教えを乞いた相手を、同じ席に着いて仕事をした相手を、悪く言われて心を痛めないほど、鈍感な人格ではないのは、もうわかっていた。
自分がそうだったように、彼もまた老師へ恩を感じているのだろう。笛の音に老師の面影があるのは、尊敬や敬愛からついた癖に違いない。自分の笛にもその特徴が少なからずあるのは、耳のよい老師の孫からも言われて知っている。
だから悪く言われて、我慢する理由が見当たらなかった。当てつけのように悪ぶって見せて、自分の仕事を無くしても、何もかまわなかった。それが今は、後悔している。あの少年の姿が、昔の自分の姿と重なるのか、あの笛に惹かれてしまったのか、そのどちらもなのか、恍は少年に同情していることに気づいて、笑った。
「ばかばかしい」
全てが、自分のせい。幼くて、頑固で、自分勝手な自分のせいで、夢を追いかけて、食らいついてくる少年の足を引っ張る。同じ老師を尊敬している、同志を苦しめるのかと思うと、自己嫌悪で胸がつかえた。
本当に、考えていても仕方がないことだ。もう取り返しがつかない。決めるしかない。覚悟をするしかない。少年が毎朝、手を変えてこちらへ力を見せつけようと、腕を認めさせようとしているように、自分も何か行動する覚悟をしなきゃいけない。
黄林の選曲は、目覚ましの一曲と、宴用と思われるものの組み合わせだった。目を覚まさせ、頭を仕事へ切り替えさせるには技巧が少し足りないが、組み合わせとしては上出来だった。選曲はできないかと思っていたが、案外そうでもないらしい。
覚悟をする方向が、大分傾いている。初めはまったく選びたくない選択肢だったのに、今はそうでもない。むしろ、少し楽しみですらある。恍は苦笑した。自分はそれなりに面倒な性格だと自覚していたが、思っていた以上だったのかもしれない。
恍は窓の外、高い空を飛んで行く鳥を見送って、席を立った。
繰珠は作戦にどれだけの効果があったのか、疑問だった。
「どう思うよ、仁」
長年繰珠の世話をしている仁は、主を見て無表情のまま答えた。
「あまり意味はなかったかと」
そっけなくて率直な感想だ。繰珠はんーと喉を鳴らしながら、恍の反応を思い返した。
弟弟子の黄林が女装をしてまで働き、毎日笛の練習に来る。そのある意味では正しいが、真実ではない現状を告げた時、恍は。
「驚いてた、けどなぁ」
じっと見つめるだけで渋面にもならず、冷笑もしなかった。ただじっと繰珠の目を覗き込んで、口をつむんでいた。
「あれで、ですか?」
仁は珍しく不思議そうに眉根をひそめた。付き合いの長い仁とはいえ、繰珠のことはよく知っていても、恍のことはそうでもない。
幼いころから、繰珠が恍と会う時は従者を傍につけなかった。他の友人でもない『お友達』と居る時は、家族も家人も従者を傍につけることを希望していた。繰珠自身も自分だけで対応するのが面倒だったから、誰かしらを傍につけた。が、恍のことは『お友達』ではなく、自分を楽しませてくれる友人のつもりでいた。
「そうそう、あれで。たぶん、あの子がどこに泊まってるとか、考えてなかったんだろ……祖父さんから邸に泊めてやれって文が来てたはずなんだけどなぁ?」
繰珠は首を傾げた。従順ではないものの、恍は祖父を尊敬し、信頼している。その師の頼みを今の恍は平然と無視している。
「こんな町中で野宿をするはずがないんですがね」
恍の性格を考えればすぐにわかることだが、気配り上手な仁からすると、意味不明な思考回路らしい。
眉根をひそめて腕を組む。黒髪に黒瞳、美男というほどでもないが清楚な顔立ちに、仕事で自然と鍛えられた体。繰珠より学に秀でるわけではないが、記憶力が良く、気が利き真面目な性格。仁は繰珠にとって、そういう意味では面白くない人間だ。
「もしかすると、御祖父様は詳しいことを文にお書きにならなかったのでは?」
繰珠にとって仁は、自分より複雑なことを考える能力を持ち、なおかつ他人のためにその能力を使うことを厭わない、面白おかしく生きるために欠かせない相棒だった。
「……なぁ、文の保管場所って?」
繰珠は卓子に肘をついたまま呟いた。
「常人の考え方なら、いくつか心当たりがありますが」
仁は微かに目を細めた。悪知恵を思いついた主を諌めないのは、キリがないからだ。繰珠は仁のその反応に、にやりと笑って見せた。
「お前だってこのままじゃ、楽しくないだろ?」
「……主が『そう言え』とおっしゃるなら言いますが?」
じっとりと仁が見つめてくる。繰珠は立ち上がって、子供の様な無邪気な笑みを浮かべた。
「よし。文箱を漁るぞ!」
「家主に聞こえますよ」
繰珠は邸を忍び足で歩き回った。家主は自室にこもっているらしい。繰珠は居室へ戻った。
居室の収納家具は棚二つだけ。仁は抽斗を全て開けて中身を漁っていた。
「盗人かよ」
繰珠は自分が命じたことながら、仁の静かで丁寧な余念のない確認動作を見てぼやいた。
「主が眠っている間に仕事をすることも多いので、そういう意味では慣れてますよ」
ちらりと繰珠を見て、仁は低い声で嫌味を言ってきた。繰珠はそれを渇いた笑いでごまかし、文箱探しに参加した。
「そちらの棚はもう見ましたから。これでお終いですね」
引っ張り出していた中身を綺麗に元に戻し、仁は新しい抽斗を開けた。
「仕事が早い……あ、当たりだな」
繰珠は半ば驚きながら、仁の手元を覗き込んだ。
「箱には入っていませんでしたね。硯や紙は全く別の場所に入ってましたし、非効率的です」
全ての抽斗を開けることになったのが癪だったのか、仁は不機嫌そうに言った。繰珠も小声で話ながら、抽斗の中に納まっていた文を手に取った。
「あいつは返事なんか滅多に書かないから、適当に入れてたんだろ。とにかく、おつかれさん」
一番上にあった文には、自分でも祖父でもない、見たことのない細い字がしたためられている。裏に黄林と綴られている。間違いない。
繰珠に肩を軽く叩かれ、仁は溜息を吐きながら、ここ一か月中の御祖父様からの文がないか漁った。
繰珠は宛名の書かれた外紙から文を取り出し、ぱたぱたと丁寧に揃った折り目を開いた。
ざっと文の内容に目を通し、繰珠は丁寧に元通りに文を折り直した。卓子に置いていた外紙に文を包み直して、そっと元の抽斗へ戻し、繰珠は仁を見つめた。
「状況の説明は丁寧にされてた」
仁は珍しく真面目な顔をしている主に調査結果を報告する。
「御祖父様の一番新しい文は半年以上前でした」
「中身は?」
「今回の件とは関係ないものでした」
主が真面目な顔をしている時は大抵、碌でもないことを言いだす前か、予想外の出来事に対して――わくわくしている時だ。
「祖父さんからは一筆もない。正真正銘黄林からの文だ。祖父さんの署名がない、証拠がない。これなら恍も師の頼みだからって無理に我慢したりしない」
楽しげに話す主を見るのは悪い気分ではない。けれど、対象になっている誰かに申し訳ない気持ちにもなる。
「あのじじい、弟子には相変わらず鬼だな」
声を殺して繰珠が笑う。祖父のことで楽しいと思う時は滅多にない。その滅多にない瞬間は、親切心旺盛で優しい顔をしている祖父が、弟子にだけは冷たくあたる時、それを乗り越えようとする誰かの姿を見る時だ。
「そら必死にもなるわ。一月で恍を納得させて、同じ舞台にまで立とうっていうんだからな」
ひとしきり笑った繰珠に、仁が手巾を手渡す。目じりに微かに涙が出ていた。同じ邸にいる友人に笑い声が聞こえないように、声を押さえていたせいだ。
「それで、どうなさるおつもりですか?」
手巾で目元を拭い、繰珠は仁の問いに微笑んだ。
「放っておいても、面白そうだけどなぁ……まあ、応援はするよ」
仁は手巾を受け取りながら、黄林の命運を祈った。
――つまり、具体的には特に何もしないということでしょうね
満足したらしい繰珠は「腹減ったから夜食くれ」と平然と言ってのけた。仁は内心呆れながら、頭を下げて了解の意を表し、薄暗い庖厨へ向かった。