ぷつりと切れて
鈴歌は返答に困っていた。恩師の孫、李繰珠は老師からの文で鈴歌のことを知り、個人的に興味がある、というのが本人の言い分だった。でも鈴歌は、そう言われても、なんと答えるべきか分からなかった。
「ああ、困ること言ったかな? ちょっと聞きたいことがあるだけなんだよ」
寒空の下で、青年はどこまでも紳士的だった。だが、こちらは弱みを握られているようなもので、仄かに危険な香りがした。
「君は、アイツの弟子になりたいの?」
どくりと、鼓動が跳ねる。鈴歌は息を細く吐き出して、動揺に気づかれないように、お茶を飲んだ。熱い塊が喉をするりと落ちて行く。お腹が少しすいているのか、熱がやけにはっきりとわかった。
「新年祭、一緒に出ることになったって、うちの祖父さんから聞いたんだけどさ。祖父さんがどんなつもりで居ようと俺には関係ないし、アイツは祖父さんの頼みだったら聞くかもしれないけどさ、君は、どうしたいのかなって思って」
繰珠が一息に、どこかやけになっているように早口で言った。結局聞かれていることは先ほどと変わっていない。鈴歌は茶から顔を離した。
「わたしは」
一息飲む。繰珠の目が鈍く光っている。
この人は老師からどこまで聞いているのだろう。新年祭のことを知っているのなら、もしかすると鈴歌が隠そうとしていることまで知っているかもしれない。
「奏者として、葉師に認めてもらいたいんです。新年祭の宴もそうですけど、それより前に、教わりたいことがあるんです。老師に教わったのとは違う、もっと別の笛を」
嘘は通じない。そう思って素直に答える。何も偽りはない。彼の聞きたがっていた答えかはわからないが。
繰珠は静かに鈴歌を見つめてくる。その瞳には自分のこわばった顔が映っているのだろう。
しばらくどちらも口を開かなかった。鈴歌は切り出すべき言葉を見つけられなかったし、繰珠は鈴歌を見つめたまま動かない。静かに冷たい風が吹き抜けて行く。すれ違う人々が一瞬視線を向けて行く。若い男女の密会にしては、人通りがありすぎる場所だった。
「今朝、笛を吹いてたでしょ? 川辺で。いつもやってるの?」
軽く頷く。それから緩く首を振った。
「一昨日は、吹けなかったです。ちょっと選曲に悩んでいたので」
そう言うと繰珠の表情が変わった。怖いぐらいの無表情が柔らかくなった。
「選曲って?」
「宴の……選曲をしてみろって、葉師に言われて。でも、今朝は関係ない曲を吹きました。李さんは葉師のお邸に?」
今朝居たのか、と問いかけてみる。問いに答えたせいか、こちらの問いにも答えが返ってきた。
「昨日からね。しばらく泊まるつもりだよ。……アイツがそんなこと言ったんだ」
繰珠がふっと笑った。どこか温かい笑みだった。鈴歌はそっと、お茶へ口をつけた。まだ筒の中身は温かい。
「それじゃ、応援しようかな」
ぽつりと、不思議な言葉が落ちてきた。鈴歌は顔を上げた。
繰珠は面白いことが好きだった。人生は楽しんだ者が勝ちだと、幼い頃から思っていた。だから、友人は面白さで選んだ。祖父や父の仕事で出会う、お上品な貴族様の階級がどうだのなんて話には興味がなかった。発想力と実行力、どれだけ自分を楽しませてくれるか、それだけが重要だった。
だから、珍しく届いた祖父の文を胡散臭く思いながら読んだ時、震えが止まらなかった。なんだ、この楽しそうな話は。あの頑固で面白みに欠ける男に、弟子を差し向けた? それも女の子。十六歳の、女の子。
幼い頃からよく知る友人の、困り顔――他人に言わせれば睨み顔や怒り顔――を思い浮かべると、笑いが止まらない。笑いで全身が震え、文の字もぶれる。
厭味ったらしい序文で始まる祖父の文を、面白いと思ったのは初めてだった。弟子を取らない、仕事にケチをつける、わがままで有名なあの友人へ、老師から直に弟弟子を送りつける。それも、弟弟子として。その少女には女嫌いの兄弟子のために、男装をさせ、偽名まで用意したらしい。
それらを読んで、繰珠はすぐに旅支度を始めた。新年をあのしかめっ面の友人の邸で過ごすなど、今まででは考えられないことだったが、今年は特別だ。こんな面白そうな話を知って、見物しに行かないという選択肢などない。
文を早々にしたためて、友人宛に送りつける。家人の中で一番使える、気の利く従者を一人指名して軒を用意させる。手土産の酒や菓子は道中で買いつければいいだろう。身の回りの物を用意させて、家人が止めるのも聞かずに繰珠は実家を飛び出した。
着いてみれば何ということもなく、友人は変わらない仏頂面だった。だが、変化は翌日に早くも現れた。笛の音だ。聞き覚えのない、笛の音。祖父のでも、父のでも、友人のでもない、笛の音。この町に友人以外の奏者と言えば、例の人しかいない。
繰珠は思わず飛び起き、邸を出て庭から川辺を見下ろした。吹きすさぶ風の中、赤い袍を着た少年が笛を吹いていた。とても穏やかで優しい音色の。
繰珠は文を読んだ時のように、震えた。友人がいつもより少しだけ機嫌が悪かった理由が、分かった。
――こんないい目覚ましを邪魔されちゃぁな
昨日は自分が戸を叩く音で目覚めたらしいことは、出てきた時の見た目からしても明らかだった。朝の楽しみが無くなって、いつもの出迎えより機嫌が悪かったのだ。
もう引退を宣言した祖父が、弟子をとった理由もなんとなくわかったような気がする。久しぶりに聞く、すがすがしいほど素直な笛だった。
繰珠はただ友人の様子を見に来たつもりだった。困っている姿を見るのは面白いだろうと、その少女にも興味があった。それだけのつもりだったが、気が変わった。
他人に心を突き動かされるのは久しぶりのことだった。その少女の名は、朱鈴歌。呼んだ時の、笛の音と同じような素直な反応が面白かった。それが愛らしくもあり、幼げでもある。繰珠は対照的にかわいげが皆無の友人には、ちょうどいいのかもしれないと思い、ほくそ笑んだ。
「それじゃ、応援しようかな」
仕草や中身だけでなく、目的を語る口調さえすがすがしいほどなら、もうそう言うしかなかった。この少女は、友人の悪癖を直すのに使える。そう考えて算段をしている自分が、薄汚い思考の持ち主のような気がしてくるほど、少女が清らかに思える。その目的がとても自己的であるにも関わらず。
繰珠はそこに一筋の夢が見えた気がした。
――さて、どこまでやってくれるか
近年の恍の仕事は減る一方で、今は最低限生活ができる程度しか稼ごうとしない。繰珠は友人の笛が好きだった。祖父の笛は腹が立つほどうまいが、友人の笛はどこかが欠けていて、それが逆に人間味があって好きだった。友人そのもののような笛の音が、面白くもあったのだ。
だから、その笛を吹かせる機会を増やしたいと思っている。が、自分が何を言ったところで、興味すら持たないだろう。でも、少女が関わったらどうだろうか。恍の行動や機嫌は、彼女の笛に少しでも左右されている気がする。彼女は繰珠の中で、恍の仕事ぶりに変化をもたらす可能性を持っている、現状唯一の希望になった。
鈴歌は思わぬ協力者を得たことに戸惑った。繰珠は鈴歌の目的を聞いたうえで、協力を申し出て来た。正直に理由を聞いたが、それは鈴歌には明瞭としない答えだった。
『君が希望だからだよ。俺にも利があるってこと。何か手伝えることがあれば言ってね』
一体どんな希望で、繰珠にどんな利益があるのかは全くわからないが、手伝ってくれるのはとてもありがたい。繰珠の意図はまだまだわからないが、葉師の近くにいる人が協力してくれるのは心強い。
夕餉の忙しい時間を過ぎ、店じまいの支度をし始めた頃には、胸中に出来た余裕で浮き足立つようだった。
これで鈴歌の行動に説得力が出るだろう。近くにいるからには何かしらの度に協力してくれるはずだ。というのも、繰珠とゆっくり話す時間はなく、すぐに仕事に戻らなくてはならなかった。繰珠も鈴歌の立場を理解してか、協力関係を結んだ後、今日は別れることを切り出してきた。
『詳しいことはまた明日。おやすみ、鈴歌ちゃん』
そう言って、鈴歌の手からお茶の筒をするりと抜き取り、後ろ手を振って去って行った姿は、どう見ても好青年だったが、それが余計に不気味な雰囲気を醸し出していた。隙を見せてはいけない、という危ない香りを放っている気がしてならなかった。
協力してくれる相手にそんなことを思うのは、失礼かもしれないが、どうにも完全に信用していいとは思えなかった。
――なんか、よくわかんない人だなぁ
鈴歌としては葉師の情報をくれればいいなと思うが、その前に協力者の腹の中を知っておきたい。が、葉師の内心よりも、協力者の内心の方が予測のつかない感じがした。老師からの情報で葉師の性格は大体知っているが、孫の方は祖父不幸者という、碌でもないような話しか聞いていない。葉師の方も悪い所ばかり聞いた気がするけど、それでも一度受けた仕事はきっちりやりきる、真面目な性格を垣間見ることができた。
李繰珠という男性は、どんな人なのだろう。鈴歌は心許ない灯の下で宴の場を想像しながら、教本を開いていた。いく通りもの組み合わせで選曲をしているが、コレ! と思えるものには出会っていない。
とにかく選曲をして、練習をして……認めてもらわなければ、仕事の話すら出来ない。それでは協力も得られないのだろうということは、なんとなくわかる。なにより酒家の仕事を休めないのでは、協力者と密会することもままならない。
鈴歌は睡眠を少し削る覚悟をして、紙を捲った。静まり返った夜の町、灯の燃え揺れる微かな音だけが、鈴歌の感性を刺激した。
恍は友人の帰宅に眉根を寄せた。夕餉前に酒楼の土産包みを下げて、薄着で鼻の頭を赤くして玄関を上がってくる。ほのかに上気していた体に、友人と共に入って来た冷気が刺さる。
尽くされて過ごす午後は思っていたよりも快適で、一人酒が進んでしまった。おかげで体は温かく、緩やかな眠気に包まれている。夢から揺さぶり起こされるように、友人の大声が頭に響く。
「おーい。土産だぞぉ。今度はちゃんと買ってきてやったぞぉ」
ぼんやりとする体の輪郭を確かめるように、長椅子を撫でて、立ち上がった。
室へ入ってくる繰珠の声に、彼の手元を見る。知らない店の名前が入った包みをぶら下げていた。
恍は卓の椅子を引いて、ドカッと体を落とす。繰珠が卓へ土産を置くと、ふわりと香ばしい匂いが漂ってきた。
「ああ、できあがっちゃってる? 大丈夫かぁ?」
繰珠が顔を近づけて聞いて来る。恍はふわふわとした感覚で、手を振った。
「うるさい」
弟弟子のことを話したら繰珠は意外にも、それを知っていた。老師には会っていないのに、情報だけはしっかり仕入れているらしい。
恍は目の前の繰珠の顔を眺めながら、その時の会話を思い出した。
釣り針に食いついた魚はすぐに逃げて行った。既に仕入れていた情報だからか、反応は薄い。
「それは知ってる、てか、知ってるから来たんだよ。お前と仕事するんだろ? 打ち合わせに俺も必要かなって」
「……別に、必要はないが」
話し合いを潤滑に行うために繰珠へ同席を頼むことは、恍にとっては当たり前になりつつあることだったが、今回は違った。だからこそ起こった少年突撃事件だったわけだ。
恍は改めて繰珠の申し出を断った。もう既に少年へ試練を言い渡した後で、潤滑油の役割は必要ないように感じたからだ。
「そうか。じゃあ、まぁ、年明けまでゆっくりさせてもらうよ」
そう言って繰珠はまた自由な行動をとりはじめた。庭に出て雑草を抜き始めたり、仁に言って茶を外へ持っていく用意をさせたりと、何のためなのか、好き勝手に動き回って、夕暮れ時にまた邸を出て行った。どこへ何をしに行ったのかは、知らないし聞いても正直には教えてくれないだろうことは安易に予想できる。
恍は繰珠の顔を眺める。一体どこに行って来たんだか、お茶まで持って、薄着で何をしていたのか。ぼんやりと問いかけるように眺めていると、繰珠が真剣な顔をした。
「どうしたんだ、そんなに見て。どっか悪いのか、お前」
最近変だぞ、と言われて、恍はふっと笑った。それはこっちの台詞だと、言おうと思った。妙に動き回って、何かしているのはそっちじゃないかと。だが、言えば繰珠はより一層それらを、行動の意味を隠してしまうだろう。
そう思ったら、いい言葉が出てこなかった。恍は緩く首を振って、夕餉にしようと提案した。
笛の音が水音に混じって響く。鈴歌は晴れ晴れとした気持ちで笛を吹いていた。目覚めの一曲を吹いて、その後は練習に費やした。吹いたことのない曲ではないが、自信を持って吹ける曲でもない。
鈴歌は早朝に起きて、川辺へ走ることが日課になりつつあった。練習をする時間を取るためには早く眠って、早朝に起きて酒家を出るしかない。鈴歌は溜まりつつある疲れを自覚しながら、なるべくそれを無視して笛に集中した。
選曲について、鈴歌はある考えにたどり着いた。いつまでも一人で悩んでいるわけにはいかない、ということ。
『いくら悩んだところで、正解が見つかるとは限らない。悩んだ時、誰かの言葉や考えが必要になる、そんなこともある』
恩師の言葉が昨晩、不意に頭をよぎった。幸い、と言えるかは分からないが、鈴歌には選曲のことを相談すべき相手がいた。
一通り吹き終え、汗を袖で拭って、顔を上げた。窓辺に人影が一つ。鈴歌はその時になってあることに気づいた。川辺が見下ろせる庭に生い茂っていた草花が、綺麗に刈り取られている。おかげで邸と柵がよく見え、その庭に一人の人影があった。
人影が見えている窓は以前と同じ室だった。庭に出ている方は、繰珠だろうか。こちらの視線に気づいたのか、手を振り始めた。白い袍の長い裾が旗のように大振りに揺れる。仕草からやはり繰珠だろう、と思った。いつもより多くの人に聴かれていたのかと思うと、少しだけ気恥ずかしかった。
鈴歌は頭を下げて、身支度を整えた。選曲の譜面を写した紙束を懐に忍ばせ、鈴歌は川辺から階段を駆け上がった。葉師に感想を聞かないと、仕事に集中できそうにない。
一番自信のあるものを持って来た。それから、考えついた応用策も書き添えてある。何と言われても、めげずにやり直す覚悟をして来た。後は、聞くだけだ。