釣り糸を垂らして
恍はぼんやりと笛の音を聞きながら目覚めた。一日聞かなかっただけで、ずいぶん印象が違うような気がする。
宴の選曲をしてみろと言ってから二日。宴の選曲の一つかと思いきや、聞こえてくる曲は穏やかで、質素な初心者向けの曲だった。とても宴向けの選曲とは思えない。
意趣替えでもしたのかと、恍はのっそりと寝台から起き上がった。朝日が柔らかく差し込んでいる。目を瞬かせて、耳を傾ける。ゆっくりと脳が覚醒して行く。それに合わせるように曲が盛り上がり、終わって行く。
良い目覚ましだ。恍は口の端を歪ませた。良すぎて腹が立つ。
――ちゃんと考えてるんだろうな?
宴の選曲とは全く関係なく、今朝はこの曲を吹いたのだろう。宴の選曲の方はどうなっているんだ。ちゃんと考えているのか、練習はやっているのか、だとしたら、どこでやっているのか。なんとなく、あの少年が頭を悩ませている姿が、脳裏をよぎった。
宴の選曲をしろと言ったものの、それは決して簡単なことではない。宴にはある程度定番の曲があり、これが弾かれると場が盛り上がる、という曲もある。ただしだからといって定番の曲ばかりを組むと、いつもと代わり映えがしないと途中で飽きられてしまう。かといって、定番の曲が無いといつもの曲が聞きたいと言われる。選曲の塩梅が悪いとお客を楽しませることも、満足させることも出来ない。
個人の邸で行う酒宴ならば、主催者やその周りの人々に直接どんな曲がいいか、どういうお客が来るのか聞けばいいが、新年の宴のお客は町人全員だ。町人全員を相手にそれは出来ない。どんな選曲をしても、何かしらの批判が来るのは、誰が主催しても変わらないが、奏者の腕が試される箇所であることには違いない。
選曲の難しさに思いを巡らせながら、窓の外を見る。少年の今日の曲は、目覚ましには良い選曲だった。一昨日の騒がしい、宴用の曲を目覚ましに吹かれるよりも、気分が良かった。
――今日来るか?
少年は宴の選曲を伝えに、いつ来るだろう。今日か、明日か、それとももっと先か。窓の外を、川辺を見下ろすと、赤い袍が緑と灰色の岩辺に映える。
じっと見下ろして、次の曲を待った。少年の指先までを鮮明に見ることは出来ない。笛は口元から離されないまま、少年は暫く静止していた。
すっ、と少年の顔が上がった。まっすぐに、こちらへ。笛が口元から離される。恍はしっかり目覚ましの役割を果たした少年に微笑んだ。
だが、こちらから少年の表情が見えないように、向こうからもこちらの表情など見えないだろう。ただ、小さな人影に見えるだけ、そんな距離感をこの数日続けているのかと思うと、不思議な気分になる。
こんなに慎重に、時間をかけて、人と接したのはいつぶりだろう。もしかすると、李老師に師事し始めた頃以来じゃないだろうか。
少年が頭を軽く下げ、笛を仕舞い込んだのを見て、恍は窓辺を離れた。
今日は昨日の酒盛りの片づけをしなくてはいけない。悪友はたまたま片付けたばかりの客室で、勝手に眠りこけっていることだろう。こんなに家事を、邸のことを気に掛ける日々を過ごしたことがあっただろうか。視界が霞むなぁと思ってから、掃除をして、汚れがついているのを見て、洗濯をする。そんな生活しかしてこなかったはずだ。
――調子が良いんだか、悪いんだか
アイツが来てから、邸の中が騒がしい。掃除をしたり、洗濯をしたり、悪友に押しかけられたり……居室には昨日飲み干した酒瓶と、自分が食べた菓子の残りが転がっているのだろう。それを片付けるのを想像して、恍は溜息を吐いた。着替えは片付けの後にしたほうがよさそうだ。
鈴歌はそっと、茶壺を抱えた。温かい中身がじんわりと胸元に広がって行く。と、同時に少しだけ安心する。
青年の方へ振り返り、鈴歌は歩を進めた。青年、李繰珠は微笑んで上品そうに足を緩く組んで座っている。その名前には、微かに聞き覚えがあった。恩師がたびたび孫の話――主に愚痴――をしていたのを思い出す。
『あの親不孝ならぬ祖父不幸者――親には良い顔をしておったずるがしこい童での――繰珠というめでたい名前をわしが付けてやったというのに、女の様だと童の頃から文句を言いおって。わしが教えてやるというのに、笛の練習一つもせんで遊び回って……かと思えば、友達は笛に感心があるから教えてやれ、などと言うし……まったくもって、礼儀のなっとらんやつでな』
普段は声を荒げられることのない老師の、感情が込められた愚痴は、笛の練習より長くなる時さえあった。あの渋味と重みのある声で罵られても平気な顔をしているという孫の顔を、見てみたいと思ったことがあるのを思い出して、鈴歌は後悔した。
――そんなこと思わなければよかった!
そうしたら、今目の前に彼がいる事態は避けられたかもしれない、などと無駄なことを思ってしまう。よりにもよって忙しい昼餉時に訪れた珍客に、鈴歌は目を合わせまいとした。
「おまたせいたしました」
女将さんの教え通りに軽く礼をしてから、茶壺を少し上へ掲げ、空になっている茶杯へ茶を注ぐ。繰珠は椅子にもたれ掛り、ゆったりとした長袍の袖をはためかせて、茶杯へ手を伸ばした。
「ありがとう。それでね、鈴歌ちゃん」
茶に口をつける前に、繰珠は話を切り出してくる。このまま無下にそばを離れるわけにも行かず、鈴歌はその場へ留まった。繰珠はあくまで酒家のお客さんで、鈴歌は店員だ。不躾な態度を取ればお店の評判に関わる。女将さんに迷惑をかけることだけは避けたかった。
「君とちょっと話がしたいんだけど、思ったより忙しいみたいだね」
そう言って茶の表面に息を吹きかける姿は、絵になりそうだった。伏目がちの瞳は茶色く、後ろへ流された髪は艶やかで手入れが行き届いているようだった。手入れは自分でしているのだろうか。その長い髪を毎日油で潤すのは大変そうだ。
「ええ、まぁ。忙しい、ですね」
鈴歌は辺りに気を配りながら、遠慮がちに返事をした。正直に言えばすごく忙しい。
女将さんの酒家は安くてうまくて量が多いのが売りで、昼に来るお客さんは近くで働いているお兄さんたち、おじさんたちが多い。食事をゆっくりとっている時間がない人が多い。だから、料理が出て来るのは早い方がいいし、鈴歌は必然的にその対応に追われることになる。
「わかった、じゃあ、こうしよう」
繰珠は茶を一口すすり、そう言った。鈴歌は内緒話をするように身を寄せて小声で話す彼の言葉を、聞きもらすまいと耳をそばだてた。
昼前になって繰珠が起きて来た。恍は床板を拭いているところだった。空の酒瓶は一カ所にまとめ、残っていた菓子は戸棚へ仕舞い込んだ。汚した茶器類はとりあえず庖厨へ運び込んだ。
室はそこそこ綺麗にされた後である。繰珠は薄黄色の長袍を着こんでいて、髪も結わえられている。主人より早くに起きて掃除を手伝っていた繰珠の従者――仁が、少し前に室を出て行ったのは、身支度の世話をするためだったのだろう。
「よお……ああ、水くれぇ」
悪友は室に入ってくるなり、あくびを一つかまして、そう言った。恍は床板を拭いていた雑巾を投げつけたくなったが、普段は仕事面で世話になっていることを思い出して、なんとか我慢したことを自分で褒めてやりたい。
「勝手に飲め。こんな時間まで寝てやがって」
床板拭きを再開して、悪態をつく。繰珠はゆったりとした動作で、室を通り過ぎて行く。長袍を揺らすその動作がいちいち気に障る。このいらつきを治めるのには、視界に入れないようにするしかないのか。
「なぁ、恍」
庖厨からかすれた声が響いて来る。投げやりに水の入った桶へ雑巾を突っ込む。冷えた水が指先を痺れさせる。冬のこの冷たさは嫌いだった。
「お前さ、最近何かあったか?」
不機嫌になりながら、じゃぶじゃぶと雑巾を擦っていると、繰珠に言葉をかけられた。恍は思考をめぐらす。
――何か?
問われると返事に困る。恍は汚れの落ちた雑巾と、綺麗になった床板を眺めた。小さな達成感がある。珍しい感覚に、恍は目を細めた。繰珠が庖厨でがさがさと動き回りはじめた。茶でも淹れるつもりなのだろう。
「何かって、なんだ?」
急な問いに、問いかけ返す。長い付き合いだが、こんな粗雑な質問をされたのは初めてかもしれない。疑問を口にすれば、悪友が庖厨から顔を出した。
「俺に報告するような、『何か』だよ」
じっと、目を見つめられる。頭に浮かんだのは一人の少年。特にやましいことではないのだが、悪友に伝えるにはどこか不安な気がして、口を噤んだ。
――面白がるだろうからな。あのガキのことなんかは
繰珠のにやつく顔が想像できてしまい、恍は面白くない気持ちになった。
「いや、特には。そっちこそどうなんだ?」
昨晩も聞いたような気がする繰珠の長い近況報告が始まることになったが、話をそらすこと自体には成功したので良しとする。恍は掃除を終えて、繰珠の淹れた茶を啜った。
昼餉は仁が作ってくれるようで、庖厨へ入って行った。久しぶりに他人の料理を食べるのは気が進まなかったが、自分で作る気もしないので黙り込むことにした。
そっと裏口から酒家を出る。指定された場所までひたすら走る。なんとか夕暮れ時に暇を貰えた鈴歌は、疲れた体を気合で走らせていた。話の内容もそうだが、彼の持っている情報にとても興味があった。好奇心で体を動かしているようなものだった。
指定されたのは、酒家から走ってすぐの小橋だった。小橋の上には幾人かの人影があった。辺りを見渡すと、欄干に腰を掛けている男性の後ろ姿が目に入った。
鈴歌は息を整えて、彼へ近寄った。周りの人々は橋を渡って、通り過ぎて行く。鈴歌は仕事着姿のまま、繰珠の前へ歩み出た。
「ああ、来てくれたんだ」
その言い方はまるで、鈴歌が来ることを期待していなかったみたいだった。鈴歌はしっかり頷き、本題を切り出す。
「何しに来たんですか?」
祖父の老師から話を聞いていることは確かだろう。鈴歌の本名をすらりと言えたぐらいなのだから。だとしても、鈴歌のことを邪魔しに来たのか、加勢に来てくれたのか、彼の様子からはどちらとも判断できなかった。そして、どちらであっても不思議じゃない。
「君と話すためだよ?」
すごく不思議なことを聞かれた、というふうに繰珠は首を傾げた。鈴歌は睨み付けるように、繰珠を観察した。外で人を待つには薄着すぎる格好だった。それも、来ることを期待していないような相手を待つには。
「寒くないんですか?」
「寒いねぇ……お茶でも飲みたいくらい」
繰珠は肩を軽く上げて、おどけて見せる。やはり見た目と違って子供っぽさがある。日が沈み、繰珠が着ている長袍は布がたっぷり使われているが、それでも寒そうに見える。鈴歌も、走って来たのに肌寒いような気がした。丈夫だが余分な布地のない仕事着だけで出て来たせいか。
「ねぇ、どこかでお茶しない? あ、でもそんなに時間ないのか」
鈴歌を見て、繰珠は一人でしゃべる。鈴歌はその言葉を一つも聞きもらさないように、彼の傍へ寄った。人々の沓音と、川のせせらぎで掻き消えてしまうような声ではないが、念のために。ふわりと爽やかな匂いが香ってくる。繰珠は、香を焚き染める習慣のある富裕層の人なのだと再確認する。
「それじゃ、手早く済ませようか」
繰珠は服の中から長い筒を取り出した。それを突き出される。繰珠がゆらゆらと筒を揺らすと、ちゃぷちゃぷと水音がした。
訝しみながら、受け取り、筒を開けると、温かな湯気が出て来た。良い香りのするお茶だった。鈴歌は働きっぱなしでお茶を飲む時間も取れていなかった。走ったせいもあってか、喉が渇いている。
「まぁ、飲みなよ」
繰珠を見上げると、ゆったりとくつろいだ余裕のある様子で、相変わらず欄干にもたれ掛っていた。鈴歌は茶の匂いを嗅いで、口をつけた。
昼餉前に出て行った繰珠に代わるように、仁がなにかと自分の世話をしてくれる。恍はそれが嫌ではなかった。気分屋の悪友に仕えているだけあって、彼は何かと気が利き、それでいて謙虚だった。
恍は主に置いて行かれた仁に、健気に昼餉や室の掃除などの世話を焼かれて過ごした。それはそれで快適な休日だが、なんだか嫌な予感に背中を突かれているようだった。恍は昼餉過ぎに帰ってきた繰珠を睨み付けた。
繰珠は用事が終わらなかったから、昼餉もついでに済ませてきたことを玄関で出迎えた仁に告げていた。
室の長椅子に居ても、繰珠の姿を見ることができる。何の用だったかは知らないが、手荷物は特になかった。買い物ではなかったらしい。
じっと見ていると、繰珠と目が合った。繰珠は少し固まった後、ふっと口角を上げた。その表情はどこか子供っぽい。
「なんだよ。あ、土産でも期待してたのか? 悪いな」
手をふらふらと振る。長袍の袖が手を隠して、ふわふわ動く。近くに寄れば香の匂いでもするんだろう。仁から香の匂いがほのかにしたように。恍はケッと息を吐き出した。
「ガキでもあるまいし。……なにをやってきたんだ?」
仕事に関わる話なら聞く権利があるだろう、という意味を込めてみる。繰珠は「んー」と呑気な声を出して体をほぐすように伸びをした。
「いやぁ、たいしたことじゃないんだよ。欲しいモノがあって、探してきたんだ。下見? って感じだけどな」
恍は頬杖をついて、繰珠の様子を眺める。仕事の話ではないらしい。繰珠がはっきりと言わないということは、聞くべき話ではないのだろう。
「あ、でも仕事に繋がるかもしれないから、また午後出かける。今度は土産買ってくるよ」
繰珠は恍の向かいの長椅子にドッと腰かけた。疲れているのか、いないのか、よくわからない表情でしゃべっている。仕事に繋がったら、勝手に予定を組まれるんだろう。
繰珠が新しい顧客を増やすことに異論はないが、こっちに確認を取らずに仕事を組むのはやめて欲しいと恍は心底思った。
「そういうわけだから、俺に構ってもらえないからってすねるなよ?」
仁が茶杯に茶を注いで運んでくる。恍の茶杯は残り少なくなっていた。主の前へ茶杯を置き、恍の茶杯へ温かい茶を注いで、仁は庖厨の方へ下がった。
「茶化すな」
恍は何か隠している様子の繰珠を訝しむ。なんとなく嫌な予感がしてならない。昨日からそうだが、この悪友の上機嫌ぶりには何か理由があるのだろうか。
ちらりと、少年の顔が浮かぶ。今朝と同じだ。何かが引っかかっている。
ふと、恍はあることを忘れていたのに気付いた。
「そういえば、お前、老師とは会ってるのか? 田舎に引っ越したとかって連絡が来たが」
悪友と恩師の関係を思い出す。少年の存在を避けて、繰珠へ質問を投げかけると、引っかかっていた何かが、糸がピンと張るように一本になった。同時に他の糸が絡まってくる。そのどれかが当たりに繋がっている糸のはずだ。
「いや、会ってないな」
繰珠は即答する。自然な流れで言葉が紡がれていた。恍はそれを不思議に思わなかった。そもそも、繰珠と恩師は仲があまり、いや、かなりよくない。会っても数年に一度、会えば罵詈雑言が飛び交う。会っていた方が不思議な、珍しいぐらいだ。
「なんでだ?」
繰珠は茶に口をつけた。声がいつもより低い。祖父のことになるとこれだ。感情が測り辛いこの悪友が、分かりやすく感情を出す珍しい瞬間。声が少しだけ低くなり、誤魔化すように体を動かす。おどけてみせるのも、感情を隠すための癖だった。
それを知っているのは、自分と極わずかな人だけだろう。下手すると、自分しか気づいていないのかもしれないと思う時さえある。
「いや、別に。聞いているかと思ってな」
どの糸が当たりか、探るために餌をまく。
「何を?」
繰珠は簡単に食らいついてくれた。恍は内心だけでほくそ笑む。
「大した話じゃないんだがな」
お前が仕事もないのに来た意図が知りたくて。そう言ったところで素直に話すわけがないのは、よくわかっている。だから、遠回りして、釣り糸を引いた。
「どうにも弟弟子がいるらしいんだ」