はじまりの影
朝の川面はいつも静かだ。キラキラと輝きながら水が流れて行く。苔むす岩に腰かけ、耳を傾けるだけの一刻を過ごす価値がある。鈴歌は町の中でもこの川辺が好きだった。師の邸が見えるだけでなく、様々な邸の裏顔が見える。裕福な家の邸からは家事の音が小さく響き、店を営む邸からは慌ただしい声や音が聞こえてくる。川の左右から違う特徴を持った人々の生きる音がする。
その二つの音に挟まれながらも、静けさを保っている川辺は、心安らぐ所だった。疲れた体に早起きを強いるのも、辛くない。
――なんでかな
村を思い出す。故郷の朝と、同じ音がするのかもしれない。慌ただしく朝の準備をしている音がどこからも聞こえてくるのに、自然は静かなまま佇んでいる。外の景色を見て、空気を吸うと落ち着く。どれだけ忙しい日々を過ごしていても、自然を見ると気が安らぐ。
葉師の邸からこの川辺を見下ろすことができ、川辺からも葉師の邸を見上げることができる。この川辺は鈴歌にとって重要な場所だった。互いが見えるぐらいの位置で、笛を吹く。その人に向けて、吹く。
昨日は顔を見ることすらできなかった。それに酷く不機嫌だったのは、自分のことが関わっているのかもしれない。そう考えると、朝から邸の戸を叩き続けるのはどうか、と思い始めた。自分の手の甲が荒れるのは別にかまわないが、爽やかな朝には似つかわしくない、騒がしい目覚めかもしれない。
やっぱり焦りすぎたのかもしれない、と昨晩は反省した。だから、今日は先に川辺へ来ていた。笛の練習を先にやってしまうつもりだ。師の目覚ましにもなるかもしれない。笛の音で朝目覚めたらどんな気分だろう。老師の笛で目覚めたことがある鈴歌は、ふっと微笑んだ。
――最ッ高だった!
その日は何をやっても楽しかった。朝の笛の音がとても心地よかったから。
そんな風に葉師にも吹いてあげられるだろうか。昨日の笛はちゃんと届いただろうか。鈴歌は老師の偉大さを改めて感じながら、笛へ口をつけた。
今日は荘厳な曲をいくつか吹いた。宴を予想しての選曲。いくつかは村の宴で聞いた曲で、村でもよく練習した。李老師は宴で使われやすい曲は特にしっかりと、教えてくれた。だから、他の曲よりもうまく吹けている自信がある。
数曲吹いて、気持ちが高揚する。体が温かくなる。
「よし」
鈴歌は邸を仰ぎ見た。ちらりと、窓辺に人影が見えた。気がする。前に見た時とは違う窓に、白い衣の影。
鈴歌はずんずんと岩場を歩き、邸へ向かった。少しお腹が空いてきた。今日は練習する時間を取るために、朝餉を取る前に来た。師と口論するには心もとないが、満腹だからと言って勝ち目があるわけでもない。
なにより心が澄み渡り、それでいてやる気で腹の底から煮え立っていた。
コッコッと軽く戸を手の甲で叩く。今日はなにやら布ずれの音がする。シュッシュッと小気味いい音が近づいて来る。今日はすんなり顔が見られるのかもしれない。鈴歌はうずうずとした気持ちで、戸から少し離れた。
思った通り、鍵が開く音がした。戸はぎぎっと音を立てる。油をたらして磨けば、この不協和音は鳴らなくなるだろう。鈴歌は戸の金具が古い色合いで光ったのを見た。
うっすらと目蓋を開ける。静かに目が覚めた。ただ、何かの調べが聴こえてくる。よく知っている曲だ。顔を横向けると柔らかな光が窓から差し込んでいた。ぼんやり、光を見て、瞬きを何度かする。と、ふいに理性が帰ってきた。
――アイツか
寝台から飛ぶように降りる。ばさりと寝具が床に落ちたが、今はどうでもいい。窓を軽く押し開けようとして、手を止めた。
川を見下ろすのはいつも同じ窓から。私室の窓から見下ろすことはなかった。私室に留まっている時は、外界とは無縁でありたいと思っている時が多い。
窓を開けてよく聞く必要はなかった。昨日や一昨日のそれとは違う、笛だった。窓を閉めていても、よく聞こえる。
恍にとって、私室は物置のようなもので、必要な物を取り出したり、仕舞い込んだりする以外は、寝るだけの室だ。誰かが入ることもない。ただ、一日の三分の一ぐらいは、下手をした日は半分ぐらいを私室で過ごす。必要な睡眠の時と、惰眠の時という違いがあるだけで、ただただ眠るか、寝転んでいるためにこの室にいる。
今日も赤い袍を着こんでいる少年は細く、歳は十三、四歳ぐらいだろう。丁度一人で田舎から出て来る歳頃だ。だが、それにしては彼は体が華奢に見えた。十三、四で仕事を抱えて独り立ちしているにしては、体だけが子供で未発達すぎるようにも思える。
――まぁ、体張るような仕事でもないが
体力はいる。酒宴に付き合うのも楽ではない。行商をするには足腰を使う。考えていると、昔を思い出す。仕事をとるのに、安定させるのに、必死だった頃は、体を張っていたような気もする。
一曲が終わると、すぐにまた違う曲が始まる。また賑やかな曲だ。ただ、初日の町角で吹かれているような曲ではなく、上流界の人々が好む穏やかな場面も含んだ、緩急のある酒宴向けの曲。華々しい日に吹くような曲が続く。宴でよく吹かれる曲たちだ。
よく見ると、まだ空が白んでいて、薄暗い。いつもよりも早い時間だということに気がつく。
――「いつも」だと
不意に自分の脳内の言葉に驚かされる。いつから、あのガキが騒ぎ立てに、笛を吹きに来るのが、いつもになったのか。今までは眠っている時間だった。そのどれもが行われている時間は、眠りの中にいたはずだ。恍は苦々しい気持ちで笑った。
笛の音を聞きながら、爽やかな朝には合わない曲だと思った。宵口の、深い闇の中に火を灯して、酒を飲んで聴く曲だ。朝の目覚ましにしては、まったく合わない選曲だ。選曲の才能はないのかもしれない。あの弟弟子は。
恍は青い袍を箪笥から出して着た。室にはいくつかの袍が吊るされている。洗いもせず、仕舞いもせずに置かれているものだ。ただ、室は綺麗に掃かれ、綿埃は姿を消している。昨日邸中の埃を外へ追い出してやった。今日は洗濯でもすることにしよう。恍は途切れた笛の音に、彼の訪れを予想した。
火を焚いて湯を沸かしている時、戸が叩かれた。茶でも飲みたかったが、それはまだ許されないらしい。恍は昨日のように水を飲み、玄関へ行ってやる。
すっきりと目が覚めたのは、ずいぶん久しぶりだった。機嫌がいいのは、そのせいだ。決して笛の音は、関係ない。
鈴歌はドッドッと脈打つ心音に治まるよう言いつける。葉師はこちらを見なかった。ただうつむきながら、口を開いた。
「選曲してみろ。合わせはそれからだ」
鈴歌は唐突な言葉に、面を食らう。
うつむいていた葉師が、急に力強い声で言った。上がった顔を見つめる。目には光が差して、金色に光っている所がある。綺麗な色だった。くすんだ金貨のようだった色が、見たことのない金塊の色のように変わった。
「出来たら譜面を持ってこい。中途半端な仕上がりで来るなよ」
それは彼なりの宣戦布告かもしれなかった。表情を変えぬまま、葉師は振り返り、ゆったりとした動作で戸を閉めようとした。鈴歌がそれを止めるのは、いとも簡単なことだった。簡単なようにされているような気がしないでもない。
「ありがとうございます」
葉師の手に軽く触れ、震える声で言った後、どっと汗が噴き出た。手を離せば静かなまま、戸が閉まる。寸前で紡がれた音に、鈴歌は一層胸を高鳴らせる。
『悪くない目覚ましだった』
それが皮肉か、本心か、など鈴歌の足りない経験では真意を図れそうにもないが、ただ信じることだけができることであるのは、疑いようがなかった。
――間違いじゃなかった!
頭の中は既に、宴に似合う曲、調べを奏でていた。そのために必要なことが、目の前に浮かんでくるように、現実味を帯びて来た。
鈴歌は駆け足で酒家へ戻り、何よりもまず初めに、教本から調べを引いた。
戸が激しく叩かれる音で目覚めた。恍はおかしい、と思ってから頭を上げる。しばらく寝台に寝そべったまま、室に燦々と差し込んでいる光を眺めた。昨日は一昨日の掃除に続くように洗濯をしたから、邸の中は珍しく清潔だった。
今日も笛の音で起こされるものだと思っていた。恍は溜息を深く吐いた。戸を叩く音と共に聞こえてくる、男性の声。頭を乱雑に掻いて、寝台から降りる。そういえば、文が来ていたような気がする。少年の突撃で忘れていたが、こっちも面倒な案件だった。
「おーい、寝てんのかぁー? こーう坊?」
隣家にも聞こえているであろう声量で、男性が騒いでいる。背筋を伸ばし、盛大な溜息をついて、戸を開けに行った。体の節がぱきぱきと乾いた音を立てた。嫌な朝だ。
「いいかげんにしろ」
悪友が軒を連れて立っていた。爽やかな朝日を背に、悪友は笑顔で手にぶら下げていた包みを掲げた。
「酒、持ってきたぞー。久々に酒盛りしよーぜ」
布の端から様々な色の瓶が顔を覗かせている。後ろにある軒にも荷物が大量に積んであった。まるで引っ越しでもするみたいだ。
「もう少し、静かにしゃべれないのか、繰珠」
繰珠の声が頭にガンガンと響いて不快だった。繰珠は庭に軒を停めさせ、邸に上がり込む。荷を邸へ詰め込む気らしい。しばらく滞在するつもりなのだろう。
恍は室の戸棚から、悪友の達筆な文を取り出した。回らない頭で内容を追うと、『仕事の都合がついたから年越しをそちらの邸で過ごす』と、こちらの都合をうかがうこともなく一方的に書かれていた。
「なんだよ、寝不足か?」
室に荷物を降ろした繰珠が聞いてきた。恍は悪友の慣れた手さばきに呆れながら、卓に寄りかかった。
「いきなり来ておいて、騒がしい。お前、もう少し気遣いというものが出来ないのか? こんな早くに来やがって」
不機嫌に返すと、繰珠は不思議そうに首を傾げ、軒から荷を下ろしてきたから瓶と麻袋を受け取った。色つきの瓶の中で液体が楽しげに揺れた。また酒漬けにされるのかと思うと、この悪友にどうにかして一人で酒盛りさせられないかと考えてしまう。
「いきなりって……文やったろ? それに、もう昼近くじゃねぇか」
繰珠の言葉に、恍は窓を振り返る。太陽の位置を確認して、胸をくすぐっていたものを自覚した。
――今日はアイツ来てないのか?
それとも、笛の音に気づかないほど、熟睡していたのか。たかだか洗濯程度にそれほど疲れていたのか? それはありえない、と首を振って、恍は呆れるような、嫌な感覚に顔をしかめた。翌日にでも選曲を済ませて、練習をしに来ると、完全に思い込んでいた。それが、目覚めたときに感じた違和感の正体だった。
「あ、そうだ。ほい、お前の好きな甘味、持って来てやったぜー。酒のつまみに」
気づくと卓にはたくさんの酒瓶と、甘味が入っているだろう包みが並べられていた。悪友の顔を見れば、にっこりと調子のよい作り笑いをしている。繰珠は勝手に庖厨へ入って行き、酒盛りの準備をし始めた。
「……嫌な予感しかしないぞ」
悪友は早すぎる晩酌の準備と、寝起きの悪い友人の機嫌取りのための菓子を温めている。身の回りのことは全て人に世話させるような男性が働いている姿は、大分不気味だった。
岩に腰を掛けて、鈴歌は笛を握って、動けずにいた。選曲は昨日からずっと考えていて、自分なりに考えて組んでみたものの、いまいち納得できていない。吹いてみれば何かわかるかもしれないと思って、川辺に来てはみたものの、吹くことができない。
生半可なものを聞かせられないという気持ちもあるが、なによりも、自分自身が納得できないものを認めてもらえるはずがない。この選曲では何かが足りない、気がする。
曲を吹けないまま、朝日が昇る。鈴歌は溜息を吐いて、目覚ましの一曲も吹けなかったことを後悔した。選曲に納得できないにしろ、練習の一つくらいはしておけばよかった。
後悔したところで、一曲も吹く時間はなかった。早く帰って、着替えを済ませて、仕事をしなくてはいけない。明日こそはちゃんと、吹けるようにまた選曲を組み直そう。
鈴歌は腰を上げて、ぱんぱんと衣を叩いた。階段を駆け上がる。もう息が上がることはなかった。
赤い邸の前は相変わらず閑散としていて、路には霜が降りてキラキラ輝いていた。
「お嬢さん」
鈴歌は振り返った。営業用の笑顔を作って。
「はい?」
そこに座っていたのは、黒髪を後ろで緩く結わいた、くつろいだ格好の男性だった。質の良さそうな衣、綺麗な身なりを見るに富裕層の青年らしい。安い酒家には少々不釣り合いなように思える。
青年は鈴歌に向かってニコニコとほほ笑んでいる。彼の前の卓には既に、平らげられた皿がいくつか載っている。一つの皿に少しだけ料理が残っている。食事はもう終わりらしい。
「お茶を貰えるかな?」
彼は茶壺をふらふらと振って見せた。中身が空になっていたらしい。鈴歌は昼餉時間の忙しさから、茶の確認を忘れていたことに気づいた。
「はい! ただいま」
青年の手から茶壺を受け取る。
「君が、朱鈴歌ちゃん?」
彼が茶壺を手から離す。するりと出て来た言葉に、鈴歌は目を見張った。受け取った茶壺は空で、軽い陶器の重さだけが乗っている。
え? と、鈴歌は思った。その名前は誰にも名乗っていない。この町で鈴歌の名前を知っている人なんていないはずだった。女将さんにだって偽名を使っているのに。
何者だろう、と思うと共に、焦る必要があるのか、という問いが浮かぶ。この青年が自分の名前をたまたま知っていたとしても、鈴歌は何も悪いことはしていない……とはいえなかった。
――葉師のこと騙してる
ぱっと浮かんだことに背筋が冷たくなる。目の前の青年がそのことと関わりがあるとは限らない。けれど、関係がないと信じられるわけでもなかった。
青年は綺麗な身なりで、富裕層の人に見える。富裕層の人を相手に仕事をする葉師と知り合いである可能性は充分にある。
ただ、葉師の知り合いだったとしても、どうして鈴歌の名前を知っているのだろう。葉師には黄林と名乗っている。鈴歌の本名を呼ぶはずがない。
「ねぇ、聞いてる?」
黙り込んでしまっていた鈴歌は、青年の声に茶壺をしっかり握りなおした。
「はい。失礼ですが、どなたでしょう?」
鈴歌は質問への答えを誤魔化して、青年に問いかけた。青年はニコニコとした笑顔を崩さないまま、口を再び開いた。
「李繰珠。田舎に引っ越した笛吹きの祖父さんがいる、音楽家紹介をする商人さ」
首を軽く傾けて、にぃと口の端を上げる様は、大人の男性とは思えないお茶目さを感じさせた。
鈴歌は驚いて、また目を見張った。目の端の筋肉が引きつりそうだった。青年と鈴歌の隠し事が、一つの線で繋がった。
「で、君がうちの祖父さんの弟子、朱鈴歌ちゃんでいいんだよね?」
青年の笑顔はよく見ると、全然微笑んでいる感じがしなかった。うっすらと覗いている瞳がギラギラと光っているせいかもしれなかった。