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虫の居所を正せ

「宴までは時間がある。俺は他の仕事で忙しい。またにしろ」

 うつむいたままだった。葉師はそれだけ言って、戸を閉めようとした。鈴歌はとっさに戸を掴む。

「待ってください! 僕、まだ大舞台には慣れてなくて、それで、その。練習も必要ですし、選曲だけでも決まれば練習しますから! 師が認めてくれるまで、やります」

 大舞台どころか、舞台にすら立ったことのない鈴歌は、本気で心配だった。言いつけられた曲を短い練習時間で、町の人たちが楽しみにしている大事な宴で、納得してもらえるように吹けるか、自信がない。

 何より、宴を成功させることも大事だが、葉師に弟子入りしたい、指導してもらいたい理由がある。鈴歌は必死に力を込めて戸を引っ張った。が、びくともせず、葉師と鈴歌の間で戸は止まっていた。

「俺が、お前の都合に合わせる理由がどこにある? 『僕は師に合わせますので』と、言っていなかったか?」

 鈴歌は確かにそう言った。が、それは打ち合わせ時間帯の話であって、日にちのつもりではなかった。出来るだけ早く打ち合わせをしたかった。それに、葉師の様子からして、このままでは数日後どころか、数週間後に初めて打ち合わせをする、なんていう最悪の事態になりそうだった。

「合わせます! 合わせますけど、いつ、いつ来たら打ち合わせしてもらえますか?」

 明言させなければ、約束させなければ、鈴歌はまたのらりくらりとかわされてしまう。鈴歌に葉師を黙って従えさせるような武器は無いから。

「俺の気が向いた時、だな」

 葉師はまっすぐ鈴歌の目を見て、しれっと言った。ばりっと手を戸から剥がされ、早業のように戸が閉められ鍵が掛かる音がする。

 鈴歌は絶望という谷へ、いとも簡単に突き落とされた気がした。たぶんこれからも、何度も突き落とされるだろうし、這い上がらなければ、突き落としてももらえない、そんな気がした。

――こん、にゃろぉ

 やってやるしかない。気が向いた時? そんなものがいつ来るのかなんて、本人だってわからないし、知ろうとする気さえないだろう。今気が向かないというなら、向かせるしかない。

「やってやるわよ」

 鈴歌は怒りで頭がジリジリした。腹の底から力が湧いてくるような気がした。

 鈴歌は走り出した。のんびり歩いてなんていられなかった。時間が惜しい。この気持ちが消えないうちに、吹きたかった。あの川辺で、見せつけるように吹いてやる。目覚ましには丁度いいだろう。憤怒の笛を聞きやがれ。

――「猪熊まで逃げて行く」で有名だったんだから!

 田舎の村で吹いた、憤怒の笛は気持ちがよいほど遠くまで音が飛んで行った。この音色を聞くと、しばらくはおせっかい者が多い村人も、鈴歌のことを放っておいてくれたほどだ。葉師だって少しは驚くはず、と鈴歌はがぜんやる気が出て来た。

 階段を駆け下りて、息を整えないまま、勢いに任せて吹きつける。見事に川辺や木々で休んでいた鳥たちが一斉に飛び立った。田舎の村とは違って、他の動物の悲鳴が聞こえることはなかった。

 鈴歌が知ることは出来ないが、その笛の音に卓に肘をついて、頭を押さえる葉師の姿があった。その姿は悪友が見れば「数年に一度見るかどうかの姿」だと、鈴歌を称賛することだろう。


 酒家の仕事は多忙を極めた。点心を嗜んでいく者がいれば、朝餉、昼餉、夕餉を済ませて行く者がいる。それに対して、働き手は女将さんと、鈴歌と、昼から仕事に来る少女――明蓉(めいよう)の三人だけだった。女将さんの旦那さんは食材の買い付けと合わせて旅商人をしているそうで、年明けまでは戻らない予定だという。

 実際、庖厨仕事のほとんどを女将さん一人でこなし、接客を鈴歌と実家の衣屋の手伝いを本業としている明蓉で回す。鈴歌もたまに女将さんの手伝いで、庖厨へ立ったが、女将さんの仕事捌きの良さに驚くばかりで、あまり仕事が出来た気がしなかった。

 憤怒の笛を吹いてから、駆け足で酒家へ帰り、怒涛のように働き、昼餉も夕餉もかきこむように済ませてしまうと、体はもうくたくたで、今朝抜けたと思っていた疲れが倍になって帰ってきたような感じだった。

 全ての仕事が終わって女将さんへのあいさつもそこそこに、寝台へつき、鈴歌はすぐに眠りに入った。


 翌日、鈴歌は再び葉師の邸を訪れていた。戸を叩いて声を上げる。昨日と同じだ。相変わらず、返事はなく、邸は静まりかえっている。

「葉師ー? 今日の気分はいかがですかー?」

 昨日の笛で、気持ちは変わったか、と軽い悪意を込めて話しかける。邸の庭に青々とした草花が生えている。どこにでも咲く、雑草根性たくましい花だけだが、おかげで庭は賑わっている。待っている間、することもないので、ちらりと庭の方へ視線を向ける。

 畑でもあったのか、土の色が違う、雑草の生えていない所がある。その手前には今でも使っているのだろう井戸が一つ。反対側を見たが、もっさりとした葉を茂らせた木々が植わっているだけだった。

「気は向きそうですかー?」

 鈴歌はあまり期待せず、戸を軽くトントンと叩き、声を掛ける。昨日酒家で働いてみて、朝しか笛の練習をする時間はないことに気づいた。だから今日は少し落ち着いて、真面目な曲でも吹こうかな、と川辺で吹く曲を考えていた。

 と、不意に邸の中からガシャンと、陶器が割れるような音がした。

「師?」

 鈴歌はあの埃の積もった床へ、茶杯でも落としたのかと思いながら声を大きくした。返事の代わりに、ドンっと戸に衝撃が走った。鈴歌は驚いて、尻餅をついた。

 蝶番がガチャガチャと騒がしく鳴る。おかしい。鈴歌は立ちあがって戸へ手をついた。

「師? どうかしたんですか?」

 鍵の調子が悪いのか、鍵がうまく開かないらしく、葉師はしばらく蝶番を鳴らしていた。鈴歌は戸へ手をつきながら、声を掛け続けた。やがて、やっと声が帰ってきた。

「『どうかした』かって? 機嫌が最悪なだけだ! 帰れ!」

 怒号だった。鈴歌は自分のしていることにじわじわと自信が無くなって行くのを感じた。それでも、引けなかった。泣いて帰る場所はないのだ。

「わかりました! 今日は帰りますから! 落ち着いてください」

 陶器の割れる音。戸にぶつかってきたのは、葉師の手足なのか、体なのかわからないが、相当に荒れているらしい。今だけは、手出ししてはいけないと思った。

 鈴歌はそっと戸から離れた。きっと葉師は嫌なことがあったのだ。鈴歌のことかも知れない。他の何かかもしれない。どちらなのかを鈴歌が知るすべはない。

階段へと徐々に足早になって、気付けば逃げるように肩を揺らして走っていた。

 川は相変わらず、静かに水音を立てていた。水はキラキラとわずかな光も逃さず反射させる。静かで力強い、そう、一人になりたいときには、うってつけだ。

 鈴歌はなるべく静かで、それでいて強い思いを込められる、そんな曲を頭の中から引っ張り出して、口を笛へあてがった。老師が愛した曲。柔らかく、伸びやかな龍笛の音。

――届くかな?

 自分の思いはあの師に届くだろうか。言葉一つ、彼には流されてしまって、何も聞き届けられていない気がするけど、届いて欲しいと思う。鈴歌は緩く呼吸をして、首を振った。

――届けよう

 この思いだけは届けよう。別に自分の願いとは関係ないけど、伝えたかった。葉師の何かに対する『痛み』が、何故かよくわかるような気がしたから。

 そっと、息を吹き込んだ。鈴歌は精一杯自分が安らげる曲だと思える、老師の愛した旋律を奏でた。川のせせらぎが遠のいて行く。瞳を閉じれば、そこには何もない。ただ痛みに泣く人々の姿が浮かんでは消えて行く。静かに目元の雫を拭うような曲だと思ったのは、老師がこの曲を吹いてくれた時だった。

 鈴歌は老師の吹く曲に、どんどん惹かれて行った。抱えていた全てを投げ出しても、何も問題はなくて、誰も鈴歌を責めたりしないと、教えてくれるような気がした。すると不思議と、色んな曲に出会った。色んな、色んな、表情を持っている曲に。

 老師に弟子入りしたのは、気付いたらしていた、という感じだった。新年の宴で村人のために吹いてくれた老師を気にかけて、聞こえてくる笛の音に耳を傾けていたら、自然と老師との距離は近くなって、手の中には老師がくれた笛が一つあった。それが、鈴歌の大事な宝物になった。

 これは、これから闘っていくために、持っていく宝物。闘うための道具ではないけれど、鈴歌が鈴歌であるために必要な、大事な宝物。




 腹の底から煮えるような悪寒がする。熱いのに、寒い。昨晩飲みすぎたせいだろうか。久々の仕事にらしくもなく、緊張でもしていたというのか。恍は鈍痛を引きずりながら、室を這い出て、今日もする明るい声に耳を傾けてみた。

 相変わらず、まっすぐに、自分の言葉を受け取っているらしい。

――気が向いたら、なんて言ったら、一生来ないぞ

 気が向く仕事なんて、そうそうない。特に、本番に付属する練習だの打ち合わせだの、酒宴だのは気が向かなかった。なんというか、もう、性格に合わないのだ。何が楽しくて複数人で曲についてあれこれ話さなければならないのか。興味のない上流界の噂話にも辟易する。

 恍は庖厨まで行って、水甕の中を柄杓で掬い、口をつけた。冷えた水が、熱かった体を冷やしていく。徐々に頭の中身もはっきりとしてくる。さっさと、顔を出して、追い返してしまおう。今日は本当に体調が悪い。

 恍は昨日使った茶杯がまだ卓に載っているのを見て、呆れた。我ながらずぼらである。室の中は薄く灰がかかっている。埃のせいでそう見える。そういえば、あのガキにも顔をしかめられたのではないか。そろそろ掃除をしなくてはならないのを思うと、もう全てが面倒に思えてきた。

 恍は茶杯を持ち上げ、庖厨まで持っていこうと思った。茶が入っていた跡が残っている。これを洗い落とすのは自分なのだ。一度外へ顔を出せば、すぐには中へ戻って来られないだろう。

 あ、と思った時には遅かった。体が思った以上に鈍く、動きがとろい。

 ガシャン、と茶杯は洗う手間を無くしてくれた。粉々になった破片が床に散らばる。洗わなくてよくなったが、掃除をする羽目になった。

 ああ、と小さく嘆息して、外から聞こえてきた心配しているような声にも、呑気なものだと思ってしまう。

――これから、こっぴどく追い払われるってのに

 まるでこれまで恍がかけてきた罵声など、微塵も知らないというような反応である。恍はもう、頭の中がぐちゃりと歪んだように、機嫌が悪くなった。心の底からむかつく。まるでわがままな子供だと、遠くで自分が自分を笑っている。

 ふらふらと戸の前まで行って、体ごとぶつかる。思っていたよりも大きな音がする。が、それが愉快でもあった。鍵をガシャガシャと掴んで揺らす。鍵穴に差す鍵など持って来てすらいない。今しがた出て来た室に置いてある。開けるための取っ手にも手を掛けない。これは開けるためにやっているわけではないから。

 外からまたこちらを心配する声がした。ああ、と恍は驚くほど冷静に、感情が高ぶって行くのを認識する。

「『どうかした』かって? 機嫌が最悪なだけだ! 帰れ!」

 機嫌が最悪だ。昨日飲まされ過ぎた酒のせいだ。朝から悩んでいることに直面しているせいだ。お前が悪い。さっさと帰ってくれ。恍は頭の中でいろんな言い訳を、罵声をめぐらせた。このガキの前だと、どうしてこうも、自分はガキになってしまうのだろう。まるで大人げなくて、まんまガキなのだ。

 このガキと関わると、心が静かでいられない。大きすぎる恩師の影を感じるせいなのか、それ以外の何かのせいなのか。

 恍は静かになった外の様子に耳をすませて、ずるずるとその場へへたり込んだ。冷えた床に、体温を奪われていく感覚がする。そうだ、全て体調が悪い所へ、機嫌が悪くなるような奴が飛び込んできたからだ。

――「落ち着いてください」だと?

 一体誰のせいだと思っているんだ。恍はまた罵声で脳内を満たそうとして、止めた。そんなことにこれ以上時間を費やすのは馬鹿らしい。頭の奥から冷静な自分がそう言ってくる。けれど、表面には行き場のない、どうしようもない怒りがまだブスブスと燃えていた。


 ふと、綺麗な音が響いてきた。顔が自然と上がる。ああ、アイツだ。またあのまっすぐな音だ。そんな風にしか吹けないのか、そう俺が言わなくても、いつか誰かに言われるぞ。

 恍はずりずり、のろのろと、室へ入り、割れた茶杯を避けて、窓辺へ寄った。きっと、ここから見える所にいる。軽く窓を開けた。それは、自分でも少し意外な行動だった。よく聞きたいと思ったからだと気付いた時、負けだと思った。

――荒い

 技巧としては拙い部分がある。だが、選曲は悪くなかった。それは、恍も好きな曲だった。老師がよく吹いていたのを思い出す。何かにくすぶっているのに気がついて吹いてくれた曲だった。もしかすると、あの癖は弟弟子にも発揮されていたのか。

――もう少し、ゆっくり

 ゆっくり、丁寧に吹けと、声が出そうだった。教本なんて捨ててしまえと、言ってやりたい。そんなものは、ここぞという時にこそ役立たずで、むしろ自分の足を引っ張る物なんだ。恍は口元を押さえて、耳をすませた。

 命を感じる。

 それは生きるうえで、最も尊いことだ。そう、教えてくれたのは龍の声だった。李老師は、それをただ感じるだけでいいと、それが一番重要なのだと言った。その言葉の意味は、今も胸の中でころりと別の面を見せたりする。恍が唯一飽きない、面白みを感じられるものだった。

「あるな」

 恍は頭を、顔を、胸を、背中を、撫でて行くような笛の音に、ごとりと、怒りを捨てさせられた。先ほどまでの気持ちなど、すっかり忘れて、その姿を見入った。

――基本と命があれば

 あとは、技巧だけ。たぶん心はやっているうちに自分で掴みとるだろう。まっすぐじゃない、複雑なものも、これから先どこかしらでぶつかるだろう。なら、与えてやるべきなのは、人を魅せる技だけ。

 恍はふと、そこまで考えて、敗北に気づいた。また、不機嫌な子供の顔が出て来るが、今度はすぐに引き下がった。

――老師の初めての頼み、か

 やはり自分は、恐ろしいガキを相手にしていたのだと、恍は口元を歪ませた。老師の意地悪さも変わっていないらしい。

――機嫌の悪い奴にこの選曲とは

 何もわかっていないでやっているのか、全て理解してやっているのか。恍は久々に意味のある仕事ができそうだと思った。

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