朝の気配
階下からかちゃかちゃと食器のぶつかる音がする。汁物の煮える音、食材が切られる音、水を甕から汲む音、聞きなれた母の鼻歌……鈴歌はぼんやりとした意識で身じろいだ。いつもなら、母は朝餉を作る前に鈴歌を起こしに来る。なのに下からは朝餉を作る音がする。よく聞くと鼻歌が母とは違う。
目を開けると木目の天井が映る。それに木組みも見える……いつもと形が違う。鈴歌は寝具を吹き飛ばすように飛び起きた。ここは実家ではないことをようやく思い出した。
下から音がするのがまずおかしいのだ。実家は平屋だ。それに遠くから音がこだましてくるのもおかしい。家族がぎゅうぎゅうになって暮らしていたから、いつでもそばに人の気配がしていた。すぐに気づいてもよさそうな事なのに。鈴歌は予想以上に疲れていたのだと思うことにした。
鈴歌が住まわせてもらうことになったのは、酒家の女将さんが生活している二階のさらに上、二階の天井上と屋根の間。屋根裏部屋、というほどの高さはなく、鈴歌が膝立ちすると頭が屋根の板や木組みを掠めるほどだ。奥の方には木箱などの荷物が整理されて綺麗に収まっている。
窓のない室で手探りに衣を着込む。灯りは枕元にあるのだが、燃料も高いので衣を着るためだけには使わない。実家でも夜はそうしていたし、日が沈む前に仕事は終わらせて眠ってしまうのが常だった。着替えを済ませて、髪を軽く手で梳く。
相変わらず階下からは朝餉の準備なのか、店の仕込みをしているのか、忙しなく音がしている。鈴歌は室の中で唯一明かりの差している梯子へ這いより、下へと降りた。
普段も湿気を防ぐために開けっ放しにしていると言う屋根裏への梯子は垂直で、寝起きの鈴歌は少し怖いと思った。
女性から紹介された「安い宿」は、酒家だった。看板の文字は、女性が付けていた前掛けに縫われたものと同じ。酒家は普段女将さんだけで切り盛りしているそうだ。
「あんた、炊事は出来る?」
「出来ます!」
炊事どころか、家事全般に対して鈴歌は自信があった。妹弟が多い家の一番上に生まれた鈴歌は、幼いころから母の家事、父の畑仕事を手伝っていた。
即答すると、女将さんは笑みをさらに深め、「おいで!」と鈴歌の手を取った。連れられるままに、店へ入り、裏方を通り抜けて屋根裏へ案内された時、鈴歌は今の自分にはちょうどいいかもしれない、と思った。
お金もない、寝る場所も、働く場所もない、あるのは自分の体と培ってきた技術のみ。そんな鈴歌には、立ち上がることすら出来ない室でも、温かくて人の傍にいられる場所はありがたい。それに人の好い女将さんの手伝いをしながら暮らせるのは、自分にとってもいいことのように思えた。
女将さんに笑って掃除道具を手渡され、鈴歌は自分で屋根裏を掃除した。掃除を終えて、荷物を屋根裏へ上げたころにはもう眠たくて仕方がなかった。女将さんが夕餉と風呂の用意までしてくれていた時には、泣きそうになりながらお礼を言った。
「明日からはきっちり働いておくれよ。お嬢ちゃん」
階段を降りて、邸裏の井戸から水を汲んで、顔を洗う。水面にぱっちりと開かれた黄土色の瞳の少女が映っている。短く切った栗毛が前髪だけ濡れて垂れていた。疲れがまだ残ってはいるけど、頭はすっきりとしている。宿なしの不安が無くなったからだろうか。
さっと髪を後ろへ撫でつけ、手巾で顔を拭う。太陽の光りの下で、恰好を改めて整える。赤い腰丈の袍とひだのない袴は、ゆったりとしていて動きやすい。旅支度の際に母が繕ってくれた物で、厚みがあり温かい。
ほのかな朝日に目を細めて、伸びをする。縮こまっていた体と心が広がって行く感じが鈴歌は好きだった。
「よっし!」
酒家に住まわせてもらう詳しい条件を、実は聞いていない。というより、聞かせてもらえなかった。話を切り出そうとすると、さっさと寝るように促されたのだ。鈴歌は素直に一晩お世話になったが、宴までの一月の生活費を稼ぐため、給金の出る仕事も探さなくてはいけない。探す暇と、笛の練習をする時間、それに葉師のこと……宴までにやらなくてはならないことを脳内に並べてみた。
厨房へ入ると、予想通り女将さんが鍋の中をかき回しているところだった。
「おはようございます」
鈴歌は声をしっかり出して、あいさつをする。
「はい、おはよう。……あんた、その恰好じゃあれだねぇ」
手を止めて振り返った女将さんは、あいさつを返した後で鈴歌の全身を見た。それから、渋い顔をした。
「こっちに来な。あんたには表にも出てもらうから、仕事着ってほどのもんじゃないけどさ」
女将さんは鍋を火から外して、言いながら庖厨を足早に出る。昨日女将さんは頭巾と前掛けをしていた。袍は淡い色だったような気がすると、鈴歌は思い出す。
「うちは人をそんなに雇ってないから、そういう決まりはないんだけどさ」
すたすたと廊下を歩き、一室へ入った女将さんが箪笥を漁り始めた。鈴歌の恰好は機能性重視だから、働きづらいということはないだろうが、見た目としてよくないのかもしれない。
「あの、長袍とかですか? わたし、着なれてないので」
全身にたっぷり布を使った長袍は、畑仕事には不必要な物で、お祝いの時でもめったに着ない。というより、持っている人の方が少ないくらいだ。鈴歌も祝い事の際に一度だけ着たことがあるが、袍や袴と違って袖も裾もひらひらしていて、重たく邪魔なだけだとさえ思った。
「まっさか! 高級酒楼でもあるまいし。うちは酒家、人気の点心は酒蒸し饅頭! 袍と袴だよ。あたしだってあんなもんそう着ないさ」
面白いことを聞いたとでも言うように、女将さんが笑う。鈴歌は高級酒楼では長袍を着て給仕をする人がいるのか、と行ったことのない都会の店に思いを馳せた。女将さんの作る酒蒸し饅頭は確かにおいしそうだ。見てはいないけど、手を触ればわかる。
「あんた、それ体に合ってないだろう」
女将さんは箪笥から淡い朱色の袍を取りだした。体の線をごまかすために詰め込んでいた衣を、仕事には必要ないだろうと着なかったせいで袍と袴はだぼついていた。
「表に出すのに不恰好はさせられないからね。好みじゃなくても着ておくれよ。体に合わないのはよくないよ」
袍と袴、前掛けを受け取り、鈴歌は尻込みした。女将さんの目は、心からよくないことだと思っていると告げていたから。理由は聞かれなかった。
着替えをしたら庖厨にもう一度来るように言われて、室の中へ押し込められる。
鈴歌は衣を見る。ほつれやしみはない。柔らかく独特の色むらがある。女将さんは初めからこれを自分の仕事着にするつもりで、すぐに取り出せるところへ置いていたんじゃないかと、なんとなく思ってしまう。
――どうしてだろう?
田舎者として気にかけていることがある。田舎でも都会でも、悪い人はいるものだ。無条件に優しくしてくれる人には気をつけなさいと、酔った時に父がよく言っていた。親切にしてくれる人を疑わなくてはいけないのかと、鈴歌は幼い頃から不思議に思いながらその言葉を聞いていた。
襟元へ手をかけて、自己嫌悪を押しこめる。優しくされて、思い出した父の言葉。女将さんを疑ったのは一度じゃない。住むための条件をごまかされた時、楽しげに笑う女将さんの話を聞いている時、今。
鈴歌は仕事着に袖を通してみた。確かに騙すための赤い袍よりも、体に合う。そう、鈴歌も女将さんを騙している。隠していることもごまかしていることもある。
パンと鈴歌は自分の頬を叩き、頭を空にする。
――「全力で、楽しく!」
母が苦しい時によく言っていた言葉を、頭の中で何度も唱え、着替えを済ませて庖厨へ小走りした。
朝餉の粥をかきこみながら鈴歌は、女将さんの言葉を聞いて驚いた。
「お給金出るんですか!?」
女将さんは先に朝餉を済ませていたらしく、お茶をすすりながら、これからのことを話し始めた。鈴歌の疑いは彼女の明るい声で一蹴された。
「当たり前じゃないのさ。うちで働いてる間、本職は出来ないだろ? 大した額じゃないけどね」
住み込みで酒家の給仕をする。家賃、食費、働く場所の心配もいらない。給金が少しでも出るなら、手持ちと合わせれば何とか宴までは生活できるだろうし、住む場所と食べ物に困らないのはありがたかった。
「大丈夫です。笛の方は宴までは仕事が入っているわけじゃないので」
女将さんに気兼ねしてもらいたくなかった。鈴歌は素直に他の仕事の心配はいらないと伝えた。
――葉師の方は時間が欲しいけど
生活の基盤はどうにか安定しそうだ。そうなれば、やらなくてはいけないのは、本命の方だ。
「あの」
鈴歌は酒家の開店時間を聞いて、店を飛び出した。
見上げるとやっぱり邸はおんぼろだった。その陰気な雰囲気からなのか、邸の主を思っているからなのか、ずっしりと体に重たいものが乗っているような気持ちだ。鈴歌は葉師の邸の門を再びくぐった。
仕事着の上から赤い袍と袴を着ているから、朝女将さんの眉根をひそめさせたようなだぼついた不恰好さはない。かといって女性らしい繊細さや細い輪郭もない。
鈴歌は戸を拳で叩いた。小さな肩掛けの包みには笛と教本が入っている。
「おはようございます! 黄林です!」
鈴歌は開かない戸を引いてみて、鍵がかかっていることを確かめた。早朝というほど早くはないが、寝ているかもしれない。奏者の仕事は宴会が多い。給金が弾むのは夜の宴会。鈴歌は葉師がどれだけ仕事をしているか知らないし、その詳しい日程など知るよしもない。
――でも、時間を作ってもらわないと
鈴歌には弟子になるという目的があるが、それ以前に奏者として宴の打ち合わせは必要だ。どの曲を、どのように演奏するかを決めておかなくてはならない。練習だってしないと、複数の奏者の音がうまく合うかわからない。仕事である以上、葉師にもそれに参加する必要があるし、それを理解しているはずだ。
もう一度、戸を強く叩く。
「お仕事のことで来ましたー」
鈴歌は昨日の言葉を思いだす。
『仕事以外で俺に関わるな』
確かに葉師はそう言ったのだ。仕事であれば関わっていい、と捉えることが出来る。鈴歌は「仕事」と「打ち合わせ」などの単語を入れて声を掛け、戸を叩き続けた。
戸を叩く手の甲が赤くなり始めた頃、不意に鍵の外れる音がした。とっさに一歩下がる。戸が勢いよく開く。墨汁を塗りたくったような、黒い塊が真っ先に出て来る。
「うるせぇぞ」
ぐちゃぐちゃの長い黒髪の中から、鋭い声が出てくる。ゆっくりと体が起こされ、目や鼻、顔が髪の間から現れる。鈍い黄土色の瞳が、明らかな嫌悪を語る。鈴歌は背筋を伸ばし、口を大きく開いた。
「早くにすみません。お仕事のことで参りました!」
聞き間違いなどと言い訳されないように、はっきり発音して、頭を軽く下げる。
「おはようございます」
あ、と思い出して、あいさつをした。鈴歌は返事をしばらく待つことになった。葉師は同じ体勢のまま、しばらく動かなかったからだ。
「打ち合わせの時間を作っていただきたいんです。僕は師に合わせますので」
反応しない葉師に、酒家でお世話になることになったと伝える。酒家の名前は言わなかった。もしも来られた時、鈴歌の姿は仕事着なわけで、体の線は明らかに今とは違う。
葉師は鋭い視線を向けるのをやめる代わりに、うつむいてしまった。黒髪が乱れている。うねりとはねが所々に見られる。葉師は寝起きらしい。まず衣が……白い衣一枚だけしか着ていない。寝間着だろう。
黒い髪の束の中から、感情を読み取ることは出来ない。葉師がどんな思いで自分の言葉を聞いているのか、胸元がそわそわとする。
恍は室へ入ってくる光に背を向けた。まだ眠っていたい。昨日変なガキに絡まれたせいか、すごく疲れている。
川の、水音がする。ここに引っ越して来てからは、毎朝そうだ。この音は嫌いじゃない。たまに小鳥が鳴いている日もある。それもまぁいいか、と思う日があれば、煩わしく思う日もある。今日は後者だった。
頭が痛いのは、珍しくどうしようもないことを考えたせいだろう。困ったことになっている。それはさっきから定期的に聞こえてくる声もそうだ。というより、その相手そのものが、やっかいなのだ。頭が痛くなるほど考え込んで、困るなんてことはいつぶりだろう。そう考えると、相手はなかなかのやり手かもしれない。
今年の宴を、他人と一緒に出る。当人からと有権者側からの知らせも来た。のに、当人が訪ねて来るまで信じられなかった。協奏など何年もやっていない。他の楽器とはあるが、龍笛の協奏はない。新人の頃には協奏することもあったし、仕事を断ることもなかったが、最近は自由にやらせてもらっていた。
気が向いた時に、好きな仕事だけを受ける。それが出来るのは、数年我慢に我慢を重ねて実績を積んで、幅広い客層に名前を売って来たから。それと、協力者がいるから。不服ながら、仕事に関しては非常に心強い協力者が。
これまでその協力者を介して仕事を受けることもある、という程度だったが今は完全に奴にまかせて、来た仕事を受けるか、断るか一言返せばいいようにしてもらっている。
町の新年祭は、その協力者を通していない。引っ越してきた年から無条件で受けることにしているからだ。そのせいで、滅多に変わらない仕事内容をろくに確認しない習慣がついてしまった。それが今回の新人突撃事件に繋がったわけだ。
ごろりと寝返りを打って、恍は窓の外を見た。まだいつも起きる時間より早いらしい。空が白々しい色で朝を迎えたと告げている。少年の高い声も、起きてほしいと告げてくる。
ごとり、と下半身を床へつけた。寝返りを打ったついでのように。寝具も一緒に寝台からすべり落ちる。その中から蛇のように這い出て、寝間着の合わせを深く直す。ふらふらと室を出て、角を曲がり玄関へ歩いた。外からはやかましく仕事をしろという催促の声が聞こえてくる。まるであの悪友が来た時のようだ。
「うるせぇぞ」
慣れたもので、低い声を出して脅してやる。といっても、それ以上に打つ手はないのだ。一度受けた仕事を蹴るのは、性格的に無理だ。
――どうしても、このガキとやらなきゃならねぇらしい
出来れば有権者たちのほうから蹴ってほしかった。蹴られるとすれば、明らかに新米のガキの方だ。恍は煩わしいことがなくなって、すっきりするだろう。
そう、思ってはいるものの、有権者たちにクビを言いつけさせるには、どこか惜しいものを感じる。仮にも同じ師に教わった兄弟子に門出を邪魔される弟弟子、というのはいくぶんか可哀相でもある。老師の推薦を不躾に蹴るほど、恩義を忘れたわけでもない。悪友が笑いに来そうだと思う。いろんなことを考えると、やっぱりこのガキと仕事をすることになりそうだ。
恍は昨日のずんぐりむっくりとした外套姿とは違う、活発そうな恰好をした弟弟子を、その音色を思い出しながら見下ろした。まっすぐで、力強い。音色と瞳。
――どんな夢を抱えて来たんだか
どこか胸に引っかかるものがある。このガキはきっとこの世界には向かない。そのまっすぐなままでは辛いものがある。そのことさえ、想像もしていないはずだ。まだ何も知らない目をしている。いつかの、誰かのように。