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暗雲と光明

 川辺に見慣れない人影が一つ。丸く小さな人が埋もれるような大きな荷物を背負って、岩を避けてゆっくり歩いて来ていた。

 (こう)は寝起きのぼんやりとした頭でそれを眺めてから、窓辺を離れた。卓に戻り、冷め始めている茶を茶杯に注いだ。川は木々の影で薄暗く、その容姿まではわからないが、大きな荷を背負っているから旅人だろう。あんなところに何の用があるのか。

 窓辺に寄りかかり眺めるうちに、その人影は水辺から離れた場所で荷を下ろして、何をするつもりなのか、ごそごそと荷を漁りだした。ゴミでも捨てる気ならとっちめよう。この町に引っ越して来て数年、邸の裏の川にはそれなりに愛着がある。

 荷物の中から何かを取り出して、人影が顔を上げた。すっと淀みない動作でそれが構えられ、音がまっすぐ飛んできた。

 慣れ親しんだ龍笛の音だった。恍は思わず、手に持っていた茶杯を、窓枠に置いて、耳を傾けた。この町で龍笛を吹くのは自分だけだった。生活費の足しに楽器を扱う旅人は多くいるが、それだろうか。

 高い笛の音が、川のせせらぎに混じって響いて来る。盛り上がりのあるにぎやかな曲はいかにも旅人が町角で路銀稼ぎのために吹いていそうなものだった。

――それにしては

 旅人のそれは大抵の場合、技巧よりもその場を巻き込む活気を持っているものだが、この笛はどうにもそうではないようだった。

――基本技術がしっかりしてるな。……かと言って、うまいというわけでもないが

 技巧たっぷりの演奏というわけでもないが、きちんと楽譜に沿って吹かれている、教本通りの演奏という印象だ。

 恍は曲の半ばで、溜息をついた。芸術がさかんなわけでもないこの町に、たいした奏者がやってくるはずもない。少しでも期待したのが馬鹿らしく思えた。

 それでも、耳を傾け、奏者を見てしまう。木陰で笛を吹くその立ち姿は美しく、笛の音はどこまでもまっすぐだ。誰か師について、修行に出ている性質の人間だろう。

 曲が終わると、その人がこちらを見たような気がした。崖下の川まではだいぶ距離があるし、こちらから向こうの顔が見えないくらいだから、向こうも状況は同じだろう。何をしに来たのかは知らないが、きっと関わり合いになることはないだろうな。

 室へ戻って茶杯を片付けようとして、恍は目をむいた。

 その人が頭を深く下げた。こちらに向かって、下げられているように見える。まさか、と思いながら、数日前に届いた文のことをふっと思い出した。

 珍しく届いた知らない差出人の文には、懐かしい老師の新しい弟子の話が書かれていたのではないだろうか。たしか、独り立ちをしたばかりの若い弟子で、今年の宴に参加するからよろしくという旨の文ではなかっただろうか。

 恍は乱暴に茶杯を卓に置いて、文をしまったはずの戸棚を漁った。細くぎこちない字で記された男性の名前。丁寧なあいさつと、控えめなお願い。几帳面な性格が見て取れる文が、他の文たちの中に混じって違和感を醸し出していた。

 受け取った時には冗談だろうと思った。自分の性格をよく知っている老師が、わざわざ若い弟子を、よりにもよって面倒見の悪い兄弟子の元へ差し向けるはずがない。差出人が老師ではないことからも、嫌々ながら仕事を始めるにあたって兄弟子にあいさつをしておこうと思ってのことだけだと認識していた。

 宴への参加も、自分と膝を並べての演奏ではないはずだ。と、心のどこかで恍は思っていた。そんな奇特で度胸の据わった奏者がいるはずがないと。

 自分で思い返しても複雑な気持ちになるが、自分と膝を並べた者はなぜか調子を崩して、本来の演奏ができない。なぜそんなことになるのかはわからないが、そのことでずいぶんと同業者からも毛嫌いされたものだ。

 恍がこの町に引っ越してきた理由の一つでもある数々の出来事の一つを、虫が口の中に入り込んだかのような嫌気と共に、まざまざと思い出してしまう。腫物にでも触るかのような扱いに、嫌気がさして同業者のいないこの町にやってきたのだ。

 文を改めて目でさらって、溜息を吐く。文が届いた日付から考えて、さっきの旅人がこの文の差出人である可能性は充分にあった。

――『よろしくおねがいします』って、何をどうよろしくすればいいんだ?

 他人と仲良く仕事なんてしたことがない。いや、こちらから仲を悪くしようとしたことは一度もないが、相手側がどうにもこちらを好いてくれないのだ。

 恍は文をたたみ、棚に戻した。椅子に腰かけて数分後、嫌な予感は当たってしまったようだった。




 葉師は演奏が終わるとすぐに立ち上がり、戸棚を漁りはじめ、鈴歌が送った文を取り出して見せて言った。

「ここには『よろしくおねがいします』と書いてあるが、どういう意味だ?」

 意味を測りかねながらも、鈴歌は考えて来ていたことを口にした。

「宴までの間、お傍でご指導願いたいのです。李老師の元で修行しましたが、今の僕では技術も経験も足りません。老師からも『是非兄弟子の葉恍師に学べ』と勧められました」

 素直に理由を伝え、お願いしますと言って頭を下げた。

 鈴歌はしばらくして顔を上げ、渋い顔をしている葉師を見て、邸の家事や細々とした身の回りのことも引き受けるつもりであること、仕事の邪魔をしないことを真剣に伝えた。

 が、待っていたのは無言の拒絶だった。地面から引っ張り上げられた時よりも、いくぶんも雑に腕をつかまれ、荷を引きずられて、玄関に連れて行かれる。沓をひっかけて外に出ると、門の前に投げ捨てられるように、放られた。

「あ、あの!」

 演奏に対する感想も、指導に対する答えも聞かせてもらえていない。

「お前に付き合ってやるつもりはない。仕事以外で俺に関わるな」

 戸の取っ手が冷たく輝いた。カチャンと高い音がして、戸に鍵が掛けられたのだと気づく。

 鈴歌は戸に視線を向けたまま、肩を落とした。重たい物が頭にのしかかっているかのような、鬱屈とした気分だった。鈴歌は詰まっていた息をゆっくり吐き出して、目元に滲んだ水滴を乱雑に手の甲で拭った。


 町の宿を一通り見て、鈴歌は背の荷物よろしく重たい溜息を吐いた。とても一月以上も滞在できるような価格の宿はなかった。鈴歌の所持金は少ない。元々大した額は用意できなかった上、山越えの準備や路銀に消えていったからだ。

 鈴歌は大荷物を抱えて歩いていた。衣を着込んでいる外套の下は、長時間歩いたせいでじんわりと汗ばんでいる。

人々の明るい笑顔が、今は見るに苦しい。

 これからどうするか。

 鈴歌の脳内はその悩みに満たされていた。葉師の邸に下宿するという望みは、あっさり打ち捨てられた。おまけにこれ以上の干渉を拒否するような別れの言葉が、今後の行動へ大きな妨げになりそうだった。

――変にしつこいと嫌われそうだしなぁ

 それこそ、取り返しがつかないほど、最悪に。懸念の一つは、宴のことだ。宴を取り仕切る有権者たちへ、奏者から注文をつけることはほとんどない。ただ、演奏に関しては別である。演奏に関することならば、奏者は遠慮なく有権者たちに意見できる。

 この奏者とは合わないから、外してくれ、そんな注文が奏者の口から出ることは少なくはないらしい。実力のある、権力のある奏者の言葉であれば、それは悠々と通ってしまう。葉恍は、それが出来るほどの奏者だ。扱い辛いと噂されこそすれ、奏者としての腕は誰もが認めている。

 鈴歌のような田舎から来た、実績のないへなちょこ笛吹きなど、一言「新年を祝う神聖な宴にふさわしくない」と、言われてしまえばお終いだ。そうなれば、弟子どころか、爪痕一つ残せずに、田舎へ引き返すしかない。

 変に思われるくらいのことは気にしていられない。宴から外されない程度のやり方で、彼の気に止めてもらい、認めてもらわなくてはならない。

 ぶわぁ、と強い風が通りを走り抜けた。酒家から漂う匂いは吹き飛び、顔に水をぶっかけられたような冷たさを感じる。鈴歌は深く思考するために、近くにあったおんぼろ椅子に腰かけた。道端に転がっている椅子だ。誰の物ということもないのだろう。

 腰掛けると、疲れを自覚させられた。もう立ち上がれないかもしれないと思うほどだ。

――まだ、まだ、何もしてないわよ!

 こんなところで寒空に震えて、先行きの不安をしている場合ではない。鈴歌はとにかく今晩だけでも屋根のある寝所を確保しなくては、と町の地図を広げた。朱色で宿の位置と一泊の金額が細かく記してある。一番安い宿を見つけるためにとった覚え書きだ。

 一番長く泊まれそうな宿は、来た道をずいぶん戻らなくてならない。地図と今いる場所を照らし合わせるため、鈴歌は辺りと見渡す。

 ふと、自分の座っている椅子が、パキンと鳴った。身を乗り出して辺りを見渡そうと、身じろぎをしたせいだろう。地図に指先を沿わせ、位置の確認を続ける。

 川の形と建物の並びを確認し、あった、と喜びの声を上げた。それを祝福するように、バキッ、と乾いた破裂音が自分の下で鳴った。


 空は重たそうな紺色に、白くちらちらといくつかの星を抱え込んでいた。背中はいびつな形で曲げられていた。腰が痛い。重たい荷を背負って歩きすぎたのだ。旅の疲れもあっただろうし、精神的にも緊張しっぱなしで疲れている。鈴歌は痛いのは勘弁だったが、起き上がるのも、嫌だった。

 空がぼんやり滲んでいく。とたんにぼわぁと目元が熱くなり、溜めこんでいた何かが喉から湧き出して変な声になる。熱いものがすっ、と目じりから飛び出して皮膚を伝った時、鈴歌は悔しいと、ただそれだけ思った。

 辺りには楽しげな音色と、道端で椅子から後ろへ転げ落ちた鈴歌を見て何かを言う人々の声がしているが、今はその全てがどうでもよかった。背中には大事な笛が入った荷物がある。それを下敷きにしているのだ。一秒でも早く起き上がるべきだった。少なくとも、荷物の上から体を退けるべきだった。

 それでも出来ない、したくない、もうやめてしまいたいと、鈴歌は頭の中で弱音を吐く。絶対に口にしてはいけない言葉が、ここまで来るのに犠牲にしたものを、お世話になった人たちの好意を、台無しにするような言葉を、きつく口を閉じて飲み込んだ。

 このまま、しばらく泣いてしまおう。泣いて、落ち着いてから、宿屋へ行けばいい。我慢せずに泣いてしまえば、不安も弱い心も落ち着いてまた歩けるようになるはず。いつもそうだから。

 鈴歌がそう決めた時、視界にぬっと空ではないものが入ってきた。驚いて瞬く。涙が邪魔をしてうまく像がつかめないが、人の顔のようだった。

「大丈夫、じゃなそうだねぇ?」

 ごしごしと目元を雑に拭って、鈴歌はその人の顔を見つめ返した。白い頭巾が夜空に映える。

「立てる? あんた、具合でも悪いの?」

 声を掛けてくれた女性が、手まで差し伸べてくれる。鈴歌はまた別の意味で泣きそうになったが、ぐっとこらえて、彼女の手を掴んだ。思ったよりも分厚くて、固い手だった。働いている女性の手だ。田舎に、土仕事をしている家に生まれたから、よくわかる。母の手にそっくりだった。

 地面に手をつきながらも立ち上がると、再びあの重たい荷が肩にのしかかってくる。後ろを見たが、荷物をぶちまけたりはしていなかったらしい。拾って荷詰めをして、背負い直す苦労を考えると、ほっとした。

「この椅子、もう壊れそうだったからここにほっぽいといたんだけど」

 椅子、と鈴歌は女性の言葉に足元を見た。ひっくり返った椅子の、後ろ脚がぼっきり折れている。自分が倒れこんだ原因の痕を見て、不運に呆れる。

「あ」

 呆れて引きつった笑みを浮かべてから、鈴歌は女性を見た。彼女は鈴歌より背が低かった。白い頭巾の下にまとめられた黒い髪が見えた。

「ごめんなさい!」

 ぼろすぎて持ち主のいる椅子には見えなかったんです、とは言えなかった。鈴歌はとにかく頭を下げた。弁償しろと言われたらどうしようかと思う。ぼろいが古くて逆に価値の高い椅子だった、とかだったらどうしよう。宿代に困っている所だったというのに、椅子の代金まで懐から抜かれるのは厳しい。

「え? ちょっと、何よ」

 女性は一段高い声を出して、鈴歌の腕を掴んだ。鈴歌は自然と女性を見た。

「椅子……壊してしまって」

 すみません、と小さく付け足す。女性は鈴歌と転がってそのまま土に還りそうな椅子を見比べて、大きな口を開けた。

「あっははははっ! あんた、椅子って……言ったじゃないのさ、壊れそうなやつだったんだよ。いらないやつ! 壊されたからって怒りゃしないよ」

 豪快に笑われた。不意に、田舎のおばちゃんたちを思い出す。井戸の端とか、切り株とかに集まって、賑やかに話をしては大きな口を開けて笑っていたおばちゃんたち。畑仕事を手伝う鈴歌が、日ごろから見慣れていた光景だった。

「それよか、あんた。そんなに荷物背負って……旅の人?」

 壊してしまったことを許してもらえたせいか、なんだかほっとして、鈴歌は疲れを隠さずに答えた。

「この町に一月ほどいる予定なんです。一番安い宿を探していて、疲れて休憩していたところだったんです……わたしの荷物が重すぎたんですね」

 背中いっぱいの荷物を背負って山を一つ二つくらい越えたって平気な田舎育ちなのに、今はすごく疲れていた。今日歩いた距離はそれに比べればたいしたものではなく、こんなに疲れるはずがなかったのに。

「そうかい……一月って言ったら、あんた、新年祭があるじゃないか。もしかして、旅芸人かい?」

 女性の顔は面白いほどころころと、よく変わった。どれも明るい顔で、特に笑い顔にはたくさんの種類があるみたいだった。鈴歌は荷を下ろして、中から笛の筒を出した。特に変形した物はなさそうだと、手探りで荷を確認して胸をなでおろす。

「奏者です、笛の」

 笛、と言った瞬間、女性の顔が鈍った。わずかにだが、難しいことを考えている時の母の表情と似ていた。

「宴に出るために来たってことかい? 若いのに、大変だねぇ」

 ふう、と自分の苦労のように溜息を吐いて、彼女は困ったような顔をした。鈴歌は首を傾げて、聞いてみることにした。

「あの、あんまりお金がないんです。どこか安い宿、知りませんか?」

 女性がそれを聞いて見上げたのは、酒家の看板だった。鈴歌も一緒になって看板を見上げる。やがて、女性はにぃっと口角を上げた。緩くまあるい線は、彼女そのものを表しているようだと、鈴歌は頭の遠い所で思った。

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