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開示される気持ち

「あれ、葉師は?」

 鈴歌は邸へ上がって、室を見渡した。葉師の姿はどこにもなかった。息を切らして走ってきたのに、室には繰珠と仁がいるだけだった。繰珠が鈴歌の声に、長椅子から立ち上がった。

「いらっしゃーい。今日は俺が師だよー」

 ずいぶん陽気に、繰珠が言った。酒でも入っているのだろうか。

「何か用があるって、昼前に出てったよ。だから、今日は俺が師として、奏者に必要な処世術を伝授しようかなぁ、って」

 処世術、と鈴歌は口ずさむ。最低限必要な礼の取り方や、言葉づかいなどは老師に教わったが、繰珠が言っているのはそれとは違うもののことだろうか。

――もういらないんだけど

 鈴歌が奏者として仕事が出来るのは、一回きり。宴の後には必要のない技術だった。鈴歌は誠勇の条件を飲んでしまったから。

 鬱屈とした気持ちが顔を掠める。表情に出ていただろうかと、鈴歌はぱっと微笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。よろしくお願いします!」

 何度か鐘が鳴った頃、不意に繰珠が話題を変えた。

「そういえば、鈴歌ちゃんは祖父さんから送り出されたんだよな。なんでまだ技術修行なんだ?」

 鈴歌はすぐには理解できなかった。技術修行というのは、鈴歌が葉師にコテンパンに貶されている技術面の強化を続けていることを言っているのだろう。

「大体のことは祖父さんが教えてくれたんじゃないのか? 宴に出るのに町に来たのは確かに婚礼までの時間稼ぎになるけど、わざわざ恍の弟子になる必要があったのかって、急に気になって」

 ようやく繰珠が聞きたがっていることの意味がわかった。

「老師に教わってたのは笛の吹き方と、楽譜の読み方ぐらいで……それで李老師が『細々としたことを教える時間はない。それに、兄弟子のあやつの方が技術の腕は上だ』って」

 鈴歌が老師の言葉を暗唱すると、繰珠は眉根をひそめた。初めて繰珠の機嫌の悪そうな顔を見た。仁は新しい茶を淹れている。

「村を離れないと、すぐにでも婚礼を上げることになりそうだったし……もし」

 もしも、と鈴歌は続けた。淡い色合いの期待が脳内に滲んでいく。

「奏者になれたら、弟や妹たちが、好きなように……生きていけるだけ稼げるようになれたら、いいなって。私が少しでもそういう技術を持ってたら、婚礼しても、家族の助けになれるかな、と思ったんです」

 少しでも、自分が体験した苦しみを、家族には味あわせたくない。鈴歌は茶杯に温かな菊花茶が注がれるのを見て、顔を上げた。仁は静かに厨房へ下がっていく。仁は月明かりのような人だ。静かに繰珠を支え、時に葉師や鈴歌にまで手を差し伸べてくれる。

「良い従者だろ?」

 繰珠が穏やかな顔で言った。

「……はい」

「きっとなれる」

 繰珠の顔を見つめる。静かに言葉が紡がれていく。

「それだけ頑張ってるんだから、やれるさ。それから、気の合う従者に出会える可能性だってたっぷりある。邸からこっそり抜け出すのを手伝ってくれるような、な?」

 繰珠は仁の方を見て、にやりと笑った。鈴歌はもう一度、先ほどよりは少しだけ力強く「はい」と呟いた。

 頑張っていれば、家族を守れるかもしれない。そう信じようと、鈴歌は決めて茶をすすった。温かくて、優しい香りがする。

――気の合う従者

 出会えるといいな。繰珠と仁が出会ったように、鈴歌も。


 帰ってきた葉師の顔色は暗かった。いつだったかに見た顔をしていた。

――選曲の、時?

 選曲を提示した時の、困り顔に似ている。何を考えているんだろう。鈴歌は葉師に駆け寄った。葉師はゆっくりと玄関を上がってくる。

「お帰りなさい、葉師。……何か、あったんですか?」

「いや、何も」

 葉師は鈴歌を素通りして、自室へ行ってしまった。鈴歌はその背中を見て、心がざわついた。

「おや、行っちゃった?」

 繰珠が横から顔を出してきた。鈴歌はとっさの接近に驚いて、肩を跳ね上げた。

「おわっ」

 繰珠の悲鳴が頭上から聞こえてくる。鈴歌の跳ねた肩が、繰珠の顎へ当たりそうになったらしい。

「ご、ごめんなさい」

 鈴歌は繰珠へ振り返り、軽く頭を下げて謝った。

「いやいや、大丈夫。俺が近づきすぎただけだから」

 繰珠は持ち前のお茶目さを感じさせる笑みを浮かべて、手を横に振った。鈴歌は改めて、自分の男性への耐性の無さに気づく。身体的に近づかれると、ドキリとする。近づかれると精神的な余裕も無いような気がする。

――気をつけないとなぁ

 そんな機会もそうそう無いと思うけど、奏者の時に近づかれる可能性は多いにある。慣れるか、気付かれないようにするかしないと、鈴歌は新しい課題を一つ積んだ。

「葉師、どうしちゃったんでしょうか?」

「ああ……なんだろねぇ」

 質問すると、繰珠があいまいに言葉を伸ばした。何か知っているなら教えて欲しいと、見つめ返す。と、繰珠がこちらに気づいてにっこりとほほ笑んだ。

「自分で聞いてみなよ。俺が言っても答えないだろうし」


 鈴歌は戸を叩いた。葉師の自室まで行くのは初めてだった。いつも庖厨と繋がっている室でしか練習をしなかった。たまに庭へ出ることもあったけど、そこから葉師の自室がちらりと見える程度だった。

 繰珠も室へ引き下がってしまったせいか、邸は静まり返っている。室から返事がない。鈴歌はそっと、また戸を叩いた。

「葉師、あの、大丈夫、ですか?」

 そっと戸へ近づき、声を掛けた。じっと耳をすませて待ったが、返事はなかった。鈴歌はまた、戸を叩いた。こつ、こつ。小気味いい音が邸に響く。

 ギィと、戸が鳴った。葉師が微かに開いた戸の隙間から、顔を覗かせた。相変わらず、難しそうな顔をしている。鈴歌は戸をしっかり握って、閉められないようにした。

「何か、あったんですよね? わたしに、出来ることありますか?」

 何があったかは知らないけど、葉師を困らせることなら、相当な出来事だろう。

――まぁ、わたしが困らせたことあるんだけど

 結局あの時も、何が理由であんな困ったような顔をしていたのか、わからないままだ。葉師に師事するようになってから、繰珠が芯を持っている快楽主義であることは理解できたが、葉師の性格と心情はよくわからない。何を考えて、鈴歌を誠勇から守ってくれたのか、なぜ弟子だと嘘をついてくれたのか、わからないまま、鈴歌は葉師にお世話になっていた。

 何が出来ることがあれば、手伝いたい。

――それに……知りたい

 葉師のことを、もっと知りたい。繰珠のように明るく心を開いてはくれない、気難しい兄弟子を、仮の師のことを。

「お前に……か、そうだな」

 葉師が重たげに口を開いた。どこか遠くを見るように、顔を上げて虚ろに呟く。

「入れ」

 戸が開かれた。葉師が室の中へと鈴歌を促す。室は広く、簡素な家具が並んでいる。仄かに花の甘い匂いがする。一歩踏み出して覗けば、寝台の脇に香炉が置いてあった。

「聞きたいことが、ある」

 鈴歌は室へ入れられた。腕を引っ張られて。

「せ、師?」

 室内で過ごすことが多くなったから、赤い衣の下に仕事着を着なくなった。葉師の指の輪郭が、くっきりと腕へ絡み付いていた。

 葉師は真剣な表情で見下ろして来る。その瞳は何も語らない。

「お前は、何のために笛を吹くんだ?」

 パタンと戸が閉まった。葉師の声はそれだけの音で聞こえなくなるようなことはなかったが、鈴歌は聞かなかったふりをした。その答えを語るには、あることに触れないわけにはいけなかった。

「鈴歌」

 葉師が、名前を呼んだ。人伝に知った名前を、呼んだ。黄林として名前を呼ばれたことも、ほとんどない。本名を呼ばれたのは、二度目だけど、ずるいと思う。鈴歌はドッドと鼓動が激しく高鳴るのを、苦しいほど感じていた。こんな時だけ呼ぶのは、ずるい。

「理由が、あるだろう?」

 確信めいた、問い。鈴歌は息を飲んだ。葉師は、どこへ行って来たのだろう。そっと、腕を掴む手に指をかけた。自らこの人に触れるのは、袖を掴んで引き留めたあの時以来だろうか。

「何を、聞いたんですか?」

 自分が隠しているたくさんのことの中の、何を聞いたんですか。そう聞きたかった。誰から聞いたのかは、もうわかる。繰珠が言うはずがない。繰珠に聞くために邸を出るわけがない。決まっている、相手は一人しかいない。

「お前の、覚悟を……聞いてきた」


 鈴歌は室にあった椅子へ腰かけ、ゆっくりと口を開いた。

「わたしの生まれた村は小さいんです。田舎で、みんな貧乏です」

 故郷を離れて、まだ一月と経っていないのに、懐かしさがこみ上げる。葉師は寝台に座り、鈴歌と向き合って、黙っていた。

「子供は大きな街へ出稼ぎに行くか、畑を手伝うしかありません。……村の人も少しずつ、少なくなっていきます。子供たちが戻ってこないから。そんな村だったから、李老師が引っ越してきて、みんな驚いたんです」

 大きな荷物を抱えた、小さなおんぼろの服装をした老人。

「しかも、李老師は龍笛っていう笛が吹けるっていうから、みんな大喜びでした。この村でも新年祭ができるって。……わたしも、その一人でした。お祭りなんて、遠出をしないと見られなかったから、なんだか嬉しくて」

 たった一人の奏者でも、誰も気にしなかった。

「李老師の笛を聞いた時……わたし、救われたんです」

 ぽつりと、言葉がこぼれた。それから、何も出てこなくなった。

 葉師が聞いてきたという鈴歌の覚悟は、何を示しているのか、考えると、改めて自分から口に出してはいけないような気がした。確実に後戻りができなくなる。

「その時には、王誠勇との婚約話が出ていた」

 鈴歌は顔を上げた。葉師は探るような目でこちらを見ている。鈴歌にその話の先を促している。

「そう、です。……毎日、憂鬱でした。本当にそうなってしまうのかなって、考えてしまって。わたし、家族が好きです」

 誠勇の出してきた条件は、鈴歌が最も恐れたことだった。

「畑仕事も好きだし、李老師に出会ってから、笛を習うようになってから……奏者になりたいって、思うようになりました。あんな風に、人を喜ばせる事が出来たら、って、そう考えたら、止まらなくて」

 思いが止まらない。李老師の龍笛に出会わなければ、こんな思いはしなかっただろう。けど、龍笛に出会わなければ、鈴歌はもっと希望を失くしていただろう。

「わたし、李老師と一緒に笛を吹いたり、楽譜の読み書きを教わったり、お話したりするの、好きでした。……だけど、これは、わたしのわがままだから」

 新年祭で夫となる人が最も嫌うことをする。実質的な職業婦人になる。そのたった数日だけ。鈴歌は、新年祭の終わりの宴に出た後、誠勇の妻になる。軒に乗って、故郷へ引き返し、すぐに婚礼を上げる。

 鈴歌は愛している全てを捨てることを、誠勇と約束してきた。それが条件だった。

「わたしはわたしがやれることをやります。最後まで、李老師の弟子として恥ずかしくないように」

 宴が終われば、この楽しい修行もおしまい。二度と、繰珠とも、女将さんとも、葉師とも会わないだろう。

「すみません、巻き込んでしまって。どうしても、あなたに、笛を教わりたかったんです」

 李老師が、葉師のところへ行くことを勧めた理由は単純だった。

『わしはもう、隠居の身だからな。紹介できる仕事口も少ない。田舎にいるよりは希望があるじゃろ』

 父よりも、亡くなった祖父よりも年上の李老師に、無理はさせたくなかった。鈴歌は李老師の言う通りに、家族と、誠勇をだまし、葉師の元へ黄林になって来た。

「わたし、畑仕事とか、炊事とか、裁縫とか、そういうのをやめちゃったら、自分が自分でなくなるような気がして。お金持ちの家の奥さんになるって、考えられなくて。……逃げたかったんです」

 龍の声のように高く、空に自由へ駆けて行きたかった。

「でも」

 それは全てを捨てるということだった。全てを捨てなければ、龍でも鳥でもない鈴歌は、逃げきることが出来なかった。

「もう、いいんです。一度だけ、仕事ができたら、それで。今までやっていたことを何もしなくなっても、わたしがわたしであることに変わりはありませんから」

 誠勇はそう思っている。父も母も、そう思っている。鈴歌がそれで幸せになると、思い込んでいる。鈴歌はそれに合わせていくのだ、これから先の長い人生を。

 鈴歌は顔を上げた。葉師が驚いたように眼を見張っていた。初めて見る表情だった。

「お前、俺の弟子になりたかったのか?」

 鈴歌は一瞬、思考が止まった。当たり前すぎて、返事ができなかった。

「なりたい、ですよ。そのために、来たんですから」

 李老師が語る話の中で、葉恍という奏者は光のように眩しくて、確かにそこにあるのに、触れない、そんな存在だった。鈴歌は彼の紡ぐ笛を聴いてみたいと思ったし、李老師が勧めるほどの実力者に会ってみたかった。会って、弟子として教えを乞いたかった。

――弟子入りする時の曲、吹いたよね?

 誠勇の出した条件を飲んだ日は疲れ切って、とても葉師に会いには行けなかった。翌日、川辺でいつものように吹いた。いつもより緊張していた。答えが返ってこないかもしれない、断られるかもしれない、そう思ったから。

 葉師は寝台に深く腰を落とし、体から力を抜いたようだった。




 あの笛の音は、老師に代わって、宴までの間、という意味だと思っていた。恍はそのつもりでこれまで鈴歌に老師から教わったことを、そのまま書き写すように教えていた。自分の考えはそこにはなく、技術だけを教えていた。

――俺に、弟子入り……?

 話が違う。それでは、話が違ってくる。老師の代わりではなくて、自分自身へ弟子入りを願っていたのだとしたら、指導方向を間違えている。大事なことを、まだ何一つ教えていない。

「鈴歌」

 恍は少女の名前を呼んだ。まだ呼び慣れない名前だ。鈴歌がまっすぐ恍を見る。

「弟子に、してやる。厳しいぞ、俺は」

 これまでの、老師のような優しい教え方などできない。彼女が望んでいたことは、こんなに単純なことだったのか。

 婚約者から逃げることでも、奏者として成功することでもなく、ただ、恍の龍笛を知りたい、教わりたい、という駆け出しの奏者の、必死な願い。叶えてやれるのは、自分だけだった。

 籠へ捕まえ入れられようとしている彼女に出来ることがあった。

 恍は驚いてぼんやりしている鈴歌の顔が、なんだかおかしく思えた。声を出して笑った。この少女のために、笛を吹いてやりたかった。

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