龍の声を聴け
恍は繰珠と朱鈴歌を室に残して出た後、夜会に出ていくような華やかな衣に着替え、髪を結わきなおした。正装するのは久しぶりだが、兄弟子としての仕事をするのは初めてだった。
――邸はどのへんだった?
恍は頭の中に町の地図を広げ、新年祭の宴の有権者が住む邸の場所を、思い出そうとした。有権者はいつも似たような面々で、決まった人間が順番でやっているようなものだった。住んでいる邸の場所も似たような所にあったはずだ。
恍は多少の金を取り出し、懐へ差し込んだ。突然やって来た縁のない坊ちゃんが、金に物を言わせてもなびかない程度の金額を、計算しながら。今年の有権者が誰だったか、どのあたりに邸があるか、思い出しながら、準備を済ませ、恍は邸を出た。
ご機嫌取りなど久しぶりすぎて、多少ぎこちなかったかもしれないが、反応は上々で、昼餉をごちそうにならなければいけないほどだった。恍の、気難しい奏者の訪問を有権者である壮年の男性は、太く付いた脂肪を揺らしながら、上機嫌に笑っていた。
「弟弟子と宴に出る件、了承したのでどうぞよろしく」という内容を伝えるためだけに赴いたというのに、恍は夕暮れまで拘束されることになった。内心は最悪だったが、効果があると思い込むことで乗り切った。
帰宅して早々に衣を脱ぎ捨てた恍を見ながら、晩酌をしながら留守番をしていた繰珠は鈴歌が帰ってこないことをぼそりとこぼした。
「あいつの邸はここじゃないだろう」
眉間にしわが寄っているのを自覚しながら、繰珠へ背を向け、恍は衣を引きずって自室の寝台へもぐりこんだ。
恍は庖厨へ行き、火を焚いた。この時間なら、お茶を入れてゆっくりしている頃に、鈴歌がやって来るだろう。指導してやるとまで、はっきり言ったんだから。
水を焚いている時、恍はふと、気づかなければよかったことに気づいた。
――来る、のか?
鈴歌は今日邸へ来るのか? 昨日そんな約束はしていないし、恍は笛を吹きに川辺へ来るだろうと先ほどまで思っていたが、それも鈴歌が勝手にやったことで、約束事などではない。
鈴歌が自分へ会いに、目覚ましの笛を吹きに、宴の選曲を披露しに、来るのが当たり前になっている。恍はどうにも、鈴歌という――性別と本名すら昨日知った――妹弟子を受け入れていることに気づいた。それも案外、すんなりと。性別の違いや名前の偽りなども、黄林であろうと、朱鈴歌であろうと、関係なく、その存在自体を受け入れている。
恍は頭を抱えたくなった。水が煮えるまでにはもうしばらくかかりそうだった。茶壺と茶杯を食器棚から取り出す。綺麗に整列されているのは、仁のおかげだ。茶葉の箱もすぐわかるところに置いてあった。
自分の邸だというのに、そんな細かな所にも他人の手が入っていることが気になるとは、思ってもみなかった。茶葉を茶壺に入れて、湯が沸くのを待った。ただ待つのもなんで、恍は窓辺へ寄ってみた。
川辺には既に人影があった。ひょいひょいと岩場を歩いていく姿と、赤い袍。鈴歌だった。恍が予想していた時刻は外れていたが、不満はなかった。鈴歌がこちらを向く。視線は恍のいる場所を少し逸れていた。恍の室の窓を見ているのだろう。恍は思わず窓を開けた。
冷え冷えとした空気が一気に室へなだれ込んできた。指先が再びぼんやりと痛みを告げてくる。だが、不満はない。鈴歌がこちらを向いた。
少し間が空いて、一礼をして、笛へ口を寄せた。川のせせらぎから、抜けるような高音が、空を駆けて恍の元までやって来た。
何を意図しているのか、恍には瞬時にはわからなかった。目覚めの曲ではない。だが、きっと恍が起きていたから、吹く曲を変えたのではない。宴のための曲でもない。ただまっすぐに、恍に向けられた曲だった。
その曲の意味は――師を尊び仰ぎ、教えを乞う。
恍は自室へ引き返し、棚から銀色の筒を手に取った。笛の音は続いている。
――そこは弱く
強弱の付け方がまだ拙い。
筒の中から笛を引き抜き、慣れ親しんだ感触に指を沿わせ、室から庭へ出た。沓は履いていないが、構わなかった。
――もっとゆっくり
細やかな指摘が浮かんでくる。庭から川辺を見下ろした。少女が懸命に笛を吹いている。自分へ向かって。弟子入りを志願されることはあったが、こうして笛を吹かれたことはなかった。ここまで自分に本気になってくれる相手はいなかった。
――一度だけ
一度だけにしよう。その方が、鈴歌には効果的な気がした。曲の終わりに近づくにつれて、笛口に唇を沿わせた。
龍笛の音は、龍が天へ上る時の声だと言う。老師もよく言っていた。龍の声。一度だけ、聞いたことがある。一人だけ、その声を呼び出せる奏者を知っている。恍は目を閉じた。曲が終わる。
龍の声を聞いたことがある。一度だけ、一人だけ、その声を聴かせてくれる奏者を知っている。それは、恍にとって、誰にも内緒の、大事な宝物だった。だから、鈴歌にも、一度だけにする。
曲が終わった。恍は彼女がまずこちらを仰ぎ見るのをわかっていた。だから見なかった。恍は見ない。鈴歌が見ていればそれでいいから、確認する必要はない。
恍は息をそっと吹いた。命を吹き込む。強く、丁寧に。
――龍の声を聴け
それが龍の声だとわかれば、世界は広がるだろう。鈴歌に、妹弟子に伝わるか、恍は胸の高鳴りを感じた。
体を震わせるほどの歓喜だった。高く高くへ駆けて行く笛の音。川のせせらぎも、人々の声も、全ての雑音が消え、龍笛の音だけが世界に広がっていた。見上げる姿は美しく、はためく袍の裾は、龍が天かける時の揺らめき。
鈴歌が吹いた曲と同じ曲とは思えないほどの凄み、様々と見せつけられる実力の差。鈴歌は葉師から目が離せなかった。目を見張って、その声を聴いた。
奏者より雄弁に、的確に、奏者を語る声だった。
――龍の声
老師の笛で聞いたのとはまた違う、龍の声だった。厳格で、物憂げで、寂しい。切なる強い声だと、鈴歌は思った。心をくすぐられて、むず痒くなるような気持ちで、笛を握りしめた。掻きむしっても、収まらないような痒みがあるということを、鈴歌は初めて知った。
曲が終わるまで、鈴歌はずっとその場に立ち尽くした。葉師の笛を聴きながら、龍の切なげな声を聴いた。
にたにたと、繰珠が笑っていた。恍は手の中の笛を握りしめた。爽やかな朝日を受けながら、にたにたとねちっこく笑う友人に、呆れと嫌気がさす。
「言いたいことがあるなら言え」
川面の少女へ背を向け、笛を懐へ収める。繰珠はまだ寝間着だったが、髪だけは寝癖もなく綺麗に肩にかかっていた。仁に髪を梳かせた後だったのだろう。
「いやぁ……お前が素直になったことに感動してただけだぞー。いやー、鈴歌ちゃん、早く来ないかなぁ」
繰珠のにたにたは止まらない。恍は相手にしたら負けだと腹をくくって、自室へ戻った。
笛を柔らかい布で軽く磨き棚に戻すと、タッタッと軽い足音が響いてきた。
「お、おはようございます!」
遠くから少年にしては少し高い、少女の声が聞こえる。恍は静かに息を吐いた。
繰珠が明るく鈴歌を出迎えている声が聞こえてくる。室を出るとそれがより鮮明になり、顔を合わせるのが気恥ずかしい気がしてきた。
――馬鹿らしい
あの坊っちゃんの言いぐさに腹が立っただけで、教えるのは宴までの間だけ。しょせん期限付きの関係だ。少し祝砲を上げたぐらいで恥ずかしがるようなことでもないはずだ。恍はかぶりを振り、平常心を装う。
「あ、葉師!」
角を曲がると、想像していたよりも、生き生きとした表情の鈴歌が居た。キラキラと目を輝かせて見つめられると、何かしてやらなければいけないような気がして、直視できない。
「あの、誠勇さんから許可、取ってきました」
恍は居室へ向かいながら、ああ、そういえばそんなことを言ったような気がすると思った。昨日帰らなかったのは、坊っちゃんを説得していた所為だったということだろう。
「そうか」
それ以外、言葉が出なかった。
「葉師、さっきの笛」
背後から鈴歌の視線を感じる。それに繰珠の楽しそうな顔が脳裏に浮かぶ。黙っている分顔に出ているはずだ。
――期限付き、恩師の頼み
恍は扉に手をつき、立ち止まった。庖厨から強烈な茶葉の匂いが漂って来ている。ガタガタと陶器が揺れる音もする。茶壺を火にかけたままなのを忘れていた。
「あー……茶、入れ直してくれ。鈴歌」
もうあのお茶は飲めない。覚悟を決める前の茶は、濁って苦く、きつ過ぎる匂いに鼻がおかしくなりそうだ。
背後で鈴歌と繰珠が同時に反応した。両者とも感情は喜びだったが、質は違かった。
「はい! 葉師」
幾日かが経った。鈴歌は酒家の仕事を半分に削ってもらって、葉師の所へ出入りしていた。日が経つにつれ、町へ他の奏者が集まって来て、葉師へあいさつに出向いて来る者もいた。鈴歌は葉師の所では、相変わらず男装をしていたので、そのまま黄林としてあいさつをした。
そのたびに、相手にすごく驚かれたが、理由はなんとなく想像がつく。新年祭に出る奏者全員が葉師の所にあいさつに来るわけじゃない。それに、あいさつは簡素で、すぐに済ませてしまおうという気持ちが匂っていた。葉師の所に弟弟子が来ているのも、まず弟弟子がいることも、知らなくて驚く人ばかりだった。
――ほんとに人付き合いしてなかったんだな
葉師は出向いた人に適当な言葉であいさつをして、相手の話を聞いているふりをしていた。そこに後ろから繰珠が出て来て、会話が弾み、鈴歌が紹介される、という流れが何回か繰り返された。
鈴歌は葉師に指摘された部分の選曲に手直しを入れて、練習に費やした。葉師の指摘は的確で、かつ厳しく、心を砕かれるような思いが何度もした。それでも、何も言われないよりはずっと良かった。自分のやっていることに何も答えが出ないより、ずっとましで、ずっといろんなことを考えることが出来る。
鈴歌はただ笛のことだけを考える時間が増えたのが、葉師に教えを乞いながら過ごすのが、何より楽しく、嬉しかった。酒家の仕事の合間に女将さんに葉師のことをこっそり喋るのが、日々の楽しみだった。
たまに練習中に繰珠が酒瓶を振りながら乱入してきたり、それに葉師が怒鳴り散らして仁が繰珠を連れて室へ引っ込んだり、女将さんが差し入れをしに来てくれたり、邸は何かと賑やかで、葉師はそれに頭を抱えることもあったけど、鈴歌は楽しかった。
葉師が慣れない様子で女将さんと話をしているのを見るのは、申し訳ないと思いながらも少し面白かった。鈴歌と同じことを考えていたのか、繰珠が葉師を茶化して、激しい言葉の応酬が始まるのも、楽しめるようになってきた。
鈴歌は葉師の邸で過ごす時間を楽しんでいた。
恍は昼過ぎ、ある宿屋の前に立っていた。ある疑問を解消するための行動だったが、最後の一歩を踏み出せずにいた。
――なんでこんなこと
やっているんだろうかと思いながら、調べないと気が済まない。恍が邸での鈴歌の様子を見ていて、ふと疑問を持ったのが二日ほど前。何度目かの奏者訪問で黄林の紹介をした後だった。唐突に思い出した、お坊ちゃんの顔。
――あれから見てない
鈴歌を助けて期間限定の弟子にして数日、あのどこかの王さんを見ていない。あの坊っちゃんは鈴歌の周りをうろついていないとは、どうにも考えられなかった。宿をとるように説得する時も大変だったのだ。簡単に諦めるはずがない。鈴歌があの晩のことを説明しなかった。
弟子として指導を始めてからも、どういう方法であの坊っちゃんを納得させたのかは聞いていなかった。鈴歌はただ、「許可をもらえました」とだけ言った。それは結果であって、過程は一切省かれている。
――なんらかの条件があっただろう
そうでなければ、坊っちゃんが鈴歌の自由を許す理由がない。鈴歌にただ良く思われたいだけで自由を許すような性格なら、ここまで追ってこなかっただろう。鈴歌に何かしらの、それも安くない対価を求めたはずだ。鈴歌が農家の出自だと言うのは、繰珠から聞いて知った。鈴歌が差し出せるモノで、坊っちゃんが望みそうなモノと言えば、なんとなく想像が出来てしまう。
――鈴歌自身、か
眉根が寄る。自然と不機嫌になっている自分に、さらに苛立つ。二日間、その思いは消えずに、鈴歌を見るたびに頭を掠めた。彼女は何を差し出して、あの坊っちゃんを納得させたのか。余計なことだと思いながらも、考えてしまう。
金銀の装飾が煩わしい建物を前に、立ち尽くしてどのくらいだっただろうか。通り過ぎる人々の視線が刺さるようになってきた気がする。恍は深く溜息を吐いた。
「行くか」
聞かずにいる間、悩み続けたのだから、聞いてしまえばいい。それでどんな思いをすることになろうとも、知らないでいるよりはましだろう。
彼女の覚悟を知るためか、彼女の身を案じてか、自身の手が届かなかったことを自覚するためか、恍は誠勇の居る宿屋の戸をくぐった。
「あれのどこがそんなに好きなんだ?」
恍は誠勇に聞いた。そう聞かずにはいられなかった。そこまでして、彼女に執着する理由はいったい何なのか。そもそも、どんなきっかけで農民の子と、商家のお坊ちゃんが出会ったのか。
単にお坊ちゃんには農民の子が珍しく思えただけなら、彼女である必要はないはずだ。もっと簡単に手に入る娘がいくらでもいるだろう。
「な、ど、どこって。なんでそんなこと言わなくちゃいけないんだ!」
誠勇は恍の問いに、大仰に動揺し、頬を染めた。
「そこまで執着する理由がわからん。それだけだ」
恍は初々しい反応に、冷たく返す。求めていたのはそんな反応じゃない。
「執着……別に、そんなんじゃない」
誠勇は茶杯に口をつけて、語尾を濁す。恍はじっと誠勇を見つめた。茶を飲み終えた誠勇が、恍の視線に気づきたじろいだ。
暫く沈黙が続いた。
「初めは、親の言いつけだった」
ぼそりと誠勇が口を開いた。意外な言葉が出て来た。恍はじっと誠勇を見守り、言葉の続きを待った。
「鈴歌の村の辺りには、茶畑に向いている丘があるんだ」
恍は答えが見え始めたのを感じた。誠勇はゆっくりと新しく淹れられた茶を啜った。
「そこの土地を買うのはなんともない。だが、傍に住んでいる者どもからは、勝手に土地に踏み込んで好き勝手すれば反感も買うことになる。それに、うちはもう働き手が足りてない。新しい場所に畑を作るなら、新しい働き手も必要になる」
それは紛れもなく、商家の息子らしい事情だった。恍にもすんなりと理解できる、理由らしい理由だ。
「働き手を集うなら、近くに住んでいる者のほうがいい。働く場所を提供すれば、土地を茶畑に変えてしまうのにも、さほど反対されない」
恍は利点を簡素に述べた。誠勇も渋い表情で頷いた。親の考えと、恍の言った考えが一致していたらしい。
「そのために、村の中から結婚者を?」
一家の面倒を見て、妻に迎えるほどの理由になるか、恍は不審に思った。繰珠の情報では、誠勇には姉がいるらしいが、他に家を継ぐ者はいない。長男の妻をそこらへんの村から選ぶというのは、少し考え難かった。それとも、初めは正妻に迎え、後で後妻や妾をとるつもりなのか。
それにしては、誠勇は鈴歌に執着しすぎている。
「いや、結婚までは、言われていなかった。ただ、村の中で、あいつが、一番可愛かったんだ」
誠勇は恍の問いに首を振ったが、その後は言い辛そうにうつむいて言葉を途切れ途切れに紡いだ。
「村に視察しに、そこで村人の娘と仲良くなれって、言われて行った時に、小さな子供の面倒を見ている姿を見かけたんだ。元気で、泥にまみれているのに、笑っていた」
そう言われると、すんなりと鈴歌がそうしている姿が思い浮かぶ。朗らかで、温かい。恍は誠勇の目を見据えた。目をそらされることはもうなかった。
「笛を吹いている所を、見たこともある。両親には村人の信頼を勝ち取るためだと言ってある。けど、違う。一目ぼれだった。俺はあいつを幸せにしてやれる。泥まみれにならずにすむ生活をさせてやれる。俺は、あいつの笛の音も、あいつ自身も独占したい」




