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微熱を帯びる

 恍はその時間に起きることに慣れてしまった。笛の音が聞こえ出すよりも早く、目が覚めてしまう。日の光りが淡く差し込んでいる。以前であれば寝なおしていただろう時間帯。最近は新年祭に向けて、他の仕事はほとんど入れていない。早く寝るから早く起きるのかもしれない。

 前は仕事がなかった時も昼近くまで眠っていたが、今ではそんなに眠れていたのが不思議なほど、目覚めが良くなった。

 そっと、寝台から起き上がる。体を軽く動かして、伸びをすると、あくびが出た。が、眠くはない。肌寒さに珍しくすぐに着替えをした。いつもなら、朝餉を適当に胃へ放り込んでからようやく身支度を始めるというのに、最近はそれにかかる時間も短くなっているような気がする。

 日が昇ると共に起きて、沈むと共に眠る。模範的な生活に近づいているなと、恍は目を細めた。まるで自分らしくない。自堕落に気の向くまま、起きたくなったら起きて、眠くなったら眠る生活をここ数年続けてきたのに。

 着替えが終わると、笛の音が響いてきた。恍は室の窓辺へ寄りかかり、外を眺めた。川辺に佇んでいる人影が、慣れた動作で笛を吹き始めた。目覚めの一曲が始まる。もうすっかり目を覚ましているが、耳に心地よい。ゆっくりと曲調が激しくなって行く。少年の姿は揺るがない。

 ずいぶんと慣れてきたのか、抑揚をつける時にもたつかなくなっている。自分へ笛を吹くうちに訓練になっていたのかもしれない。少しずつ、何かを手掛かりに黄林の技巧は上がっていた。

 繰珠から聞いた話では、黄林は酒家で少女として給仕をしていて、寝泊まりもそこでしているそうだ。きっと、笛の練習をする時間はないだろう。だが、聴いていると、徐々にだがうまくなっている。誰かが聴いているということが、彼にとってはよく作用したのかもしれない。恍は宴の選曲用と思わしき曲へ移ったところで、紙と筆を用意した。

 何も教えていないし、選曲への答えも出していない。なのに、黄林は成長していく。練習する時間を大量にとれているわけでもないのに、うまくなっていく。恍は不思議な感覚に襲われた。

 昔、そんなことを言われたことがあるような気がした。だが、それを誰に言われたのか、いまいち思い出せない。たぶん老師だろうが、いつ、どんな風に言われたのか、覚えていない。教えてもいないのに、覚えてくるとか、そんな話だったような気がする。

――その後、なんて言われた?

 その時は、すごく衝撃的で、嬉しいような、悲しいような気持ちになったのを思い出せるのに、その言葉が思い出せない。

 恍は外から聞こえてくる笛に意識を戻した。曲名と出来栄えを紙に記録していく。机には昨日黄林から手渡された譜面の束が乗っている。選曲は、悪くなかった。けれど、らしくない感じがした。

 注文を付けられていない状態で選曲をすれば、自然と個性が出る。自分が気づいていなくても、どこかしらに好きな曲や、得意な曲調のものが入っている。それが折り重なって個性として、色を放つ。

 恍はよく繰珠や老師に堅いと言われるが、黄林の出してきたその選曲は、個性を感じさせない手堅い選曲だった。定番のものが多いというわけではないが、曲の組み合わせ方が、よくある手法だった。それが無個性に感じさせるのか、宴としては正しい選曲だが、個人的には面白くない答えだった。

 繰珠に女装のことを聞かされて、混乱していたのもあったが、良いとは言えない選曲を素直に告げるのをためらったがための保留だった。

 やはり自分は、あの少年を可哀相だと思っているのだろうか。他人事のように、感情移入しないように、気を張っているのだろうか。辛かった頃を思い出すのは、彼のせいに違いない。

 恍は下積み時代がない、とよく言われたのを思い出した。老師に師事していても、他の奏者がしていたような、雑多なことをしたことがない。他の奏者たちと自分は、立場も経験してきた修行時代もまるで別物で、それが恨めしく思えるのだと、言われてきた。恍にとって老師とは、親が仕事で知り合った友人の子供、繰珠のお祖父さんで、風変りだがそこが親しみやすい人だった。

 そういった、親と生まれの差で出来た繋がりや立場を気にする奏者は多い。仕事をするようになってからは、その理由も容易く知れた。奏者が気にするのではなく、客がそれを気にしているからだ。奏者は農民の子供でも実力次第ではなれる職業で、一攫千金のような華がある。

 恍が新米だった頃、身分の比較的低い者が同年代に多く、仕事で一緒になることが多々あった。恍が今までに体験した嫌な思い出は、その時にしたものがほとんどだ。

 生まれの差というだけで、こうも卑屈にさせられてしまうのだと、自分が生まれた華やかと呼ばれている社会が、恐ろしくなった。それからというもの、徐々に何かを悪く言われるたびに、何かが欠けて行くような気がして、その社会が鬱屈として、退屈なものに変わってしまった。

 夢を見ていた頃が遥か昔のように思えるが、たかだか四、五年前のことだ。今の黄林よりは年上だったが、まだ少年と呼べる頃だった。恍は目を細め、したためる筆を止めた。

 余計なことを考えすぎたのか、簡単な字を書き間違えた。些細なことだが苛立つ。これは何のために書いているのか。少年に指摘するために書いているんじゃないのか。もうこれでこの紙を見せられなくなった。覚えて指摘しなくてはいけない。

 恍は筆を置いて、目を伏せた。耳をすませて曲に集中する。どうせまた譜面の束を持ってくるだろう。今日は正直に評価してやればいい。椅子にもたれ掛り、脳裏に晴天の舞台に座る少年の姿を思い浮かべる。彼の正装はあまり鮮明に考えられなかった。ただ、舞台にそぐわない曲が吹かれることはなかった。


 恍は大きく吸った息を吐いて、気持ちを落ち着かせるように力を抜いた。全ての曲が終わったらしく、外から笛の音が消えた。川のせせらぎが聞こえる。最近の晴天で、水の量は少ないらしい。微かに聞こえてくる音は爽やかだ。

 少年の声がした。怒気を孕んでいるように聞こえたが、何と言ったかまでは聞き取れなかった。恍は目を開け、窓辺へ立った。川辺を見る。橋の上を見上げている黄林と、橋の上に軒と従者を連れた少年の姿。

 再び少年が何か叫び、黄林はそれを固まったまま見上げていた。

――悪いことか?

 黄林はしばらく体を半分後ろへ振り向かせた体勢のまま動かなかった。動揺しているのか、放心しているのかわからないが、再会を喜んでいるようには見えなかった。

――金貸しには見えない……か

 橋の上で何かを騒がしくまくし立て、少年は従者に軒を走らした。しっかり自分も軒に乗って、橋から消える。町の石畳を軒が走る音が響いて来る。

 金を貸したりする商売は案外儲かるらしい。少年は装飾品でもつけているのか、光の反射があった。それなりの身なりをしているようだ。ただ、少年はあまりそういった商売に向いているようには思えない。あんな目立つ所で追いつめる相手へ大声をかけるような間抜けな真似をする人には向かない商売だろう。

それに、黄林が誰かから金を借りている様子はなかった。金を借りてまで、笛の修行をしていられるような気性ではない気がするのだ。

――じゃあ、なんだ?

 恍は窓辺を離れ、室を出た。嫌な感じがした。


 微かに聞こえてくる、少年の怒声に合わせて、恍は足を速めた。わずかな単語を聞き取ると、眉根をひそめたくなった。

――妻?

 邸の中でかすかに聞き取った、婚礼という響きも気にはかかっていた。婚約者がいたのか。あの、少女には。

 女装して泊まり込みで働いているのではなく、男装して奏者の世界に入る。そう考えると、すんなり納得ができる。少年の幼さの理由も、少女であれば十五、六歳でもおかしくない体型だと、今なら理解できる。

 恍は舌打ちをした。まんまと騙されていたことにも腹が立つが、どうにも聞こえてくる少年の言い方や言い分にイライラしてくる。まるで黄林の話を聞こうという態度がないように思えて仕方無い。

 恍は軒の止まっている角を曲がり、傍で困ったように突っ立っていた従者を押しのけた。抗議を続けようとする少女と、目が合った。眼下の少年は思った通り、派手な衣と輝く装飾品を身に付けていた。体は華奢で、少女と並んでも少し背が高いくらいの違いしかないだろう。

 少女の瞳にまだ強い意志が宿っていることに気づき、かかとで地面を強く踏み鳴らした。いろんな文句はとりあえず後回しにしてやろう。

 ガッと少年が振り返る。怒り狂った瞳が向けられる。自分の思う通りにならなくて、癇癪を起している子供だと思っていいだろう。この少年と、自分を騙し続けた肝の据わった少女の、どちらが気に食わないか、考える必要はなかった。

「何をやっているんだ?」

 声は案外静かで、冷たかった。遠慮もなく少年を見下ろす。

「何だ、お前は」

 煌びやかな服装の少年が、ギラリと目を光らせる。威嚇する動物のようだと、恍は内心せせら笑った。威勢がよいが、頼りになるのは自分の親から貰ったものだけだろう。旅着にも、普段着にも合わないような、きらきらと光る布地の長袍に、裾の長い純白の中衣。首飾りに耳飾り、指にも光るものをつけているに違いないが、長い袖に隠れて覗くことはできない。

「お前とは酷い言いようだな。坊っちゃん」

 恍は目を細めて、固く掴まれた黄林の手を見た。指先が赤くなっている。寒さのせいではないだろう。

――笛を吹く手だぞ

 感覚が鈍ったりしたらどうするんだ。握りつぶしていい手ではない。

「何だお前! そこを退け! 俺の邪魔をするな」

 少年は叫ぶと、どしどしと石階段を上がってくる。黄林は手を引かれて、その勢いに引きずられるように階段を上がっていた。恰好はいつもの赤い袍に袴だ。少年よりもはるかに動きやすいだろう恰好なのに、苦しそうに階段を上っている。

 恍は少年の無遠慮さと、高慢な態度が気に入らなかった。

「そちらこそ誰なんだ? そいつを勝手に連れて行かないでくれるか」

 少年は階段を登り切り、恍の正面へ立った。背は恍より頭一つほど低く、後ろから上ってきた黄林とさほど変わらなかった。体格も男装をしている黄林と同じぐらい、細身で幼さが残っている。

「なんだと? 俺はこいつの婚約者、王誠勇だ。お前はなんなんだ!」

 恍は少年の名前を聞いて、どこの王さんだろうと頭を悩ませた。知っている金持ちの中で王という苗字の人間がどれだけいるものか。名前だけで誠勇の身元を判断することはできなかった。

「それは初耳だ。どこの王さんだか知らないが、今日はひとまずお引き取り願おうか。そいつを置いてな」

 そいつ、と黄林を見た。困惑したような顔で、誠勇を見ている。さっきは声をかけないでも目が合ったのに、今はちらともこちらを見ない。まっすぐな視線が、誠勇に注がれている。

「はあ? なんで俺がお前の言うことを聞かなきゃならないんだ!」

 誠勇が狂ったように早口で叫んだ。頭にキンキンと響いて来るような声だった。声色が高いだけでなく、感情がこもっているから、余計に耳の奥が痛くなる。

「そいつは、俺の弟子だ」

 婚約者ということは、老師のことを、黄林のことを知らないはずがない。狙い通り、誠勇は言葉を失ったように目を見張って黙り込んだ。少し視線を動かせば、黄林までもが、驚いた様子で口を開いていた。

 恍はそこまで驚かれると思っていなかったが、表情を変えずに堂々と誠勇を見下ろす。黄林に訳をしっかり聞くまで、田舎に引っ込まれるわけにはいかない。

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